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「我が国の歴史を振り返る」(59) 終戦とマッカーサー来日

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▼はじめに(我が国に“勝ち目”はなかったのか)

 「大東亜戦争」の歴史的意義などについては、占領政策を振り返ったのちに総括しようと考えています。一体全体、この戦争は無謀な戦争だったのでしょうか、つまり日本側に“勝ち目”はなかったのでしょうか。少し長くなりますが、総括しておきましょう。

元自衛官の私としては、開戦に踏み切らざるを得なかった当時の為政者や軍人達の決心の背景となった、“勝たないまでも負けない見通しや戦略”に関心を持って探求してきましたが、我が国の戦争戦略としての「腹案」を知ることとなりました。

しかし、実際に行われた戦争は「腹案」とは全く別の戦争だったことを知り、我が国の敗戦の根本要因は、“戦争戦略とは全く別次元の戦いを実施したことにある”と結論づけ、本メルマガでも度々紹介してきました。

最近、米国側の「日本に勝利の可能性があった」とする書籍を発見しました。『「太平洋戦争」は無謀な戦争だったのか』(ジェームズ・B・ウッド著、茂木弘道訳)です。帯には「歴史の常識は覆された」とあります。

書籍の細部を振り返り、鋭い指摘を紹介する余裕はありませんが、一度も兵役に服していないウッド氏がこれほど“軍事”に詳しいことに圧倒され、我が国の多くの“軍事音痴”の歴史家・評論家と比較しつつ読ませていただきました。

このような面でも、当時の戦争のみならず、現在においても「敗戦は必至」との感慨を抱きましたが、皆様にもぜひご一読いただきますようお勧めいたします。

▼天皇陛下の決断・降伏

 前回に続く我が国の終戦の状況です。2度の原爆投下とソ連参戦の後の8月9日、ようやく鈴木首相は戦争指導会議を開きます。その席で、東郷外相は「ポツダム宣言」受け入れの条件として「天皇の国法上の地位を変更しない」だけを主張しますが、阿南陸相らはそれに加え、「占領は小範囲で短期間」「武装解除は自分の手で」「戦犯処理は自分の手で」の4条件を主張します。

その夜の午後1150頃から御前会議を開かれます。議題はひとつ、「ポツダム宣言」を外相の1条件で受け入れるか、それとも阿南陸相らの4条件をつけるか、でした。

異例の御前会議においても、両派は意見を述べ合うばかりで意見の一致をみられませんでしたが、日付が変わった10日午前2時を回ったところで、鈴木首相は「まことに異例で畏れ多いことでございますが、ご聖断を拝しまして、聖慮をもって本会議の結論といたしたいと存じます」と天皇の決断を仰ぎます。

天皇は「それならば自分の意見を言おう。自分の意見は外務大臣と同意である」として次のような発言をされました。陛下の切なる思いをご理解いただくために、長くなりますが、ご発言の大筋を紹介しましょう。

「大東亜戦争が始まってから陸海軍が実施して来たことを見ると、どうも予定と結果が大変違う場合が多い。先程も両大臣・総長が申したように本土決戦の準備をしており、勝つ自信があると申しているが、自分はその点について心配している・・・そのような状態で本土決戦に突入したらどうなるか、自分は非常に心配である。あるいは日本民族が皆死んでしまわなければならなくなるのではなかろうかと思う。

そうなったら、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることができるか、今日となっては一人でも多くの日本人に生き残っていて貰って、その人達に将来再び起き上がって貰うほかに、この日本を子孫に伝える方法がないと思う。それにこのまま戦いを続けることは世界人類にとっても不幸なことである。自分は、明治天皇が三国干渉の時のお心持ちを考え、自分のことはどうなっても構わない。堪え難きこと、忍び難きことであるが、この戦争を辞める決心をした」。

10日午前7時、中立国スイスとスウェーデンの日本公使あてに、「ポツダム宣言」を受諾するとの電報が送られ、両公使によって降伏の意思がアメリカ、中国、イギリス、ソ連に伝達されました。

そして午後7時、日本政府の対外情報発信を担っていた「同盟通信社」は、対外放送で日本降伏受け入れ意思を表明しますが、このニュースは日本国民に伏せられていました。

8月14日の御前会議において、天皇は「皇軍将兵、戦没者遺族、戦災者の心中を思うと、胸奥の張り裂ける心地するが、時運の赴くところ如何ともしがたい」と涙ながらに仰せられて降伏を宣言されました。一同、御前も憚らずどっと泣き伏し、中には身を悶える者もあったといわれます。翌8月15日、日本は戦争に負けます。

映画や小説で『日本の一番長い日』として有名になりましたが、無事、「終戦の詔書」が「玉音放送」としてラジオで全国放送されます。今、詔書を読み返しますと、無念さとともに、終戦の決断に至った天皇の想いが伝わってきて涙がこぼれます。

本詔書を起案された安岡正篤(まさひろ)氏は、長い間の沈黙を破り、昭和39年頃、当時の秘話を披露しています。安岡氏がこだわったのは、「日本の天皇なればこそという権威の言葉を選びたかった」として「万世の為に太平を開く」の部分と、「力尽きて仕方なく降伏するのではなく、道義の命ずるところ、良心の至上命令に従って降伏する」とした「義命の存する所」の2点でした。しかし後者は、閣僚達に「時運の赴く所」に修正されたと暴露しています。

氏はまた、詔書を起案したことは名誉ではなく、永遠に拭(ぬぐ)うことができない恨事であり、深く心と魂を傷つけたとも語っています(当時はまだこのような賢人が存在していたのでした)。

天皇の詔書に続き、2日後の8月17日、東久邇宮稔彦王は皇族として初めて首相になり、ラジオで陸海軍に自制を呼びかけるとともに、朝香宮鳩彦王、竹田宮恒徳王、閑院宮春仁王を中国、満州、南方の各方面司令部に派遣して終戦の聖旨を伝達し、軍隊の団結と有終の美を求めます。

占領軍の急激な日本改造を避けるために、先手を打って武装解除を試みた結果だったといわれていますが、我が国の歴史上、このように皇族が自らイニシアチブをとり、依然として血気盛んな軍人らを慰撫するために行動されたのは初めてだったと考えます。

▼マッカーサーの「人間像」

 いよいよ、終戦から進駐軍の占領政策を振り返るところまで来ました。何回かに分けて振り返ってみましょう。

我が国は、終戦後、マッカーサーを最高司令官とし、米極東軍を主体とする連合国軍(通称、進駐軍)に約7年間も占領されます。その司令部の正式名称は、「連合国軍最高司令官総司令部」ですが、一般にGHQと呼称されているのはご承知のとおりです。

マッカーサーが連合国最高司令官として日本陸軍厚木航空基地へ愛機「バターン号」でやって来たのは、昭和20年8月30日でした。その第一声で「メルボルンから日本までの道のりはとてつもなく長く険しい道であった」 と、フィリピンからオーストラリアへ避難し、再びフィリピンを取り戻した後、日本の敗戦でようやく日本へたどり着いた率直な感想を述べています。

その言葉の裏には、フィリピンで一旦は日本軍に敗北し、部下を見捨ててオーストラリアまで逃亡を余儀なくさせられた屈辱感と復讐心が微妙な割合で混じっていたことは明白でした。

その後、マッカーサーは厚木から横浜へ向け移動しますが、沿道には、約2個師団の日本兵がマッカーサーに対して敬意を示すために彼の車に背を向けて拝謁しました。こうして、マッカーサーは、「力」を誇示ながら皇居前の第一生命ビルに入ります。

まず、マッカーサーは、軍人として、そして人間としてどうだったのか、について振り返りますと、士官学校はトップ入学・トップ卒業でした。歴史上、マッカーサー以上の成績で卒業した者はこれまで2名しかいないといわれるほど優秀だったようです。

父は、陸軍中将アーサー・マッカーサー。母メアリーは息子を溺愛し、心配のあまり士官学校在学中は近くのホテルに移り住んだとの有名な逸話が残っており、出世や任地(補職)にあたっては、むしろ母親の影響力が大きかったようです。

その父は、日露戦争の観戦武官として日本に赴任しますが、戦争終了後、マッカーサー中尉も副官として日本で勤務します。その際、東郷平八郎、大山巌、乃木希典ら日露戦争で活躍した司令官たちと面談し、感銘を受けたとの回想記が残っています。

若い将校時代は様々な紆余曲折がありましたが、50歳の最年少で陸軍参謀総長に抜擢され、その後引退します。引退後はフィリピンの軍事顧問として赴任し、大戦勃発後、アメリカ極東軍司令官として現役復帰します。

軍人としての評価は二分されます。最大の汚点は、やはり上記のフィリピン脱出でした。マッカーサーは、自尊心、虚栄心、誇大妄想狂、復讐心などその人間性にも問題があったとの指摘もあります。その上、人種差別・宗教差別主義者でもあったようです。

ちなみに、マッカーサー家は元々スコットランドの貴族の家柄で、祖父の時代に米国に移民しました。チャーチルやルーズベルト(のちのダイアナ妃やブッシュ大統領も、との説があります)とも遠戚関係にあります(意外なところで血筋が繋がっているのです)。

そのようなマッカーサーを最高司令官として指名したトルーマンは、マッカーサーに対して「①天皇と日本政府の統治権は、連合軍最高司令官のマッカーサーに隷属する。よって、権力を思う通りに行使せよ、②日本の支配は、満足すべき結果が得られれば日本政府を通じて行われるべきであるが、必要なら直接行動してもいい。武力行使を含めて必要な方法で実行せよ」と史上空前の権力を与えます。

この権力は、「アメリカ史上、一人の手にこれほど強大で絶対的な権力が握られた例はなかった」(政治顧問ウイリアム・シーボルト)と評されています。

▼マッカーサーの「日本観」

若い頃に来日の経験があり、明治の軍人達に感銘を受けたマッカーサーでしたが、再来日したマッカーサーの「日本観」は当初から厳しいものがありました。日本を勉強し、理解しようとする意欲もなかったといわれます。

マッカーサーは、「征服者の風格」を保つために、国家行事を除き決して日本人と同席しませんでしたし、朝鮮戦争が開始した1950年6月までの間、東京を離れたのはわずかに2度だけだったようです。当然ながら、アメリカの土は14年の間、一度も踏みませんでした。

また、執務室に電話も引かず、秘書も置きませんでした。日本人と会ったのは、天皇陛下、首相、外相、両院の議長ぐらいでそれも公式の仕事上、必要な時だけに限定されていました。

そして、「日本の奴隷的な封建主義が“日本の悲劇”をもたらした」と断言し、逆に「アメリカの“民主主義”が今日のアメリカの強さをもたらした」として「日本の降伏を軍事的敗北だけでなく、“信仰の崩壊”とみなし、この崩壊によって日本国民の中の道徳的、精神的、更に肉体的に生じた完全な空白に民主主義を注ぎ込こもうとした」(『國破れてマッカーサー』西悦夫著より)のでした。

 そのようなマッカーサーが試みた占領政策のうち当初から重視したのが、実は、キリスト教の伝道でした。

マッカーサーは、日本人の魂の空白を埋めるために、キリスト教の伝道を広めようとします。マッカーサーは、「後世の歴史家に“連合国の軍人”としてではなく、“キリスト教を日本にもたらした人物”と書かれたい」と語ったといわれます。

この手段として、愛国心、誇り、道徳、歴史、文化など長い年月をかけて育まれ脈々と受け継がれた日本の「心」を奪い取り、キリスト教を流し込め始めます。

そのため、3000人を超える宣教師を自身の権力を使って呼び寄せ、当時の人口7200万人に対し、約1000万冊の聖書を惜しげもなくばらまきます。国民は聖書を喜んで受領したそうです。

マッカーサーの狙いが的中したかのように見えましたが、当時、紙そのものがほとんどありませんでしたので、大人の多くは、“この聖書を煙草を巻くペーパー”として本来の目的以外に使用したのです(風刺絵になりそうな光景が目に浮かびます)。国際基督教大学も設立しますが、結果として、日本のキリスト教信者は、現在においても、200万人未満(人口の約1.6%程度)にとどまっています。

次回以降、GHQの占領政策に焦点を当てて振り返ってみましょう。(続く)

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