「我が国の歴史を振り返る」(53) 「日米戦争」をいかに伝えるか
▼米国側からみた「日米戦争への道程」
今回のテーマに入る前に前回までの続きとして、米国側からみた「日米戦争への道程」について少し触れておきたいと思います。
「ベェノナ文書」で明らかになった米国の内部事情については、当時の日本にとっては全く預かり知らぬことでありましたが、「日米戦争への道程」を振り返る時、だれもが、歴史の「if」が頭をよぎると考えます。
つまり、①「日米諒解案」を松岡外相が一蹴しなかったら、②近衛首相とルーズベルト大統領の首脳会談が実現していたら、③アメリカの「暫定協定案」が日本に示されていたら、④「ハル・ノート」で日本がもう少し受け入れ可能な条件を提示し、日本側が冷静に受け止めていたら・・・などです。
これらの背景となった、中国の撤兵問題、三国同盟問題、南部仏印進駐と対日石油全面禁輸などの日米の根本的な利害の対立点はあったにせよ、上記の「if」中で、①については明らかに日本側の問題ですが、「ベェノナ文書」により暴露された工作員の活動を含め、②③④については明らかに米国側にも“そうはさせなかった要因”があることは否定できないと考えます。
本メルマガの創刊準備号で、「侵略したのはアメリカであり、アメリカに日本を裁く資格はない」と米国を真っ向から批判して、長い間、発刊禁止になっていた『アメリカの鏡:日本』(ヘレン・ミアーズ著)を紹介しました。
米国においては、ルーズベルト大統領を批判するのは「歴史修正主義」とのレッテルを張られ、タブー視されて来ました。しかし、戦後の時間の経過とともに、米国の史実を暴く書籍や発言が次々に明らかになってきました。
上記の「ベェノナ文書」以外に、2009年、米国の国防政策専門家ジェフリー・レコード氏は「ルーズベルト大統領が日本を『戦争か、米国への隷属か』の二者択一へと追い詰めた」として米国の外交政策の過失を暴くレポートを「米国陸軍戦略研究レポート」上で発表しています。
その中で、レコード氏は、「日本がアメリカとの戦いを決意した動機は、1つは日本の“誇り”の問題であり、もう1つはアメリカによってもたらされた“経済の破綻”であった」として、「“日本の非合理的な決断を強要した”米国の外交が大きな間違いを犯した罪から逃れることはできない」と結論づけています。
そして2011年には、フーバー元大統領の回想録『裏切られた自由』と題した大著がフーバー研究所によって刊行され、世界中に話題になりました。その中で、フーバー氏は、「狂人の欲望が日米戦争を起こした」としてルーズベルト大統領の罪状を暴きます。
フーバーはまた、ソ連の脅威について警鐘を鳴らし続けるなど、ルーズベルト大統領の政策に警告し続け、親しかったトルーマン大統領にも早期講和などを進言しますが、無視され続けます。しかし、大戦後の国際社会は、フーバーが懸念したとおりになっていると考えます。米国内にもこのような慧眼の持主がいたのでした。
国内でもフーバー回顧録の解説を試みた『日米戦争を起こしたのは誰か』(加瀬栄明、茂木弘道氏ら共著)、『太平洋戦争の大嘘』(藤井厳喜著)、『日米戦争を策謀したのは誰だ!』(林千勝著)などの他、『戦争犯罪国はアメリカだった』(英国人ジャーナリスト・ヘンリー・S・ストークス著)などは米国側の要因を研究する参考になると考えます。
ストークス氏は英国人記者ですが、長く日本に滞在して、「日本を戦争犯罪国家とした連合国の戦勝史観は間違いだった」との論陣でもその先頭に立って活動しています。
これら書籍の視点とか内容については、引き続き引用する予定にしていますが、興味のある方はこれらの書籍をぜひご一読下さい。
▼開戦決定後の情勢変化への対応
すでに紹介しましたように、日本が日米戦争を決意した4日後、つまり真珠湾攻撃の3日前の12月5日、ヒトラーがモスクワまであと30キロというところまで近づきながら、攻撃を中止して翌日から敗走、独ソ戦の“潮目”が変わりました。
「ベェノナ文書」には、(開戦に反対していた)マーシャル陸軍参謀総長の「もし日本が12月7日に真珠湾攻撃をせず、翌年1月1日までこの協定(※暫定協定案を指すと思われます)が維持されていたとしたら、その頃は独ソ戦の反攻が始まっていたので、日本は対米開戦に踏み切らなかった可能性がある」との発言も記されています。
米国側にも当時、日米衝突回避のために日米和平の実現に向けてぎりぎりまで模索していた人達もいたことは事実だったようで、「我が国がこの時点で、冷静に、立ち止まって情勢判断をしておれば」と何とも悔やまれます。
開戦を決定した12月1日の御前会議以降であっても、欧州情勢について継続的に議論し、考慮すべきだったと考えますが、あれほど欧州情勢に振り回された政府・陸海軍に「ドイツの攻撃中止」の情報が入っていなかったのか、「この時点の欧州情勢について議論した」とする資料を見つけることはできませんでした。
▼陸軍とドイツの歴史的関係
これら欧州情勢分析の背景ともなった“陸軍とドイツの関係”について、「日米戦争」に入る前に改めて整理しておきましょう。
旧陸軍は明治初期、ドイツ(プロシア)陸軍をモデルとして建軍してきたことは前に述べましたが、陸軍が“ドイツ偏重”になる下地は次のようなものでした。
陸軍の将校は、選抜した13歳から15歳の男子を将来の将校候補者として養成する「幼年学校」出身者と一般の「中学校」出身者に分かれますが、幼年学校の習得語学は、「三国干渉」以来、ロシア語、ドイツ語、フランス語となり、これに対して、中学校出身者は英語と中国語を学んだようです。
当然ながら、成績序列は幼年学校出身者がトップ級を占めることが多く、トップクラスの多くはドイツに留学していましたし、ドイツの武官や補佐官にもトップクラスが就いていました。
このような背景もあって、昭和14年から15年頃の陸軍中央部の幕僚人事は、圧倒的にドイツ関係者が多く、参謀本部・陸軍省の幕僚の中で米英語圏の勤務経験者はわずか2名しかいなかったという人的偏向があったようです。
開戦時の参謀本部作戦課長服部卓四郎は、「大本営・政府ともに、欧州におけるドイツの不敗を確信していたことは事実であった。必ず勝つとは限らぬが、敗れることは絶対ないというものであった。開戦の決意も、戦争計画も、この考慮の下においてなされたというのも過言ではなかった」との回想を残しています。
これらの結果、在ベルリン大島浩陸軍武官らがドイツ側の情報操作に乗せられ、ドイツ側の情報を一方的に東京に流し、その情報が(なんら疑問のないままに)陸軍の判断に繋がるというのは十分あり得ることでした。
当時、ストックホルムからは、ベルリン情報とは真逆、つまり「英国上陸作戦はない」「ソ連に向かって作戦準備中」などの情報もあったのですが、全く無視され、陸軍中央部の“ドイツ信奉”は微動だにしなかったのでした。
さて、12月5日の独ソ戦におけるドイツの「攻撃中止」に話を戻しましょう。なんと当日の日付で、ドイツ大使館付坂西一良(いちろう)陸軍武官から参謀総長宛てに送られた「①南方作戦が一段落した後は、ソ連を攻撃してドイツと呼応することを信じている。②その時期は、状況によるも来年春頃、ドイツ軍のソ連軍追撃戦に呼応して」旨の公電が残っています。
この時点で坂西武官が独ソ戦前線の情報を知っていたかどうかは不明ですが、知っていたらこの電報は打てなかったと思います。
同じ大使館付海軍武官だった野村直邦は、「私らが(ドイツの攻撃中止の)事実を詳しく知り得たのは日米開戦後のことだった。もしこれが日本へ通報されていたら、歴史は変わったかもしれない」と述べています。
陸海軍武官が互いの情報を秘密にしていたことも想像できますが、ドイツ側の情報操作に乗せられたことを含め、「陸軍中央部の人事の偏重が判断を狂わした」と考えざるを得ないのです。
▼我が国の歴史の中の「日米戦争」
さて、いよいよ「日米戦争」に入ります。「我が国の歴史の中で、『大東亜戦争』、なかでも『日米戦争』をいかに伝えるか」については、実はとても悩ましいところがあります。
たぶん、昭和史や「大東亜戦争」の研究家達は、皆、等しく悩んだものと推測しています。よって、その切り口(視点)も様々です。中には意外なものもあります。はじめに、それらの代表的なものを紹介しておきましょう。
前回も紹介しました元大本営参謀・瀬島龍三氏の『大東亜戦争の実相』は、氏がハーバード大学で講演された資料を元にまとめられものですが、その最終章は「開戦」と題し、「ハル・ノート」を巡る日本側の絶望状況が紹介され、その後は大東亜戦争の教訓(総括)で終わります。本来、そのような内容の講演目的だったのでしょうが、書籍のタイトルから期待する戦争自体の実相の紹介や分析はほとんどありません(氏が残された内容自体は、とても示唆に富むものです)。
奇妙なのは、元内閣総理大臣・吉田茂の回顧録ともいうべき『日本を決定した百年』です。このテーマを掲げながら、明治から昭和に至る歩みを少し書き、その後は(自らが活躍した)戦後に話題を移します。後半は、自分の思い出話です。一読するとどうしても「チャーチルの回顧録」などと比較してしまい、ある種の寂しさを感じたことを今もよく覚えています。
一国の総理大臣までやられた人が“日本を決定した百年の中で大東亜戦争を無視できる”との認識だったとは思えないですが、(理由は不明ですが)やはり“書けなかったもの”と勝手に推測しています。
『歴史家の立場』と題し、「大東亜戦争」前後の歴史に触れておられる歴史家の会田雄次氏も不思議です。「大東亜戦争」に関しては、「戦争開始を報道で知り、歓喜と不安が入り交じった」との個人的な感想や「一兵卒としてビルマ戦線で経験したこと」(氏は、マラリアで入退院を繰り返し、ほとんど戦闘に参加していなかったと告白しています)の紹介に加え、無謀な戦争を始めたことへの評価などが主で「大東亜戦争」の全容を客観的・歴史的に分析しているとはとても思えません。
本書もまた、学ぶことがたくさんある一冊と思うのですが、失礼ながら「大東亜戦争」に関しては、「歴史家でもこの程度の認識なのだろうか」と思ってしまいます。
最後に、有名な司馬遼太郎氏は、晩年に『「昭和」という国家』をまとめられ、「昭和というものを書く気になれなかった」との本音を披露しています。その中で、「軍人だけを責めることはできない」と言いつつも、「統帥権」の問題などを取り上げ、明治時代以降の我が国の歴史からみた“昭和時代の異常さ”を解説しています。
個人的に最も残念だと思ったのは、「軍人など昭和時代のリーダー達がなぜこのような判断をしなければならなかったのか」とか「国家的な難局にどのように立ち向かっていったか、その奮闘を外国はどのように評価したか」などの世界史的視点、つまり外から観た我が国の情勢や評価については何ら分析されてないことです。
周りに日本より“したたかな国”がたくさんあり、それらの国々が示した“勝つためには手段を択ばない傍若無人さ”を語らずして昭和史も「大東亜戦争」も語れないと考えているだけに、正直、落胆しました。
他にも、半藤一利氏、田原総一郎氏、加藤陽子氏などをそれぞれの視点で「大東亜戦争」など我が国の戦争を解説しておられます。
これらを紐解いてみますと、各界の高名な人達であっても、「大東亜戦争の全容を正しく伝えることの難しさ」に行き当たり、悩み、その結果としてスキップするか、戦争前後の情勢の推移や戦争の教訓などをまとめることにとどまったと思わざるを得ないのです。
他にも、特定の人物(組織)や特定の戦いなどに焦点をあてて、「大東亜戦争」を振り返る書籍も数多いですが、中には、自己の視点を正当化するあまり、意図的に“史実”から目をそらす傾向にあることにも気が付きました。
ここまで来て初めて、これら偉大な諸先輩と同様の立場に立っている自分自身に気がつき、本メルマガはとんでもないことにチャレンジしていることに思いが至りました。しかし、後の祭りです。
何度も言いますが、私達自衛官は「戦史」を学びます。陸上自衛官は、「日米戦争」に関しては「マレー作戦」から「沖縄戦」に至る陸軍の戦闘について詳しく学びます。そのために購入した陸戦史集や戦闘戦史は今でも本棚の一角を占領しています。海上自衛官も「真珠湾攻撃」や「ミッドウエー海戦」などを詳しく学んでいることでしょう。
これらの「戦史」を詳しく紹介すると本メルマガは果てしなく続くことが予想されます。よって、「日米戦争」についてもこれまで同様、欧州正面の情勢変化などを考察しつつ、我が国の為政者達がいかに戦況を予測し、決断し、戦争指導したかを主に努めてコンパクトに振り返ろうと考えています。(以下次号)