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「我が国の歴史を振り返る」(50) 日米戦争への道程(その3)

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▼はじめに

 記念すべき第50話となりました。今日に至る我が国の歴史を振り返りますと、大陸進出と日米開戦に至る様々な経緯から講和条約締結ぐらいまでが、何と言いますか、“歴史の濃さ”を感じます。

 よって、本歴史シリーズの後半は、国家の命運を決定づけた細部の“動き”を努めて正確に追ってみようと思います。引き続きよろしくお願い致します。

▼「日米諒解案」をめぐる混乱

 陸海軍は、田中作戦部長がリードする陸軍主導のもと、「対仏印、泰(タイ)施策要領」によって、外交による仏印・タイのとりこみと蘭印との経済関係強化を企図した「対南方施策要領」を作成し、4月17日に最終合意します。この時点では、「米英不可分」の見方が陸海軍共有の認識として明確になっていたようです。背景に、この頃からアメリカが大規模な対英武器援助を行う姿勢を明らかにしたことがありました。

 他方、「対南方施策要領」の陸海軍合意の翌日の4月18日(「日ソ中立条約」締結から5日後)、野村吉三郎駐米大使から「日米諒解案」が打電されてきます。

日米両国の友好関係の回復をめざす全般的協定を締結しようとするもので、①中国の独立と日本軍の撤兵、満州国の承認などを条件に米政府が蒋政権に和平を勧告する、②日本は武力による南進を行わないことを保証し、米国は日本の必要な物資入手を協力する、③新日米通商条約を締結し、通商関係を正常化する、とありました。

 最終的に野村大使がハル国務長官と会談した際、ハルは「領土保全」「主権尊重」「内政不干渉」「機会均等」の“現状不変更”の「ハル4原則」をアメリカの基本的態度として示しましたが、野村大使が本国に「日米諒解案」を打電し際、この「ハル4原則」については触れませんでした。このことが、その後の日米交渉の展開に少なからぬ混乱を与えることになります。

「日米諒解案」について、近衛首相や海軍は日本にとって容認すしうるものだと歓迎し、武藤ら陸軍も日中戦争解決に資するものと歓迎しました。武藤は、戦後の回想で「はなはだ満足すべきもので、これで日本は救われたと思った」と述べています。

他方、田中作戦部長は、「日米諒解案はアメリカによる対独参戦のための“時間稼ぎ”だ」と分析し、依然として「対米戦は不可避」と判断していたようですが、諒解案は歓迎しました。

海軍の穏健派は、この諒解案に賛意を示しましたが、日米開戦を念頭においた海軍の中には和平工作を毛嫌いする者がおり、日米交渉の動きを阻害しようとしました。当時のワシントン在住の海軍武官には、早くから和平推進グループを監視・牽制するよう指令が出ていたことも明らかになっています。

▼松岡外相が「日米諒解案」をつぶす

「日米諒解案」については、当然ながら、昭和天皇も素直に喜ばれたようですが、近衛首相には、訪欧日程を終えて帰国する松岡外相がどのように反応するか一抹の不安が残っていました。そこで、「自分で説得しよう」と思い立ち、松岡を出迎えるため立川飛行場まで赴きます。

一国の総理大臣が外務大臣を迎えるためにわざわざ立川まででかける姿はあまりに滑稽です。振り返れば、天皇のご意向に逆らって松岡を閣内に取り込んだ近衛でしたが、まさに自縄自縛(じじょうじばく)となり、その上、主従が逆転し、二人の距離は大きく開いてしまっていたのです。

立川で近衛の目に入ったのは、「日ソ中立条約」を調印し、凱旋将軍気取りでカメラのフラッシュを浴びる松岡の姿であり、近衛はそのパフォーマンスにうんざりして説得を大橋忠一外務次官に任せてしまいます。

案の定、松岡は、外相である自分が関与しないところでまとめられた「日米諒解案」に対しては「盟邦の独伊に対して不信極まりない」と不快感を示します。

そして翌日、松岡は、大本営政府連絡懇談会で驚くべき行動に出ます。「帰国後の歓迎会で飲まされた」とろれつが回らないほど酔って現れ、訪欧の自慢話を吹きまくったのです。近衛が「“原則了解”と打電したい」と発言すると、「2週間ぐらい考えさせてほしい」とさっさと引き上げてしまいます。

後日、松岡は「アメリカの役割は、和平勧告のみにとどめ、日中間での平和条件の具体的内容には立ち入らせない」旨の独自の修正案を作成し、アメリカ側に提示させます。

松岡の修正案にアメリカが歯牙にもかけなかったのは言うまでもありません。野村とハルの日米交渉が再スタートしますが、不信を強めたアメリカの要求は、「日米諒解案」をはるかに越えて硬化し、両国間の隔たりが鮮明になっていきます。

米国の要求は、①日中交渉の相手は蒋介石政権のみとし、②間接的に満州国を否認し、さらには③日本軍の中国駐兵を認めず、④「東亜新秩序」の否定、まで及びます。万事休す!でした。

松岡は天皇にも強硬論を唱え、天皇は松岡の“正気”を疑います。松岡退室の後、木戸内大臣に「外相を取り換えてはどうか」と打診されたとの記録も残っています。ちょうどその頃(6月)、アメリカは、その年の3月に議会を通過させてイギリスに適用していた「武器貸与法」を中国に適用させる決定を行います。

▼裏切りの「独ソ戦」

松岡の強硬姿勢によって再び日米開戦の危機が迫った頃でした。そのタイミングを見計らったように、日米の亀裂をさらに決定的なものにする新たな事態が欧州で発生します。ヒトラーが、有名な「バルバロッサ作戦」を発動し、独ソ戦が勃発したのです(6月22日)。

独軍の総勢300万人、約2700機の航空機、約3550両の戦車がモスクワに向けて攻撃前進し、不意を突かれたソ連軍は総崩れとなります。

ヒトラーが対ソ連戦を決意したのは、「日独伊三国同盟」締結される2か月前の1940(昭和15)年7月末だったとされます。その秘密会議で「英国の希望はロシアとアメリカである。ロシアが打倒されると、英国の最後の望みも消滅するだろう。その暁にはドイツはヨーロッパとバルカンの支配者になれる」と豪語したのです。

他方、アメリカについては日本に牽制してもらうのがヒトラーの魂胆でした。「日独伊三国同盟」締結時に「日本とソ連の橋渡しをする」と口約束しながら、腹の底では真逆の陰謀を画策していたのでした。

ドイツはまた、独ソ戦の開始を日本に事前通告しませんでした。これを“背信行為”として同盟を空文化し、一気に日米交渉を加速させることの可能だったのでしょうが、「日米諒解案」亀裂直後だっただけに、軌道修正は困難だったと推測されます。

▼「独ソ戦」への我が国の対応

独ソ戦前後の我が国の対応を振り返ってみましょう。独ソ戦が始まる2週間ほど前、大島浩駐独大使から「独ソ開戦は確実」との情報が入り、政府・陸軍ともにその対処に忙殺されます。

田中ら作戦部は、またしても「ドイツの侵攻は短期間でソ連を崩壊させる」と見積もり、これを好機として北方武力行使、つまり対ソ戦への強い意志を持ち主張します。そして「独ソ戦になれば、米英ソの連携は強化されるだろうから、西太平洋での米英の動きに備え、仏印とタイを包摂しておかなければならない」と南方武力行使も主張します。

「ソ連が屈服すれば、日本への北方からの脅威を取り除くとともに、イギリスの対独戦意思を破砕して大東亜共栄圏形成の最大の障害を取り除き、南方作戦を容易にする。このことは、米国に対しても強い軍事的圧力となって、対独参戦を背後から牽制する効果を持つ」と考えた結果だったようです。

田中らは、この時点で“独伊枢軸”か“対米英連携化”か、を改めて自問した上で、自らの情勢分析として“独伊枢軸”を選択したのです。昭和陸軍は、ドイツとの同盟を固定的に考えていたわけではなく、“米英連携”も選択肢に入れていたことは事実でした。

この考えは松岡外相とおおむね一致し、松岡もソ連と即時開戦すべきこと、早晩、ソ米英3国と同時に戦わなければならないことを主張します。

これに対して、武藤軍務局長らは「ソ連の広大な領土と資源、それに一党独裁の強靭が政治組織から容易には屈服しないだろう」と判断、「独ソ戦をドイツの勝利で短期に集結する可能性は低く、長期持久戦になる」と見積もっていたようです。

それゆえ、「独ソ戦については事態を静観し、情勢の展開を見守る」という姿勢でした。よって、対ソ武力行使は否定的で、「日米交渉をさらに力を注ぎ、それを活用して日中戦争の解決を促進すべき」と考え、田中と激しく対立します。

田中らも、独ソ戦が必ずしも短期間に終了しない場合も想定し、その際には「極東ソ連軍の動向によっては武力行使し、ドイツと東西からソ連を挟撃しよう」と考えていたようです。

こうして、独ソ戦に伴う国策案について、陸軍省内で意見調整が行われ、田中が主張する「北方武力行使と南方武力行使については、陸軍省軍務局も容認しうる場合に限定する」という妥協案で「情勢の推移に伴う国防国策大綱」陸軍案とがまとめられます。

この間、松岡は「ただちにドイツと共同してソ連を攻撃すべき」と主張し、またしても独断で天皇に上奏しますが、天皇は松岡の判断には否定的で、それを知った近衛は、「三国同盟の前提が崩れた以上、これを無効化してアメリカとの交渉を進め、中国に和平を勧告してもらうしか道はない」と考えます。

大本営政府連絡懇談会においては、松岡の北進論、陸海軍の南進論が対立、激しい議論の応酬となります。両者ともドイツの快進撃に目がくらみ、近衛の同盟破棄論は全く問題となりませんでした。

これらの結果を受けて、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」陸海軍案として「①大東亜共栄圏建設の方針堅持、②自存自衛のための南方進出の歩を進め、情勢の推移に応じて北方問題を解決する」との方針を決定します。この場において、武藤同様、北方武力行使に慎重だった海軍から初めて「対米英戦を辞せず」との強い表現が示されます。7月2日、陸海軍案どおり御前会議で正式決定されます。

この決定は、その後の日本の進路の方向を定めたものとして重要な意味を持っていました。特に、「独ソ戦の動向をにらんで対ソ武力準備を整える」ことが公式に認められ、田中ら作戦部は対ソ戦強化に向けて動きだすことになります。

▼「独ソ戦」の背景と結果

「独ソ不可侵条約」を破って、「なぜヒトラーがソ連を攻撃したか」についてもまとめておきましょう。

これには様々な見方がありますが、その根本は、ヒトラーは「東方に、豊富な資源や農地を有する空間、つまり『生存権』を確保しなければゲルマン民族は生き残れない」と確信し、対英戦争が膠着状態に陥る中、ドイツ軍部も同調して開戦に踏み切ったというのが真相のようです。

その背景に、1937年頃からスターリンが軍部を「大粛清」して軍が弱体化していたことがありました。それもあって、ドイツは、当初は「短期決戦による圧勝」を確信していましたが、ソ連がコミュニズムとナショナリズムを足した「大祖国戦争」と銘打って、犠牲者をいとわず(実際に2700万人が犠牲となります)予備役を大量投入して抵抗したため、予想に反して手こずります。

そしてナポレオン同様、とうとう“冬将軍”に遭遇し、モスクワまであと30キロというところまで近づいた12月5日、攻撃を中止し、翌日から敗走します。

のちに触れます「真珠湾攻撃」の3日前のできごとでした。なぜこのような欧州情勢の大きな転換点を目の前にして、「真珠湾攻撃」を敢行したか、などについてはいずれ振り返ってみましょう。

このように、独ソ戦は単なる「植民地獲得」にとどまらず、「収奪戦争」「世界観戦争」だったとし、「満蒙は我が国の生命線」とした日中戦争と類似するとの見方があることを付記しておきます。

▼松岡更迭と対ソ武力行使断念

さて、その後の日米交渉の経緯ですが、米国から修正案が届いたのは独ソ戦勃発の前日、昭和16年6月21日でした。そこには、「日独伊三国同盟」について従来以上に無力化することを強調する内容に加え、松岡更迭を促す口述書も添付されていました。

近衛首相は、陸海軍ともに日米交渉の継続を望んでいることから、松岡を排除するため、閣内不一致の理由で総辞職を奏上し、7月18日、新たに豊田貞次郎元海軍次官を外相に迎えて第3次近衛内閣を発足させます。ようやく松岡の政治生命が絶たれます。

再三申し上げますが、松岡外相は歴史上、評価に値しない人物だったことに異論の余地はないと考えます。その“任命責任”を考えますと、近衛の松岡起用に至る“ふし穴”を含め、このような二人が日本の運命を大きく狂わしたことは何とも残念至極でした。

その意味では、終始強硬論者だった田中新一を軍事課長から作戦部長に任命した陸軍首脳部にも同様の責任があるのは明白でしょう。その田中ら参謀本部は、この後も北方武力行使にこだわり、在満部隊を総勢85万人まで大動員しますが、独ソ戦の厳しさにかかわらず、日本の参戦を強く警戒していたソ連は、極東ソ連軍の兵力を田中らが期待するほど削減しませんでした。こうして、8月9日、参謀本部は年内の対ソ武力行使を断念します。

その決定の少し前の7月28、我が国は南部仏印進駐を発動しますが、予想に反してアメリカは、「対日石油全面禁輸」措置を強行します。その経緯やその後の日米交渉の展開は次回以降、振り返りましょう。(以下次号)

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