「我が国の歴史を振り返る」(49) 日米戦争への道程(その2)
▼はじめに(終戦記念日に思う)
戦後75年目となる今年の終戦記念日を迎え、いつもながら多くのメディアで様々な企画が取り上げられました。相変わらず「戦争は悲惨だ、戦争は反対!」と繰り返されるヒステリックな叫びのみを取り上げる報道も多かったと思います。
「戦争反対!」に反対する人は誰もいないでしょう。しかし、それを叫ぶ人は、それでは①その結果、まさに最近の香港のように人権や自由が奪われる状態になってもいいのか、そして②その戦争を2度と繰り返さないためにどうすればいいのか、などについてもマスコミが質問しその回答をも報道して、“国民がもっと真剣に考えるべき”と思いながら報道に接しておりました。
もっとも、その回答として「憲法9条がある」と考えている人とは私自身は話をする気にはなれません。日本人は(押し付けられたとはいえ)憲法を順守する義務がありますが、外国人にはありません。日本に“戦争を仕掛ける”意図を持つ国(国民)に「日本の憲法を守れ!」といっても無駄だからです。
終戦記念の特集の中で、私は最も印象に残ったのは、京都大学名誉教授の佐伯啓思氏が「大事なもの置き去りにされた夏」と題した産経新聞正論(8月11日)の記事でした。
細部は省略しますが、佐伯氏は、コロナ禍にある我が国の現状、特に政府と国民の相互信頼が薄れていることをとらえ、「平和と繁栄」の75年の間に、大事なものを置き去りにされたと警鐘しています。中でも、「生の充実を何に求めるか、死の意味付けをどうするかといった人間の根源的な問題が放置されたままで、お盆や終戦記念日が特別なものでなくなった時、我々は、自らの生も死も意味づけることがなくなってしまう」と結んでいます。
本歴史シリーズの最後の方で振り返りますが、すべては大東亜戦争後の「占領政策」によって“日本人の気質を変えられた”ことにその根源があると考えます。私たちは、占領政策で“史実は違う歴史”を叩きこまれ、未だに「それが正しい」と信じて疑わない人達が国じゅうに溢れています。
前回からスタートしました「日米戦争への道程」も史実を努めて詳しく振り返るつもりです。読者に、当時の国のリーダー達がどのような思いや覚悟で、戦争を選択せざるを得なかったかを知っていただくためです。史実を知れば、佐伯教授が言われるように、「8月15日」の意味などについて認識を新たにする日本人が増えると確信するからです。しばらくお付き合いください。
▼第2次近衛内閣誕生と「基本国策要綱」策定
さて前回の続きです。欧州では、1940(昭和15)年5月10日、ドイツが西方攻撃を開始し、オランダ、ベルギー、さらにフランスに侵攻し、破竹の勢いで周辺国を占領してしまいます。この電撃攻撃によって、5月27日にはイギリスのダンケルク撤退、6月14日にはパリ陥落、6月22日、ついにはフランスがドイツに降伏します。
国内では、昭和13年夏ごろから近衛新党結成の動きが強まっていましたが、昭和15年5月下旬ころから、近衛文麿、木戸幸一、有馬頼寧(よりやす)らが会合し、近衛首班の想定のもとの新党結成の動きが活発になります。
欧州情勢の激しい変化もあって、武藤がリードする陸軍は、親軍的新党結成の動きに賛成し、8月、第2次近衛内閣が発足します。しかし、新党は天皇の統治権を制約する“幕府的存在”だとする批判が起きます。その批判を受け、近衛らは新党結成を断念し、“行政を補完する精神運動組織”として「大政翼賛会」の設置に変更、10月中旬、閣議決定を経て「大政翼賛会」を発足します。
独自の政治基盤を持たない近衛は、陸軍の力を背景にせざるを得なかったことに対して、陸軍も親軍的新党によって陸軍が望む国策を実現しようとしていました。その背景には、当然ながら近衛の高い国民的人気がありました。
こうして、武藤らが作成した「綜合国策十年計画」は、近衛内閣の組閣直後に「基本国策要綱」として反映されます。その中で、日満支の結合による「大東亜の新秩序」の建設が明確になります。
▼「米英可分」と「世界情勢の推移に伴う時局処理要領」決定
さらに陸軍は、上記のような欧州情勢を“日中戦争を解決する好機”としてとらえ、「“南方武力行使”は、その対象を極力“英国のみ”として、対米戦は努めて“避ける”」よう方針変更し、陸海軍合意のもとに「世界情勢の推移に伴う時局処理要領」を決定します。
米英の密接な連携を承知しながら「米英可分」と判断したのは、「ドイツの英本土攻撃上陸によってイギリスが崩壊すれば、アメリカは戦争準備の未整備と孤立主義的国内世論の中で南方への軍事介入のチャンスを失う。また、英国が崩壊すれば、その植民地のために日本との戦争を賭してまでアメリカは軍事介入しないだろう」と考えた結果でした。
仏印(フランス領インドシナ)については、フランスの降伏によって援蒋ルートの遮断が可能と判断し、また蘭印(インドネシア)については、その本国オランダ政府はイギリスに亡命する形で存続はしているものの、蘭印の対応によっては石油資源確保のために武力行使の可能性も視野に入れていました。
武藤ら陸軍は、「世界は今や歴史的な一大転換期」にあると認識し、「ドイツや日本などの“現状打破国”と米英など“現状維持国”と争いは避けられない。ドイツは、次々に欧州の強国を征服している。日本の使命は、“大東亜生存権”を建設し、“白人帝国主義”のもとの奴隷的境遇からアジアを開放することだ」と考えるようになります。
この背景には、ドイツの快進撃のあまり、独ソ不可侵条約で棚上げにされた「三国同盟」の動きが再燃し、「バスに乗り遅れるな!」の世論の大合唱がありました。
▼ヒトラーのイギリス侵攻延期決定
しかし、その後の欧州情勢は、陸軍が期待したようには進展しませんでした。フランスを占領してフランス国内の空港使用が可能となったドイツは、1940(昭和15)年7月中旬ごろから本格的な対英航空攻撃を開始し、イギリス本土上空で独英空軍が全力で衝突した大規模な航空戦が行われます(「バトル・オブ・ブリテン」として知られます)。
そして、ドイツ空軍は、イギリス空軍の頑強な抵抗によって制空権を掌握できず、ヒトラーは、イギリス侵攻を翌春(1941年)まで延期することを決断します。
日本国内では、陸軍は「米英可分」、海軍は一貫して「米英不可分」との考えていたと一般にはいわれますが、史実は違います。少なくとも昭和15年7月ごろまでは陸海軍合意のもとに「世界情勢の推移に伴う時局処理要領」を採択し、陸海軍ともに「米英可分」と判断していました。
しかし、ドイツの英上陸作戦が延期された以降、海軍は「米英不可分」の立場を明確に打ち出します。つまり、海軍は、独英間の戦争が長期戦の様相を呈してくると、対英戦にアメリカの介入が不可避ととらえ、「米英絶対不可分論」を唱えたのです。
▼田中新一作戦部長誕生!
同年8月、松岡外相とフランス駐日大使との間で日本軍の進駐と航空基地使用などを認める協定が成立しますが、その矢先の9月、日本軍は、援蒋ルートの遮断を目的に北部仏印(北ベトナム)に進駐を開始します。
この日本軍部隊の独断越境事件により現地交渉が停滞しますが、現地指導に入った参謀本部の富永恭次作戦部長は、強引に武力進駐を実施してフランス軍と交戦状態に入り、交戦は2日間続きます。
この事件によって、強硬派の富永作戦部長は更迭され、後任として田中新一作戦部長(武藤章軍務局長と同期)が誕生します。しばらく中央から離れていた東條陸相が独自の構想を持っていなかったため、これ以降の陸軍の構想と政策は、武藤軍務局長と田中作戦部長によって牽引されます。同じ統制派系のこの両雄により世界戦略を巡る激しい対立が始まるのです。
▼「日独伊三国同盟」締結
一方、ドイツの英上陸作戦延期決定後の9月27日、「日独伊三国同盟」が近衛首相の支持のもと、松岡洋介外相の主導で締結され、日本政府は、独伊側に立って欧州戦争に本格的にコミットする姿勢を明確にします。松岡が外務省内の幹部らだれとも相談せず、ほぼ独断で推し進めた結果でした。
このように、この時点の「日独伊三国同盟」締結は必ずしも陸軍がリードしたものではありませんでしたが、「南方武力行使の際には、独伊との軍事同盟が必要」とする陸軍中央もそれを容認します。それ以上に、当時の新聞はじめ世論の大多数も早期締結を熱狂的に支持しました。
松岡は、対米英軍事同盟を念頭に置き、「日独伊三国同盟」にソ連を加えてアメリカの参戦を阻止しようと考えていました。陸軍は、あくまで、対英軍事同盟にとどまる意向でしたが、アメリカの参戦阻止については一致していました。
これに対して、米英両国の反日的態度は先鋭化し、両国は緊密な連携のもとに対日攻勢を策しつつあり、ソ連を米英陣営に引きこもうとします。この時点でソ連は、米英と日独伊の間で中立的な態度をとっていたのです。
日本は、ソ連の赤化宣伝への警戒を忘れないようにしながらも、あくまで自給自足の経済圏をつくるために南方資源の獲得が必須との考えから、ソ連との国交を調整して、一時ソ連との提携も必要と考えていました。中でも陸軍は、「日独伊三国同盟とソ連との提携は、日米戦争を目的とするものではなく、あくまでそれを回避するためのもの」と考えていたようです。
▼「英米可分」から「英米不可分」へ
さて、田中は作戦部長に就任するや、自ら「支那事変処理要領」を起案します。その基本方針は、米英の援蒋行為禁絶、対ソ国交の調整など、あらゆる手段をもって重慶政府を屈服させることにありました。
ただ、あくまで「大東亜秩序の建設」、つまり南方武力行使によって米英依存経済から脱却した自給自足の経済圏を目指すことを最優先し、直接的な重慶政府屈服は第2義的なものでした。
この考えに基づき、作戦部は、翌昭和16年1月、「大東亜長期戦争指導要領」を作成し、陸軍内で非公式な承認を得ます。その概要は、①仏印・タイを大東亜共栄圏の骨幹地域とする、②ソ連に関してはさしあたり静謐(せいひち)保持を方針とする、ものでした。つまり、ドイツが英本土作戦を延期したこの段階においても、作戦部は、好機捕捉による南方武力行使を維持していたのでした。
同時に、作戦部は「対支長期作戦指導計画」を作成します。それは、日中戦争をそれ自体として解決することを断念し、より大きな国際情勢の変化を利用して解決しようとするもので、これにより、当時約75万の在華日本軍を大幅に削減しようとします。この計画は、陸軍省部でも正式決定され、天皇に上奏されます。
また1月末、「対仏印、泰(タイ)施策要領」が大本営連絡会議で海軍合意のもとに決定されます。これに基づき、田中は「3月末までは南部仏印(南ベトナム)進駐を実施すべき」と考え、武藤局長も同意しますが、この時点では、松岡外相が「対英米戦争を誘発する」として反対します(実際には7月に南仏進駐が実施されます)。
なお、「大東亜共栄圏」という言葉は、昭和15年8月に松岡外相によってはじめて使われましたが、公式文書として使われたのはこの「対仏印、泰(タイ)施策要領」が初めてでした。
▼「日ソ中立条約」締結
その松岡は、昭和16年3月、「日ソ不可侵条約」を締結するため、欧州へ旅立ちます。ソ連との不可侵条約によってアメリカに圧力をかけて譲歩を引き出そうというのが狙いでした。
松岡は、「日ソ不可侵条約」を提案すると、ソ連の回答を待たず、ベルリンに向かいます。ベルリンでは、約30万人の群衆で埋め尽くされ、元首級のもてなしを受けたようです。ドイツの狙いは、日本を対英戦に巻き込むことであり、シンガポール攻撃を求めたのでした。松岡はヒトラーとも謁見し、日本の奮起を促されます。
その後、ローマに向かった松岡は、ここでもムッソリーニから異例の歓迎を受けたのち、「日ソ不可侵条約」の締結のためにモスクワに戻ります。訪独中、独ソ関係が急速に冷え込み、ドイツの斡旋は得られませんでしたが、日独の挟撃を恐れたソ連は、松岡の不可侵条約と北樺太の買収提案は拒否したものの、最終的には北樺太問題を棚上げして、「日ソ中立条約」の締結で妥協します。4月13日、この締結は世界中を驚かせました。
ちなみに、相互に侵略行為を行わないことは共通している「不可侵」と「中立」には日・ソそれぞれの思惑があったと考えます。日本側が求めた「不可侵」は、仮に日本が米国と戦争になった場合、ソ連が交戦国に一切援助を行わないことを求めたのに対して、ソ連が求めた「中立」は、仮にソ連がドイツと交戦状態になった時、日本が中立を維持することを求めたものでした。(以下次号)