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「我が国の歴史を振り返る」(48) 「日米戦争」への道程(その1)

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▼はじめに

 さて、「支那事変」後半から「日米戦争」に至るプロセスについて、“史実”を重視して、まず日本側からみた道程を振り返り、その後、アメリカ側の対日戦略を振り返ることとします。最後に、“「日米戦争」開始に至った要因”に関する諸説のうち、代表的なものを紹介しようと考えています。

実は、このあたりから“史実”そのものが難しくなることも事実です。だいぶ前、Netflixの最新作「WWⅡ最前線 カラーで甦る第二次世界大戦」を観る機会がありました。第2次世界大戦の有名な戦い(作戦)をカラー化した映像で紹介し、それに合わせて欧米の有名な歴史家達(?)が解説するシリーズでした。

驚いたのは、「真珠湾攻撃」の背景解説でした。著名な歴史家とおぼしき人が「東條(英機)が満洲事変を起こした」旨の解説を真面目に語っていたのです。すっかり“興ざめ”してしまいましたが、私には、「東京裁判において東条英機を絞首刑にした勝者・連合国の判断は正しかった」と、何としてもその“正当性を主張”しているように見えました。

世界の歴史学の“レベル”に呆れるとともに、“後世の人々が勝手に創作する”歴史の怖さにショックを覚えた経験があります。しかし、「だからこそ、しっかり“史実”を知る必要がある」と気持ちを取り直したことも事実でした。そのような思いを込めて、当時の歴史のページを開いてみたいと思います。

  • 重慶爆撃の真相

さて以前、1938(昭和13)年11月、近衛内閣の「東亜新秩序」声明が世界に拡散したことを紹介しました。特に、昭和13年12月頃から陸海軍の爆撃機によって強行された重慶爆撃は欧米各国から批判されます。

重慶爆撃についてもう少し詳しく触れてみましょう。爆撃の当初は、米英など第3国への被害は避けるように厳命されていたのですが、重慶の気候は霧がちで曇天の日が多いため、目視による精密爆撃は難しく、だんだん目標付近を絨毯(じゅうたん)爆撃するようになります。

特に、後半の絨毯爆撃作戦は海軍主導で行われ、中国方面艦隊の井上成美参謀長が「日中戦争の早期終結」を目的に提言した作戦でした。しかし、陸軍はその無意味さや非人道性を確認し、爆撃参加を中止します。

この絨毯爆撃に対して、ルーズベルト大統領は、「無差別爆撃は戦時国際法違反だ」と激しく抗議し、その延長で米国の対日制裁が次々に発令され、拡大していきます。日米の直接対立に至ったきっかけの一つもこの重慶爆撃だったのです。

この戦略爆撃はやがて、連合軍によってドイツや日本への都市爆撃に応用されますし、終戦にあたり、米国によって「非人道的な侵略、戦闘行為を繰り返した悪質な軍事国家・日本を倒した」と重慶爆撃は歴史の誇張例としても使われました。

その提言は、海軍の“良識派”と言われた井上成美でしたが、その事実は、なぜか歴史の記録(記憶)から葬り去られてしまっています。改めて、阿川弘之著の有名な『井上成美』を流し読みしましたが、重慶爆撃について触れている個所を見つけることはできませんでした。

次いでながら、だいぶ前に紹介しました第2次上海事変を前に、米内光政海軍大臣が“不拡大派から拡大派に豹変した事実”についても、阿川氏の著書『米内光政』の中で見つけることはできませんでした。読みが浅いのかも知れませんが、どちらも“不都合な真実”としてあえて書かなかったのか、不思議でなりません。

話を戻しましょう。蒋介石軍は、米国製の多くの対空砲台を飛行場付近や軍事施設から市街地域に移動させたため、日本軍はやむなく市街地域の絨毯爆撃を実施したという事情もありました。明らかに一般市民を巻き添えにした蒋介石軍の処置自体も“明確な国際法違反”でしたが、この事実も葬り去られています。

なお、重慶爆撃は、1943(昭和18)年8月まで続き、その犠牲者は、中国側の発表によると1万2千人(一説にはもっと少ない)と言われますが、東京大空襲や原爆投下の犠牲者と桁違いなのは明らかです。

▼我が国は「日米戦争」をいつの時点で決心したか?

 さて本題です。我が国が「日米戦争」をいつの時点で決心したのか、にテーマを変えましょう。当時、我が国の国家としての意思決定は、「天皇陛下の面前で臣下が重要政策を決定する会議」(御前会議)で行われましたが、「日米戦争」の最終決心に至る大きな結節は2回、1941(昭和16)年9月6日の御前会議における「帝国国策遂行要領」の決定と11月5日の再決定でした。

 9月6日の御前会議においては、内閣側から近衛首相、原枢密院議長、東條陸相、豊田外相、小倉蔵相、及川海相、鈴木企画院総裁に加え、統帥部側から杉山参謀総長、永野軍令部長、塚田参謀次長、伊藤軍令部次長が出席していました。

「本案文を一瞥通覧すると、戦争が主で外交が従のように見えるが、外交が不成功の場合に開戦するという理解でよいか?」と確かめた原喜道(よしみち)枢密院長の質問に、及川海相が「できる限り外交交渉を行う」と発言し、原案は可決されました。

会議をまさに終了しようとした時、慣例上、御前会議で発言することはほとんどない天皇が「重大事につき、一言も発言しなかった両統帥部長を質問する。それはなぜか、両統帥部長より意思の表示がないことを遺憾に思う」と述べられた後、天皇は懐から一枚の紙を取り出し、日露戦争が始まった明治37年に詠まれた明治天皇御製の和歌「四方(よも)の海 皆同胞(はらから)と思ふ世に などあだ波の立騒ぐらむ」を詠み上げられたのです。

 ちなみに上記の句で、明治天皇の御製は「波風」となっていたものを昭和天皇はわざと「あだ波」と詠まれ、対米戦争反対の意思を強く表明されたとする解説があることを紹介しておきましょう。

 「帝国国策遂行要領」は、当然ながら、海軍の同意を得ていましたが、その原案は陸軍が作成したものです。ここに至る背景は複雑で様々な紆余曲折がありましたが、この「帝国国策遂行要領」の策定を含めた国の“舵取り”は、主に陸軍主導によって行われていたことは間違いありませんでした。

問題は、「陸軍の誰が主導したか?」です。明治と比較して昭和の陸軍に何とも言えない違和感を持つのは、明治時代は、山形有朋とか児玉源太郎とか、いわゆる陸軍のトップクラスが判断して軍や国政を動かしたのに対して、昭和時代は、陸軍のトップクラスの顔が見えないまま、中堅クラス、中でも「二・二六事件」以降は、統制派のキーパーソンであった永田鉄山、石原莞爾、武藤章、田中新一などが“実権”を持っていたことです。

“下剋上”という言葉ももてはやされましたが、「二・二六事件」のような暗殺やテロの恐怖もあったものと考えます。事実、三国同盟に体を張って反対した山本五十六海軍次官などは「一死君国に報ずるは素より武人の本懐のみ」と始まる遺書まで残しています。

これらから、陸軍(主に中堅クラス)が「当時の千変万化する情勢をどのように分析し、結果として『日米戦争』に至った国策をどのように考え、この難局に立ち向かおうとしたか」を中心に、昭和14年から16年頃の内外情勢と“我が国の命運を決定づけた”その道程について、ポイントをあぶり出しながら振り返ってみようと思います。少し長くなることをご了解ください。

▼米国の「日米通商航海条約」破棄

さかのぼりますが、北支那方面軍(参謀副長は武藤章)は1939(昭和14)年6月、天津租界の封鎖を断行します。これに対してイギリスは、緊迫する欧州情勢に備えるため、日本との紛争回避をめざして外交交渉による解決を望み、日本軍の妨害となる行為を差し控えることを受け入れます。

このイギリスの決心について、中国(蒋介石)が強く抗議します。そのような矢先でした。突如、アメリカが「日米通商航海条約」の破棄を通告してきます(同年7月)。「東亜新秩序」声明や重慶爆撃に加え、日本によるイギリスへの譲歩強要を“重大な事態”と考えたルーズベルト大統領の警告処置でした。

この破棄通告によって、条約失効の6か月後からいつでも「対日経済処置」を実施し得ることを示したのでした(実際に、翌昭和15年1月、「日米通商航海条約」は失効します)。

この米国の破棄声明によって、イギリスは、一転して全面譲歩姿勢から強硬姿勢に決心変更し、交渉は無期延期となりますが、武藤らは、一貫してイギリスに対して強硬姿勢を示します。

天津封鎖問題は、日本(陸軍)にとっては2つの意味を持っていました。第1には、中国に大きな既得権益と経済的影響力を持つイギリスと衝突することが浮き彫りになったこと、第2に、アメリカのイギリス重視が明らかになったこと、でした。

どちらも日本にとって重大な影響を持つ可能性があったのですが、特に石油類の75%、鉄類の49%など、多くの重要物資をアメリカからの輸入に依存していたことから、破棄通告によって、戦争遂行のための戦略的重要物資の供給途絶の可能性が明確になったのでした。

▼武藤章軍務局長誕生!

1939(昭和14)年8月、「独ソ不可侵条約」が締結され、平沼内閣が三国同盟交渉を打ち切りました。あれほど紛糾した「三国同盟」が陸軍にとって無意味になった瞬間でしたが、その後の歴史をみれば、陸軍が「三国同盟」を諦めたことを意味したわけではありませんでした。

余談ですが、旧陸軍は明治初期のメッケル招聘以来、ドイツ陸軍を師としたためか、どうしてもドイツに対するシンパシーが根強く残っていました。それが、イギリスを師とした海軍との差となって、陸・海軍対立の根本原因となったものと考えます。明治初期当時の状況から限られた選択肢しかなかったとは言え、“建軍精神”の重要性に思いが至ります。

話を戻しますと、同年9月、ドイツがポーランドを侵攻して第2次世界大戦が勃発します。「日米戦争」が始まる約2年半前に欧州で大戦が始まったのです。この“タイムラッグ(時間的ズレ)”が我が国の歴史上とても重要な意味を持つことになったと私は考えます。

 欧州で第2次世界大戦が勃発した頃、日本の国民生活は窮乏の一途をたどり、前年の昭和13年5月から施行された「国家総動員法」による統制経済とともに思想統制も強まりました。そのような中、武藤章が北支那方面軍参謀副長から陸軍省軍務局長に就任し、内外の難しい情勢の中、陸軍をリードすることになります。

 他方、元陸軍大将の阿部信行内閣は国民の求心力を失い、力不足とみなされます。一部の政党から内閣不信任案と辞職を勧告され、民政党と政友会から“内閣に善処を求める決議”まで行われました。この時点では、帝国議会はまだ機能していたのです。

 年が明けた昭和15年1月、阿部首相は出身母体の陸軍からも見放されて総辞職し、後任には海軍大将の米内光政内閣が成立します。米内自身は断るつもりで参内した所、陛下から懇願されたというのが真相のようです。

米内首相は、阿部内閣同様、米英重視の外交路線を引き継ぎますが、欧米情勢の激しい変化に加え、生活物資の不足が目立ったことから「コメナイ内閣」と呼ばれるなど、倒閣運動が組閣その日から始まったといわれ、首相として腕をふるうことを許される情勢ではなかったようです。

▼陸軍の「綜合国策十年計画」の策定

武藤局長がリードする陸軍は、欧州の大戦勃発に対して「不介入」の態度をとる一方で、“国家総力戦”に向けた「国防国家体制の確立と日中戦争の早期解決」を当面の課題と考えます。この考えの真意は、統制派の先輩・永田鉄山の考えを継承したもので、「欧州の戦火は、いずれは世界中に拡散し、日本もその去就を決めなくてはならない」とした所にありました。

日中戦争については、重慶政府と直接交渉により日中平和を追求しようとします(「桐工作」といわれます)。一般には、日中戦争の解決が困難になって、その状況を打開するために、陸軍は南方進出し、さらに対米戦へ進んで行ったとの見方がありますが、そもそも“次期大戦にどのように対応するか”が先にあり、日中戦争の早期解決もそのためのものだったのです。

こうした中、陸軍は「綜合国策十年計画」を作成し、同年6月、これをまとめ上げます。その概要は、①日本・満州・華北・内蒙古を「自衛的生活圏」とし、それを軸に②日満中による「東亜新秩序」、③「大東亜を包含する協同経済圏」の三重構造から出来上がっています。

この「協同経済圏」には、東南アジア地域が“資源の自給自足”の観点から含まれており、やがて「南進論」となって「大東亜生存権」につながって行きます。(以下次号)

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