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高橋是清の世界

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[(注)本項は、R.J.スメサースト(鎮目雅人他訳)『高橋是清―日本のケインズ
その生涯と思想』東洋経済新報社、2010、をベースに論ずるものです ]

第1章 高橋是清の財政政策

(1)デフレ不況からの脱出

1931年12月、これまでの民政党政権に代わり、政友会の犬養毅内閣が誕生しましたが、その際、大蔵大臣に招聘されたのが高橋是清だったのです。高橋が大蔵大臣に就任した当時の日本経済の状況はといえば、物価は急落し、失業は増加し、農家は農産物価格の暴落で大打撃を受け、鉱工業生産は停滞し、新規設備投資もほとんど行われる事のない状況にあったのです。こうした状況に対処するため高橋は就任後、僅か半年余りの間に、前政権(浜口内閣)の大蔵大臣、井上準之助が進めてきた保守的な緊縮政策を劇的に転換させ、一連の非伝統的な財政金融政策の導入によって景気刺激を図り、日本経済を回復へと導いたのでした。後にいう高橋財政と称される昭和恐慌対策でした。(注:後述「井上財政と高橋財政の概要比較」参照)

具体的には、まず、前政権が敢行した‘金輸出解禁’を停止し、1932年1月には「銀行券の兌換停止に関する勅令」の公布施行により金兌換を停止、従って、日本は金本位制から離脱し、つまりは管理通貨体制に移行することで「金の保有量」に制約されずにflexibleに積極財政を行うことを可能にしたのでした。

つまり、日本経済を金本位制から離脱させ、ドルとポンドに対して円を切り下げ、公定歩合の引き下げによって金利の低下を促し、日銀券の発行限度額を引き上げる法律を導入、この結果、日本の輸出は好調を持続することが出来たのでした。更に、需要を刺激する為、政府支出の拡大を通じて景気変動を平準化させる財政政策を導入、又、財政の不足は、低利の国債を日銀に直接売却することによって埋め合わせることとし、政府支出は通貨流通量の増加を通じて有効需要を拡大させていく積極財政を進めたのです。まさに、アベノミクスでいう‘異次元の金融緩和’と‘大幅の財政出動’です。

こうした事実上のリフレ政策(注)を断行することで、輸出の拡大と相まって生産と雇用を刺激し、一方、消費者はより多くの支出をするようになり、日本は不況からの脱出に成功していく事になったのです。
1931年12月から36年2月までの高橋財政期に、2%の緩やかなインフレの下で、実質経済成長率7.2%と、その直前の昭和恐慌期(1930-1931.11)の10倍となり株価は70%、地価の下落も止まって1%上昇したのでした。1920年代の長期低迷期と比べても抜群の成果を上げたのでした。岩田規久男は、経済学者の視点から、この成功の要因が、金本位制からの離脱と日本銀行による国債引き受けであった、と指摘しています。

因みに、1929年のニューヨーク株式大暴落からはじまったアメリカの長期不況はどうだったのか。フランクリンD. ルーズヴェルトが大統領に就任したのが1933年3月、彼はニューディール政策(その根幹をなしたのが農業調整法と全国産業復興法の制定)の実行を進める一方で、1937年には「財政支出を大幅に削減し、本格的な財政均衡政策へと舵を切っていくのです。その結果、1938年には再び厳しい景気後退に見舞われることになります。ルーズヴェルト大統領が、ケインズ的な財政政策をとるようになるのは、二期目の1938年4月の景気回復計画からで、それまでは、米国は、金本位制を離脱した1933年4月以降も均衡財政をめざしていたのです。

(注)リフレ政策:年率1~2%の低インフレ率を実現させる政策で、「インフレターゲット + 無制限の長期国債オペレーション」を指す。リフレーションという言葉の初出は1932年2月13日付の英経済誌、The Economist の記事 `Reflation or Bankruptcy’ とされている。尚、鈴木隆(後出)によると、「日本では、石橋湛山が昭和6年以降の講演で、高橋是清の行った政策をリフレーションだと言っている」由。

 尚、以上で見た昭和初期の‘金解禁’を巡る高橋・井上論争は、日本経済の転換期を印す歴史的な論争として有名ですが、その本質はデフレからの脱却であり、今日的に言うなれば、国債のバラマキか、それとも財政緊縮か、つまりは、大きな政府か、小さな政府か、ということで近代国家における政策論争の先鞭となったものと言える処です。そこで、両者の財政政策の違いを分かりやすく以下に纏めてみました。

井上財政 VS 高橋財政

井上準之助の緊縮財政:1929年7月、金輸出解禁(第一次世界大戦時、各国は金兌換を停止)の方針を掲げた浜口内閣が誕生し、その際、大蔵大臣に就いたのが井上準之助でした。彼は直ちに緊縮財政への転換と国民への倹約を呼びかけ、「金解禁で明るい社会が実現する。好景気になる」と、翌1930年(昭和5年)1月に金輸出の解禁(金本位制への復帰)を敢行したのです。しかし金解禁の初日(1月11日)からその論理は破綻、つまり金の海外流出が起こり、翌年に入るとその流れは一層激しくなっていったのです。当時、アメリカから始まった世界恐慌の影響を受け国際収支は悪化、日本の景気も急速に悪化し、昭和恐慌と呼ばれる深刻なデフレ不況にあったのです。これに対し在野にあった石橋湛山、他は井上蔵相の財政政策を批判し、インフレ誘導によるデフレ不況克服を訴えています。 尚、1930年(昭和5年)11月11日、昭和6年度の緊縮予算を決定した三日後、浜口首相は東京駅で右翼の活動家による凶事に遭い、結果、浜口は辞任、若槻礼次郎が後継内閣として浜口・井上の緊縮財政を踏襲したのです。

高橋是清の積極財政:1932年5月、5・15事件で暗殺された犬養首相の後継として斉藤実海軍大将が首相に就任。引き続き大蔵大臣となった高橋は、6月1日「昭和7年度一般会計歳出ノ財源ニ充ツル為公債発行ニ関スル法律」を議会に提出。我が国初の日銀引き受けの国債発行を実施し、政府支出を大幅に拡大させることでデフレ脱却を図る積極財政政策に乗り出したのです。 尚、積極財政による経済政策を乗数効果として理論的に体系づけたケインズの「一般理論」の発刊が1936年ですので、それに先立つ4年前に既に日本で実証されていたことになるわけで、時に是清が日本のケインズとも称せられるのですが、ケインズの政策思想が明確な形をとる以前の段階であり、当時の高橋がケインズ思想の影響を受けた形跡はありません。

(2)軍靴の犠牲となった高橋財政

こうした高橋の積極財政を通じて日本は昭和不況から脱出し得たのですが、一方では、軍部予算の急膨張によって財政はバランスを失い出し、既にインフレの兆候も出てきていました。そうしたことから1936年度の予算編成では高橋は公債漸減方針を強調すると共に、財政の健全化堅持の為、軍事費の膨張を抑制せんと必死に動いた(注)のですが、その結果、軍部との対立が頂点に達したことで、若手将校が決起したクーデターに遭遇し、その凶弾に倒れたのです。2・26事件です

この事件を契機に、軍部の政治への台頭を許すところとなり、日本は世界経済の不況に流される形で、不幸な世界大戦へと進むこととなったと言うものです。因みに、高橋が予算編成に関わった1933年度から36年度までの4年間における国民所得に占める軍事費の比率は6.5%程度で安定していましたが、彼の死後(2・26事件後)の1937年には15%、1941年には27%、そして1944年には76%と急速にウエイトを高めていったのです。

(注)1933年度及び34年度の予算交渉を巡る高橋と軍部との闘争:
・1933年度予算:時の陸軍大臣、荒木大将は通常の手続きを取らず、直接天皇に上奏するという先制行動に出た後、初めて陸軍の予算要求を公にした。大蔵省が受けとった新年度予算要求は過去もっとも大きかった年の4倍以上の12億円、その内半分以上が陸海軍からの要求。内閣は、増税はせず日銀引き受けの国債発行で賄う事とするも、高橋は、荒木陸相、岡田慶介海相に対して、政府の財政上の問題を説明、予算要求額の減額を受け入れるよう要請。最終的には33年度予算要求は14億円、その内軍事費は8億5200万円で前年度比22%増、31年比では2倍以上に膨張した。但し、陸海軍の要求額に比べ大幅な未達に留まったことで、軍部に不満は残った。
・1933年1月、岡田海相に代わって海相に就いた大角岑生大将は軍拡派で荒木陸相と協力、「強力なる軍備を準備していることが現在としてはもっとも有効な平和維持策」と高橋蔵相に予算の確保を迫る。当初大蔵省提示の予算総額20億1700万円、前年度比増6億2000万円の内、軍事費は4億円。最終予算総額は22億2400万円、この内、軍事費は9億4300万円に。高橋としては提供可能と考えていた額以上を陸海軍に提供することとしたが、陸海軍の要求には遠く及ばず、彼らには更に不満が残った、とされている。(スメサースト)

 経済の再生には成果を上げた高橋だったのですが、軍事支出の削減、財政の改善と言った最終目標の達成は叶う事はなかったという事なのですが・・・・。しかし、1936年度予算編成時では、彼は軍部からの激しい抵抗に遭いながらも軍備予算を抑制し、更には削減しようと最後の力を振り絞っていたと伝えられており、自らの信念のために命を落とす結果になってしまったという事になるのです。
尚、高橋は予算編成の過程においてのみ軍部に反対したわけではなく、彼は軍部の侵略的な行動に対しては、とりわけそれが英米中三カ国と日本の関係を脅かすものであれば、一貫して反対しており、というのも後述の通り、日露戦費調達の為に赴いた米欧での経験から日本がやっていく為には彼らと良好な関係を築いていく事が不可欠であると自覚していたためで、そこにみる行動様式は彼の‘原則’(後出)に映る処となっているのです。

かくして、日本格付け投資情報センター社長 の鈴木隆氏は自著「高橋是清と井上準之助」(2012年)で、「命を懸けて自己の政策を貫く、まず、そこから大政治家の仕事は始まる」と言うのですが。

・・・・・さて、安倍晋三は高橋是清になれるか、

まず、アベノミクスがリフレ政策を実行したところまでは、まさに安倍晋三首相は‘是清の世界’にあり、同じ軌道にあるというものです。 そこで、その後のアナロジーですが、高橋は増殖を続ける軍事予算に手を付けようとして殺害されました。一方、現在、我々が直面している大きな財政構造上の問題は少子高齢化を背景として膨張を続ける社会保障費にある処です。社会保障費に手を付けて殺されることはないでしょうが、選挙の洗礼を受ける事にはなる筈です。そこで‘昔は軍事費’、‘今は社会保障費’のアナロジーとなる処で、つまり軍事費の膨張はその後、敗戦という破綻に至って初めて止められたわけですが、社会保障費の膨張は今後何によって止められるのか、真剣に議論する必要があるというものですが、仮にそれに失敗すると、そこには敗戦と同じ悲劇が待っている、ということになるのでしょうか。

そこで、安倍晋三は身を挺してでも、そうした事態を阻止する決意と気概があるか、という事でしょうが、それこそは、まさにアベノミクスに問われるポイントと思料される処ですが、はたして本当の意味での高橋是清になれるか、そういった意味からも、彼の今後の行動様式が注目されると言うものです。

第2章 高橋是清という人物

では、安倍晋三が尊敬するという高橋是清(1854-1936)とは、一体どんな人物だったのでしょうか。そこで、‘安倍晋三は高橋是清を超えることが出来るのか’、その検証の趣旨をも含め、前出、スメサースト「高橋是清―日本のケインズ」に即し、是清の生い立ち、財政家として辿った足跡を見ることとしていきます。

(1)是清 英語を学ぶ

高橋是清は1854年、幕府御用絵師であった川村庄右衛門(47歳)と、川村家に女中奉公に上がった「きん」(16歳)の間にできた非嫡出子で、誕生後は仙台伊達藩の藩士高橋是忠(是清の養祖父母が仙台藩士の子弟であった堀江覚冶を跡継ぎとして養子に迎え高橋是忠に改名したもの)の養子となっています。そして、是清は養祖母、喜代子の庇護のもとで、芝愛宕下の仙台藩の下屋敷で成長しましたが、喜代子はしっかり者で、知的な女性かつ、現実的で独立心が強く、時代の流行に屈することのない公僕としての是清の人格形成にあたって、重要な役割を担ったと言われています。

1864年、10歳の時、仙台藩の意向(薩摩藩、大久保利道の影響もあり)を受ける形で横浜の米国医師ヘボンの私塾で英語を学ぶ事になります。その経緯は次のような事情でした。つまり、当時、大童新太夫と言う意気盛んな28歳の若侍が留守居役で仙台から着任していますが、その彼は、徳川体制が崩壊する方向が見えてきた中で、西洋から学ぶ必要があると、動いていた仁と言われています。そして大童は、後に初期の明治政府の近代化の中心人物となる薩摩藩の大久保利通の影響を受けて、仙台藩は横浜に若者を送り、英語を学ばせねばならないとしていました。ただ問題は、誰を派遣するかです。当時、江戸にいたのは是清と同じ長屋に住む60人の足軽だけでしたが、そこで大童は江戸ですぐに見つけることが出来た二人の子供、是清と彼の友人を選んで横浜で英語を学ばせることとし、計画を迅速に実行することになったのですが、その際は、是清の養祖母は二人の児童が安心して生活ができるようにと、一緒に生活をするのです。

言うまでもなく、そこで培われた英語力が世に出ていく上での最大の武器となっていったというものですが、1867年(慶應3年)には勝海舟の息子・小鹿と米国に留学、1868年帰国後は14歳という若さで大学南校(現東大の前身)の教師に就いています。そして、以下のような多彩な経験を積みながら財政家の道を歩んで行ったのです。

(2)財政家、高橋是清のはじまり

彼の財政家としてのスタートは1881年に新設された農商務省での‘日本初の商標と特許に関する法令の起草とその改訂’作業に始まるのです。時に26歳。初の大仕事ながら首尾よく大任を果している。当時、欧米諸国からは日本が欧米の特許や著作権を無視しているとの非難が高まっていたことで法整備の必要に迫られていた事情があったのです。そこで当時既に英語力について評価が高かった彼が招聘されたと言うことですが、この仕事を通じて後に名声を高める問題解決能力を高めていったとされています。

特許法は1885年7月に施行され、高橋は初代の専売特許局長に任命されるのですが、その直後の11月から1年間、特許、著作権の改定に向けた現地調査のため欧米各国に出張します。

その間、調査目的以外のことについても貴重な見聞を広めたと言われています。つまり、日本人で海外に出るのは極めて少なく、そうした中で、海外で活躍する者の大半はニューヨーク、ロンドン、パリ、ベルリンと言った大都市に集まってはいましたが、現地では言葉の問題もあり、たいして相手にもされていないという事で、であればおとなしい南米、中米に出ていった方がいいのではと、帰国後、彼の役所の先輩である前田正名(注)に報告しているのです。

(注)前田正名:1850年生まれ。薩摩藩の漢方医に生まれる。1858年、緒方洪庵の弟子、蘭学者、八木正平の下で西洋医学と漢学を学ぶ。八木はオランダ語を解し、薩摩が琉球 王国を通じて行った中国貿易に関与していたことから前田は早いうちから外国貿易の重要性を理解していたと言われています。そして外国から学ぶべしとして「攘夷」には反対としていたと言われています。尚、前田に高橋を引き合わせたのは森有礼で、その年1883年。

 その3年後、元山梨県知事の藤村紫明らが、ペルー(カラワクラ)で、ドイツ人で後にペルー中銀総裁になるオスカル・ヘーレンと組んで銀山開発事業をやるという話しを聞いた前田が、井上馨農商務大臣との直談判で高橋を経営者としてペルーに行かせることとし、1889年11月、高橋は特許局長を辞め、横浜を出発、ペルー(カラワクラ)に渡り銀鉱山の経営に乗りだしています。その際、彼は日本人による海外事業の絶好の機会であること、経済面で西洋列強に伍していくには、日本は、自分たち自身の市場を確保するためには海外での事業活動を拡張させていく事が必要、とメモを残しているのです。つまりは、この鉱山をもって日本人による一連の海外事業の嚆矢としたいと考えていた由でした。しかし、準備不足もあり当該事業には失敗し、1892年4月には日本に帰国するのですが、もっともこの失敗経験が、その後の人生に貴重な教訓を得たと言っています。

尚、メキシコから中南米に南下する航海期間中に、別の体験から「富国」とは単に国家を豊かにすることではなく国民生活の水準を向上させることにあるとの考えを得た、としているのですが、それがのちの‘13の原則’につながっていくのです

ペルーから帰国した高橋は、当時の日銀総裁 川田小一郎に請われ、日銀本店の新築工事の現場監督に就任します。これが、日本初の大規模西洋建築という事もあり、工期が遅れ、予算超過、設計トラブルなど問題を抱えていたプロジェクトだったのですが、今言う現場主義を徹底し、問題をひとつずつ解決し、最終的には計画通りの予算で建物を完成させ、その後、正式社員となり、日銀西部支店長に任命されているのです。時に39歳。ここから金融財政の一本道を行くことになり、1899年には44歳で日銀副総裁に就任しています。そして、彼の本領は英語力と改革への取組にあり、途いわれていますが、これが現場主義の問題解決能力がつぎつぎと成果に繋がっていったとされる処です。

(3)日露戦争戦費調達とその教訓 ― 国際的スケールをもった財政家に

1904年2月、旅順港のロシア艦隊に対する奇襲攻撃で日露戦争がはじまったのです。当初想定された戦費は4億5千万円、このうち軍艦など軍備購入に必要な正貨1億円は外国から借入れる他、道はなかったのでした。しかも実際に掛った戦費は膨れ上がり外貨調達の規模は当初目標の8倍の規模になったのです。戦争がはじまった頃、欧米諸国では、「豪胆な子供が力の強い巨人に飛びかかった」、「日本の勝算はない」といった見方が多く、外債発行は多難な仕事だと予想されていました。そして松方正義、井上馨等国家財政に責任を持つ元老達は、この任務を遂行できる人物は、日銀副総裁の高橋を措いていないと考えていたのです。

こうして高橋は、日銀副総裁のまま財務官として1904年から1907年にかけてロンドン、ニューヨーク、ヨーロッパ大陸を駆け巡り外債発行に携わることになったのです。彼は、この仕事を通じて、アメリカのユダヤ系投資銀行家として著名なジェイコブ・シフと知り合い生涯の友となったのです。さらにイギリスのアーネスト・カッセル、アルフレッド・ロスチャイルドなども高橋の熱心な協力者であったといわれています。高橋は、これら投資銀行家達との付き合いのなかで、国際金融市場に飛び交う機密情報、海外借入れの際に要求される財政規律と健全性など高度の実践的知識を得たと言われています。そして経済発展をめざす日本にとって英米との協調が不可欠であること、さらに日本という国家のあり方、とりわけ軍事優先政策のもつ危険性、経済成長の成果を労働者階級と分ちあうことの重要性など広い分野について、当時世界で活躍していたトップクラスの投資銀行家達と真剣な意見交換を繰り返したのです。日本の国家としての優先順位は何かという、国家経営の基本問題を、外部から客観的に自分の目で見、かつ考える、という貴重な機会に恵まれたという事でした。

そして、高橋は日本が、資金、近代技術、希少天然資源を全面的に英米に依存しているという冷厳な事実を改めて思い知らされたという事で、実際、日露戦争に要した費用のおおよそ半分をイギリス、アメリカ、ドイツおよびフランスの資本家から借り入れており、その返済のために増税と、長い時間が必要だったのですが、彼は、英米両国は日本が最も恩恵を受けた同盟国であることを学んだということで、この認識は生涯変わらなかったと言われています。

さて困難が予想された外債発行に成功したことで、高橋の評価がガラリと変わり一気に政財界の頂点に上り詰めることとなるのでした。
しかし、日本は、戦争が終わった翌年には「帝国国防方針」を策定し、陸海軍が競って軍事力の増強に乗り出す一方、国債が増発されて、第一次大戦までの10年間の日本は借金まみれの状態にあったのです。高橋は、こうした状態が如何に危険であるかを理解しており、ことあるごとに財政引締めを提唱してきていました。しかし、高橋が学んだ教訓は正当に評価されることはなく、彼の提言は歴史のなかに埋没したのです。

1911年、高橋是清、56歳の時、松方正義らの支持を得て日銀総裁に就任します。そして1913年、日銀総裁就任後1年半が経とうとしていた時、海軍大臣山本権兵衛首相に請われて大蔵大臣に就任します。これが是清にとって政界への入り口となったのです。
生粋の海軍軍人であった山本は、高橋と顔を知っているくらいの関係でしたが、松方正義から「財政金融の第一人者」だと推薦されていたのです。高橋は、山本から突然に呼び出され、「自分は内閣組織の大命を拝した。一つ大蔵大臣になってくれ」といわれて、ほぼ即答に近い形で引き受けたのです。

この時のことを高橋は次のように語っています。「山本は『自分は日露戦争の後にどうも財政が大事だと考へ、経済の事で一体民間でどういう人が良いかと云うことを松方公に聞いた。・・・君は国家のためならば、己を空しゅうして尽くすと云う事をきいた。君を大蔵大臣にすると云っても、君の手腕を第一に頼りにする、と言うのじゃない。君の精神を頼りにして頼むんだ』といった。そこで私(高橋)は、『己を空しゅうして国家のために尽くすと云う精神に至っては、私は決して人後に落ちぬ。手腕を問はぬと云うことであるならば宜しい、お受けしよう』と云うことになって、すぐその場でもって、わずか五分間ぐらいで決まってしまった」と。この山本内閣での蔵相体験、そして日露戦争で学んだ教訓が、1930年代の「高橋財政」の前奏曲となったのです。この時、高橋は政府の倹約と合理性を提案し、内閣の主要政策目標の中に、官僚機構の規模の縮小と、年功序列でなく業績に基づいて役人を昇進させるシステムを導入することを掲げていたのです。

(4)現場主義の財政政治家に

高橋が大蔵大臣として取った財政政策については前節で触れた通りですが、ここで注目すべきは、彼が取ってきた意思決定とその具体化に向けた姿勢でした。高橋は情報に依存しつつ現場での意思決定する事の重要性、そして効率性を認識し、行動してきたと言われていますが、要は、政策の意思決定権限を現場に委譲し、分散化すると共に、組織改革に取り組み、組織の規律を重視して成果に繋げていった、と言う事でした。

因みに、昭和恐慌以来の不況で疲弊した農村救済問題は、当時政治的な焦点となっていたが、高橋が、蔵相として斉藤内閣の下で実施した農村経済更生政策は、今日から見ても新鮮かつ具体的なものだったと言えます。即ち、財政による救済と相まって「農村漁村自ら奮起し」、「官民一致の協力により、統制ある組織的な農村経済更生の施設を樹立し、これが確実なる実行を期する」としていたのです。その方針は土地の利用配分、労力の利用、農産物の販売、肥料その他農業経営用品の供給改善、農業経営の改善、農業金融の改善、負債整理等々について、農村経済更生計画を樹立させ、これを実施することに拠り自力更生を図らんとするものでしたし、更に農村リーダーを旧来の地主から自作農中堅層に切り替えること、従来の肥料商や米穀商の力を抑制し、産業組合を中心とした経済更生を図るなどの新しい方向が打ち出されているのです。もっとも、これら新機軸は戦争で中断され、戦後になって本格的開花を見る事にはなったと言うものでしたが。

また「高橋財政」のもとで推進された産業政策は、円安と相俟って、化学肥料、人絹、工作機械をはじめ電気機械などの分野でも最新技術を導入した新しい産業が次々と登場してきました。不況脱出から次の成長に向かう新たな経済循環がはじまっていたのです。その裏には、高橋の革新的な産業政策思想があったとされるのですが、それは「高橋財政」の成功に貢献したもう一つの要因でもあったされる処です。

序でながら、高橋は「随想録」のなかで、「経済難局に処するの途」(昭和10年1月)と題して、こうも述べています。
「経済的の施設は一朝一夕にその効果を望めるものではない。少なくとも2年ぐらい経たなくては真の効果は挙げ得ないのである。私のやったことをいうのは可笑しいようだが、昭和6年暮れの金輸出再禁止以来とつて来た政策の効果というものが現れて来たのは漸く昭和8年の下半期頃からであった。しかし国際的にも国内的にもこういうむずかしい時世では個々の問題について目安は定めて置いても、一定不変の政策を押し進めていくことが出来ない場合が起り得るのである」と。

1937年の日中戦争の勃発によって日本の産業は、軍事産業化に向けて急傾斜していきましたが、戦後につながる産業政策の雛形が登場したのもこの時期でした。中村隆英は、「ようやく産業構造が高度化し、設備投資や建設投資が増加して、鉄鋼、セメント、機械類をはじめとする投資財が本格的に需要される時代が到来していたのである。戦争さえ起こらなかったならば、戦後にみられた設備投資を起爆剤とする経済成長が可能だったかもしれない」と述べています。実際に、この1931年以降の高橋財政の下、日本の近代産業の中で先行し1930年代半ば迄に最大の輸出商品に成長した綿織物は、「イギリス経済のエンジン」といわれ、長い間世界市場に君臨してきたランカシャー綿織物を追い越して世界市場でトップの地位に躍り出たのです。(注)

(注)中村は「昭和史Ⅰ」のなかで、イギリスの産業革命を導き、約1世紀間世界市場を席巻したそのイギリス綿織物を追い越して、世界トップの座についた日本の綿織物について、それは、高橋が、前田正名と共に構想した産業政策、つまり日本経済の発展のためには、軍事力と関連の深い重化学工業の育成ではなく、伝統産業や地域産業の振興と輸出産業化を優先すべきであるとする政策論が、証明されたことと評価す


第3章 高橋是清の「13の原則」

高橋は、1905年から27年(昭和2年)にかけて、横浜正金銀行の頭取、日銀副総裁ならびに総裁、首相、5度の蔵相を歴任してきていますが、その任期中を通じて、攻撃的な外交政策、過剰な軍事支出、そして外国からの借り入れが日本の信用状態を脅かすような場合にはこれに一貫して反対してきたのです。1906年には鉄道国有化に関する提案に反対しています。これは欧米の金融市場に於いて日本が漸く獲得した地位がこれによって危険に晒されると考えていたためと言われています。また1912年(大正元年)には中銀総裁でありながら、陸軍の二個師団増設要求に反対していた政党に肩入れしたりしています。これは日本の金融面における健全性を保つためであると共に、軍隊が強くなれば、対外的な侵略―従って戦争―の危険性が減るどころか、むしろ増すのでは、と考えていたためと言われているのですが、先に見た‘予算’を巡っての高橋と軍部との争いも同様で、つまりは、国はどうあるべきか、言うなれば高橋の国家観がなせるものであったと言われています。

こうした多能な高橋でしたが実は、正規の教育を受ける事はなかったのです。しかし、その生い立ちと世界を股にかけた実務の経験に裏付けられた現実主義的な考え方と問題解決能力、更にその基礎となった自身を含め物事を対象化して観察する卓越した能力を有していたという点で、明治大正期に活躍した人材の中でも稀有な存在だったと言うものでした。仙台伊達藩の足軽身分という出自のために、封建末期の古典教育とは無縁であったこと、さらに高橋と同世代のエリート達が受けた近代の正統教育に囚われなかったことが幸いしたとも言われています。普通でない出自、幼少時から10代の時期に尋常でない経験をし、多様な人脈のなかで、物おじしない胆力と、人を見る眼が研ぎすまされていったという事と言えるのです。

尚、日本は高橋財政によって昭和恐慌からの脱出に成功し、この間(1931/12~1936/2)の実質成長率は7.2%、インフレ率2%という良好な成果を上げているのです。その成果は金本位制からの離脱と日銀による国債の引き受けにあるとよく言われていますが、それ以上に、高橋が意思決定者として直接指揮をとったこと、更に彼の問題解決能力こそが最大の成功要因、と評価する向きは多々というものです。

テロに倒れ、究極の目的は達し得なかったとはいえ、財政家としてかつ政治家として大成した背景にあったのは、何としても卓抜な英語力、それをベースに作り上げていった国際的な人脈、そして情報能力、更には、その情報をベースに世界における日本の立ち位置を理解し、そのためには何をなすべきか、つまりは高い国家観を持って、自ら前線に立つ行動の人だったと言うことでした。

なお、その彼には、政治家として行動していく上での信条を、以下の「13の原則」として携えていたと言われています。それは、まさに彼の国家観を映す処でもあるのです。

[ 是清、13の原則 ]
1. 政府の責務は、自国経済成長の促進をはかること
2. 経済発展の目的は、国家の財政基盤の強化と国民の生活水準の向上にあり
3. 国の富と国民所得の増大には労働者の生産性を向上させ、その利益を分かち合う
4. 所得分配については平準化の為、累進所得税を採用する
5. 政府は国民の生活水準の向上と国民が国の統治に役割を果せるようにする
6. 政府は、特に不況時、歳入以上に歳出を増加させ、自国通貨を減価させることによ
って、財政金融政策を通じて経済成長を刺激する
7. 政府は経済が過熱している場合、財政収支の均衡、財政黒字の計上、自国通貨の切
り上げによって財政金融政策を通じて需要を縮小、インフレを抑える事が出来る
8. 過剰な軍事支出は、国の健全性のみならず、国防そのものも危険に晒すことになる
9. 外交政策は文民が主導権を握り、軍人はこれに追随するべき
10. 日本の外交、金融政策は英米中心の枠組みと強調しながら運営されるべき
11. 日本の他国との競争は、帝国建設や戦争を通じてではなく、貿易を通じて行う
12. 中国との関係において日本は、先行き日本にとって世界における貿易上の競合相手ではなく、むしろ貿易相手国となりうるという意識を持って、強力な統一された中国の建設に向けて努力すべき
13. 持続的な経済成長にとって必要なのは、中央集権的な意志決定ではなく、市場における情報。

 それら原則からは改めて、是清がリベラルな思想の持ち主であったこと、更には、今言う処のグローバルな感性を持った、日本国の進むべき方向とガバナンスの在り方を常に考えていた人物であった事が窺えるのです。訳者の鎭目雅人氏は‘訳者あとがき’で、「世界経済の現実を見据えつつ地域コミュニテイの重要性を強調するという高橋の政策思想は、現代の用語で言えば‘グローカル’な視点に通じるものであり、極めて今日的な含意を持つもの」と指摘していますが、まさに今、尚、示唆的と映る処です。

第4章 現代マネジメント思想の実践者

さて、高橋は、私心のない客観的な立場に立って問題の根本に迫り、教条主義的な理論や通念にこだわることなく、自分の理屈で効きめのある解決策を探し考え抜いた。そして彼の議論では常に目的が明確であり、それに向けての道筋が意識されていた。これが、R.J.スメサーストがいうところのeclectic pragmatist(視野の広い目利きの実用主義者)の本領であり、彼が高橋を「日本のケインズ」と呼んだ理由であったと思料するのです。

是清は、随想録で次のように述べています。「私がよく根本ということを言って、原内閣の時代にも『君はいつも根本とか国家とかいう事ばかり言う』と云われたけれども、それがちょうど、農商務省で前田君に会った時に感じた私の考えから、終始ずっと進んで来よる。それで何か一つ計画を立てるのでも、根本はどうかということを私はいつも考える。これを行った結果はどうなる、病の根本はどうであると云う風に、根本から考えていく。而してこれを行うに就いて、国家がどうなるという事を考える。だから、今ちょっと事柄が起こった、どうこれを処置したらいいかという場合、一時的なことは考えない。起これば起こった原因から調べていかねばならぬ。」さらに高橋は、かつて農商務省時代に前田正名から学んだことだが、としながら、これらの解決法は市場情報に依存しつつ現場で意思決定するのが効果的であり成果につながるということを、自らの経験を通じて確かめていったものと言える処です。つまりは、政策を主張するに当っては、政策当局者は理論的な分析のほかに熟練した臨床医のような直観力をそなえていなければならないという事を地で行く処と言うものです。

高橋は、その生涯を通じて幾回となく、当時の日本人の中で誰もやったことのない困難な仕事に挑戦し見事に成功を収めました。R,J,スメサーストは、高橋が、「政治と経済についての思想家(an economic and political thinker)としても時代に先行していた」と述べています。高橋は、国家がその目標に向けて効果的に機能するために何が大切なのか、その考え方についても言及しているのです。これら国家のあり方と、その諸原則は、彼がそれまで携わってきた様々な仕事と、それを通じて世界に広がった人間関係、前例のない問題についてその根本に迫り解決策を考え抜く過程で育まれ、練り上げられたものであり、大きな成果に貢献した経験、知識を集約したものであったのです。

ところで高橋が活躍した当時、「マネジメント」という19世紀末のアメリカに登場した概念は、生産現場の仕事に適用される諸原則という限定的な性格を帯びていました。しかし、第二次大戦の経験を経てアメリカで体系化された「マネジメント」の概念を、ドラッカーは「成果を生み出すために『既存』の知識をいかに有効に適用するかを知るための知識」であると定義しています。ここで「知識」とは、効用としての知識、すなわち社会的・経済的成果を実現するための手段としての知識を意味しています。

さてこれまで様々な視点から高橋の足跡、業績について見てきましたが、彼の思想、そして行動を、ここでいう「マネジメント」の概念を擁してみるとき、よく理解できると言うものです。つまり、彼はマネジメントの核心の部分に触れていたのであり、そこに彼が大きな足跡を残した理由があったということができるのです。

以上、高橋について、その経歴とその仕事を中心にして論じてきましたが、その活躍した時間の長さ、浮沈の激しい仕事経験とその広がり、さまざまな分野で上げた画期的な成果と、どの点から見ても特筆すべき足跡を残しているというものです。そしてこの多彩な活動を貫く一つの軸が、今日いうところのマネジメントの思想に他ならなかった、ということができるのでは、と思料するのです。勿論、今日においても、日本では‘マネジメント’は理解されにくい概念です。戦前期において、その実践者は例外的な存在だったというものであり、ましてや体系的な理解者はいなかった筈です。それだけに、高橋是清は、日本におけるマネジメントの思想を実践した先駆的な人物として再評価されるべき存在と思うばかりです。

さて、‘高橋是清を尊敬する先人’と公言する安倍晋三は、アベノミクスを通じて彼に迫り又超えることが出来るのか?
この6月には、新成長戦略が出され、漸く回復への足掛かりができてきた、それを本格的な回復に繋げんとするものであり、その戦略の実行が期待されるというものです。が、いまや安倍政治を巡る環境は極めて不安要素に満ち溢れているのですが・・・。

 ・・・・・さて、安倍晋三は高橋是清を超えられるのでしょうか

 

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