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「我が国の歴史を振り返る」(33) 「大正時代」が“残したもの”

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▼はじめに

 今回もいきなり本文から入り、最後に総括しましょう。

陸軍の軍縮とその影響

 第1次世界大戦後の世界的な“軍縮ムード”は海軍だけに留まりませんでした。特に我が国の場合、“長年の仮想敵国であった帝政ロシアがなくなった”との理由で、陸軍への軍縮要求は更に強まりました。この時点ではまだ、共産主義国家・ソ連の脅威の増大を見通せなかったのでした。

「参謀本部」を“軍閥の牙城”として廃止まで考えていたといわれる原敬首相が暗殺されてから3ヶ月後の1922(大正11)年2月1日、山県有朋が死去します。個人的には、明治から大正時代にかけて、我が国の国防の牽引車として山県が果たした役割はまさに“余人を持って代えがたし”、称賛尽くせないものがあったと考えますが、「まるで地獄の蓋が開いたような軍に対する批判が議会で噴出した」(岡崎久彦氏の言)のでした。

これらを受けて、陸軍は2度にわたり軍縮を行っています。1回目は陸軍史上初の軍縮となった「山梨軍縮」(大正11~12年)と呼ばれるものであり、約6万人の兵士と1万3千馬の軍馬を整理します。しかし、組織編成の外容はそのままにするなど経費節約が不徹底のまま近代化のための新規予算を要求しましたが、「関東大震災」が発生したため(後述します)、新規装備の導入が困難となります。

2回目は「宇垣軍縮」(1925(大正14)年)と呼ばれ、日露戦争後に編成した4コ師団を一挙に廃止し、震災後の厳しい中で予算を獲得して装備の近代化に図ろうとします。これにより、3万6千9百人の兵士と5千6百頭の軍馬が廃止されますが、その見返りとして、初めて航空科も新設され、機関銃隊の編成、戦車の誕生などある程度の近代化は進展します。しかし、軍縮をめぐって陸軍内部には深い“しこり”を残す結果ともなります。

「関東大震災」による甚大な被害

時は少し相前後しますが、1923(大正12)年9月1日、相模湾北部を震源とする海溝型の巨大地震が発生し、人口密度の高い首都圏や南関東を中心に観測史上最大となる死者14万人、全壊家屋約25万4千戸、被害総額約65億円(当時のGDPの約4割、国家予算の約5倍に相当。現在の貨幣価値換算で約320兆円)にのぼる甚大な被害が発生しました。

ちなみに、記憶に新しい「東日本大震災」の被害総額が16兆9千億円(GDPの3.6%、国家予算の17%)であったことを考えますと、「関東大震災」が当時の日本にいかに天文学的な大被害を与えたかが想像できます。

第1次世界大戦の戦争特需が終わり、株価などが大暴落した直後の震災被害のダメージはその後長く尾を引き、やがて「昭和恐慌」に繋がっていきます。

▼「大正デモクラシー」の総決算

「大正デモクラシー」もいよいよ終盤に近づきました。1918(大正7)年の米騒動以降、本格的な政党内閣の原内閣を経て、「普通選挙」を要求する運動が全国に展開されます。併せて労働運動も盛り上がり各地に労働組合も組織化され、加えて、「全国普選期成連合会」も結成されて各地で大会やデモを開催しました。

1920(大正9)年には最初の「メーデー」が実施されるなど社会運動も激化し、22年には日本共産党も非合法的に結成されます。同時に、農民の耕作権確立要求や婦人の地位向上を目指す婦人運動なども活発化しました。

こうした中、「ワシントン体制」が成立する一方、国内では「関東大震災」による大混乱が発生し、多数の朝鮮人・労働者・社会主義者が虐殺されるという不幸な事件も起きます。1924(大正13)年1月、貴族院に基礎を置く清浦奎吾(けいご)が“超然内閣”を組織しますと、これに反対する「第2次護憲運動」が発生します。

このような経緯を得て、加藤高明を首相とする護憲3派内閣が成立し、1925(大正14)年、「普通選挙法」を制定します。これにより納税要件は撤廃され、25才以上の男性は選挙権を持つことになりますが、婦人と朝鮮人・台湾人には依然として参政権が与えられませんでした。

また同時に、ロシア革命のような“社会変革”を恐れた枢密院の圧力があって、激化する社会運動に備えるための「治安維持法」も制定されます。これにより「国体の変革」や「私有財産の否認」等を主張する者を対象に取り締まることが合法化されます。

一般に、「普通選挙法」と「治安維持法」の2つの法律制定をもって「大正デモクラシーの総決算」といわれています。「普通選挙法」に基づく実際の選挙は、1928(昭和3)年より42(昭和17)年まで計6回行われます。「治安維持法」は、28(昭和3)年には“死刑”、41(昭和16)年には“予防拘禁制”が加えられ、終戦後の45(昭和20)年10月に廃止されるまで、「激動の昭和」の象徴のように“ 猛威を振るう”ことになります。

「日ソ基本条約」によるソ連承認

1923(大正13)年、アジアの歴史の大転換となった孫文の国民党政府が広東で樹立されます。協力したのはロシアの革命政府でした。広東政府は「ソ連容共」の方針でソ連教育団を士官学校に迎え入れます。校長は蒋介石、副校長は周恩来でした。この時代から“複雑な中国事情”が始まります。その細部については、後ほど取り上げることにしましょう。

国内は、25(大正14)年の加藤内閣以降、憲政会の単独内閣が32(昭和7)年に犬養毅首相が暗殺されるまで8年間続きます。この間は、軍の政治介入を許さない、国際基準からみても完全なデモクラシーだったといわれます。この時代の外交は、「協調外交」(前回も紹介しました)を貫いた弊原喜重郎外相の主導によって行われます。

さて、1917年に成立したソ連は、列国の干渉戦争にもかかわらずこれを打倒するのは不可能となり、まずイギリスが承認(1924年)し、列国もこれに続きます。共産主義への敵意が強く、シベリア撤兵の問題があった我が国でしたが、中国における権益を守る目的もあって、1925(大正14)年、「日ソ基本条約」を締結し、日ソ間の国交を樹立します。

ちなみに、当初から共産主義の危険さを〝脅威〟として認識していたアメリカは、「アメリカが承認すればソ連の威信と国力が高まる」と4人の大統領が承認行為を拒否し続けますが、1933年、就任したばかりのルーズベルト大統領がソ連を承認します。

1926(大正15)年12月25日、生来健康に恵まれなかった大正天皇が47歳の若さで崩御され、「大正時代」は終わりを告げます。

▼「大正時代」から「激動の昭和」へ

「大正時代」を総括しましょう。外には、「第1次世界大戦」の勝利、ロシア革命から「シベリア出兵」を経て、我が国は、念願の「1等国、5大国の一員」になりますが、アメリカの台頭もあって「日英同盟」の破棄や「ワシントン体制」を強要され、陸海軍の軍縮も進みました。

 内には、「大正デモクラシー」の興隆の中、明治時代から続いた藩閥政治が終焉して政党内閣となり、民主政治が定着したかに見えました。しかし、現職首相が暗殺されたり、わずか15年の間に内閣総理大臣が10人も変わるなど、内外情勢の難しい時代、国の“舵取り”はけっして盤石ではありませんでした。

「大正時代」を振り返る冒頭で、「激動の昭和」に至る道筋を決めた「大正時代」と紹介しましたように、やがて昭和に入り、内外情勢が益々厳しくなる中、軍人が台頭するなど「大正時代」の“反動”のようなものが表面化します。

改めて、なぜそのような“道筋”になるのだろか、この時代の為政者たちの“決断”は正しかったのか、また、「大正時代」は何を残したのだろうか、などの疑問に行き着きます。そして、歴史は、後戻りはできないものの、後々の歴史から逆算すると多くの「if」が頭をよぎってしまいます。

さて次回から、いよいよ「昭和」に入ります。「正しい歴史の理解」に思いを致しつつ、歴史の“繋がり”を重視ながら、内外情勢、外交政策、軍人など為政者の葛藤、国民精神、中でも「満州事変」から「大東亜戦争」に至る“戦争の歴史”を主に「激動の昭和」に歩を進めることにしたいと思います。

本メルマガの第1回目に「本メルマガ発信のきっかけ」を書きましたように、メルマガ自体の発信目的は、戦後、歪めて教えられ、伝えられ、そして理解してきた「激動の昭和時代」を振り返り、本当は何が起きていたのか、つまり“史実”は何だったのかを解明することにありました。その意味では、ようやくそのスタートラインに立ったと考えています。

何度も言いますが、歴史の見方は一様ではありません。そして時代とともにその解釈も変わります。教育界では、今頃になって「江戸時代に鎖国はなかった」と長い間の“定説”を覆しているように、“正しい歴史の理解”にはどうしても時間がかかります。

周辺国との間の歴史解釈においても、中国とは「相互理解の促進」を目的とした「日中歴史共同研究」を両国の歴史学者によって3年間にわたり繰り広げられたようですが、中国側の「日本は侵略戦争の加害者、中国は被害者」とする基本的視点を到底覆すことはできず、結果として「歴史の共有」は叶わなかったと日本側の歴史家達が書籍にまとめています。また、お隣・韓国との歴史認識の較差については取り上げるまでもなく、永遠に埋まらないでしょう。

ただ幸いにして、戦後70年余りを過ぎた現在、長い間、ベールに包まれていた外交文書等が公開され始めたことから、内外の心ある歴史家などによって、戦前の“史実”が逐次つまびらかにされつつあります。それでも「敗戦の代償」とも言うべきか、一度容認した「歴史観」を修正するのは容易ではなく、政府の公式見解や言論界の主な考えは、依然としてかつてのまま根強く残っていることも事実です。

これらから、本メルマガにおいては、70年あまり過ぎて明らかになった事実を含め、これまで同様、日本史と世界史に〝横串〟を入れつつ、できるだけ“史実”に忠実に時代を追って振り返り、そこから先は「読者に考えていただく」との立場に立って歩を進めたいと思います。請うご期待!(つづく)

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