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「我が国の歴史を振り返る」(29) 「大正デモクラシー」の第1幕と「第1次世界大戦」参戦

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▼はじめに

 「大正時代」に入り、我が国が「大正デモクラシー」の第1幕、つまり内向きの争いをしていた時、欧州で「第1次世界大戦」が発生し、日露戦争の勝利を支えた「日英同盟」よって、我が国も地球の反対側の出来事に巻き込まれることになります。

しかし、当時の為政者達の決断は安直で自制心を欠いていなかったでしょうか。先人の行動を真似る傾向にある我が国の為政者達の性癖を考えると、大陸政策の当初段階の“自制心の欠如”がその後の「命取り」になったと思えてならないのです。これから振り返る歴の中で、その付近を感じ取っていただければ幸甚です。

▼「大正デモクラシー」―第1次護憲運動の原因と結果

 その「大正デモクラシー」の定義自体は諸説あって、その実態を把握するのは意外に難しいと思います。まず、「大正時代」冒頭に発生した「第1次護憲運動」を振り返ってみましょう。そのためには再び“明治時代の政治体制”をレビューする必要があります。

「明治時代」は、明治維新を遂行した薩摩と長州出身者を中心に政権をたらい回しに独占してきました。「藩閥政府」と呼ばれています。特に、明治後期には、憲政の中心には伊藤博文、軍事の中心には山県有朋が存在していました。どちらも長州出身で吉田松陰の門下生でもあります。

他方、自由民権運動などの影響を受け、イギリス流の議員内閣制を目指す学士官僚や日清・日露2度の戦争の膨大な戦費をまかなうための重い税負担に苦しむ国民の不満が高まり、政治参加を求める動きに成長していきます。

この動きにいち早く対応した伊藤は、1900(明治33)年、「立憲政友会」を創設しますが、政党政治を嫌う山県と対立することになります。その結果、1901(明治34)年から13(大正2)年までの13年間、伊藤の後継で立憲政友会第2代総裁・西園寺公望(きんもち)と山県派閥の軍人・桂太郎が交互に政権を担当します(「桂園時代」と呼ばれます)が、次第に政党政治に向けた基盤が整備されつつありました。

このような中、「日比谷焼き討ち事件」(1905(明治38)年)の流れで政治運動化したのが、1913(大正2)年の「憲政擁護運動」(第1次護憲運動)でした。

きっかけは、前年の12(大正元)年、陸軍の2コ師団増設要求に対して西園寺内閣が「日露戦争後の急迫した財政では無理」と判断して否決した結果、上原勇作陸軍大臣が辞表を提出したことにありました。

西園寺は、山県に後任大臣を依頼しますが、山県は自ら作った「軍部大臣現役武官制」を利用して取引しようとします。しかし西園寺は応ぜずさっさと総辞職してしまい、後継はまたしても桂となります。今度は、陸軍の2コ師団増設に反対する海軍が海軍大臣を出さないという事態になりましたが、桂は即位したばかりの天皇を利用し、勅書を使って組閣してようやく第3次桂内閣を発足させます。

これに対して、「藩閥打倒」「憲政擁護」をスローガンにした抗議運動が激しさを増して全国に広がり、最終的には群衆が議会を取り囲んだ結果、桂内閣は失意のうちにわずか2ヶ月で倒れ、ついに「桂園時代」が終焉してしまいます(「大正政変」と呼ばれます)。そして山本権兵衛を首班とする薩摩・政友会内閣が生まれるのです。

山本内閣は、さっそく、「軍部大臣現役武官制」の改正に取り組み、軍部大臣の補任資格を「現役に限る」としたものから予備役まで拡大し、藩閥の影響力を排除しようとします。しかし、陸軍系の反発は強く、山本は「シーメンス事件」(海軍部内の収賄事件。陰謀説もあります)で総辞職してしまいます。

ちなみに、改正後の「軍部大臣武官制」の実際の運用は、予備役・後備役・退役の将官から軍部大臣を任命した例はなく、一旦、現役に復帰してから大臣に任命しています。また、山本内閣の後を受けて大命降下した清浦奎吾(けいご)は、海軍拡張について海軍と合意できず、海軍大臣候補を得られなかったために組閣を断念します。このように、本改正は必ずしも徹底されないまま時が過ぎ、昭和に入り、再び「軍部大臣現役武官制」が復活するのです。

我が国が「全方位外交」を強いられるような情勢下、「大正デモクラシー」の第1章はこのような混乱の中の幕開けとなり、その混乱はまだまだ続くことになります。

「第1次世界大戦」の勃発・拡大

我が国が内向きの“争い”に明け暮れていた時、欧州ではとんでもない事件が発生しました。1914(大正3)年6月、ボスニアの首都サラエボでオーストリア皇太子夫妻が暗殺されたのです(有名な「サラエボ事件」です)。本事件はやがて「第1次世界大戦」に発展しますが、本シリーズにおいては、欧州で発生した大戦の細部を振り返る余裕はないので、戦争の勃発から拡大の概要のみを紹介しましょう。

クラウゼヴィッツは名著『戦争論』の中で「戦争は偶然の世界である。人間活動のどんな領域でも不可知の物事がこんなに大きな地位をしめるところはない。・・そのことがあらゆる状況の不確実性を増加させ、事件の進行を攪乱させる」とまさに「第1次世界大戦」の展開を知っていたかのように語っています。

現在でも“きな臭さ”が残るバルカン半島は、当時から欧州の〝火薬庫〟といわれ、地政学的にも欧州列国の“利害”が集中する地域でした。そのバルカン半島で、当時は、ボスニアの領有を巡ってオーストリア(ゲルマン人国家)とセルビア(スラブ人国家)が対立していました。

そして、日露戦争で敗れたロシアが「汎スラブ主義」を利用して、再びバルカン半島経由で〝南下〟を企てれば、「汎ゲルマン主義」のドイツやオーストリア・ハンガリーなどの中央同盟国と対立するのは必定だったのです。 

「サラエボ事件」が起こるや、オーストリア・ハンガリーがセルビアに最後通牒を発すると、ロシアが総動員を命じます。ドイツはロシアに最後通牒を突きつけて動員を解除するよう要求しますが、それを断られるとロシアに宣戦布告します。

ロシアは、連合国の母体である「三国協商」を通じてフランスに西部戦線を開くよう要請した所、「普仏戦争」(1870年)の復讐に燃えていたフランスは総動員を開始、それを見たドイツがフランスに宣戦布告します。

仏独国境は両側とも要塞化していましたので、ドイツは有名な「シュリーフェン・プラン」に基づき、ベルギーとルクセンブルクに侵攻して南フランスに進軍します。ドイツがベルギーの中立を侵害したため、イギリスがドイツに宣戦布告し、日本も同盟国イギリスの要請によりドイツに宣戦布告します。

東部戦線は、ロシアがオーストリア・ハンガリーに勝利しますが、ドイツは何とか東プロシアへの侵攻は食い止めていました。一方、西部戦線は消耗戦の様相を呈し、1917(大正6)年まで塹壕線が続きます。

1914年11月になるとオスマン帝国が中央同盟軍に加入、戦線はメソポタミアやシナイ半島などに拡大します。翌15年にイタリア、16年にブルガリア、17年にはついにアメリカがそれぞれ連合国側に加入します。こうして、総計7千万人以上の軍人が動員され、戦いは1918年まで続くのです。

クラウゼヴィッツではありませんが、このように、「第1次世界大戦」の展開は、だれもが予測していなかった“不可知の偶然”の積み重ねの結果だったとしか言えようがありません。

日本の参戦経緯―4日間で参戦決定―

「第1次世界大戦」の日本の参戦経緯を振り返るためには、どうしても当時の我が国の政権の実態を知る必要があると考えます。

1914(大正3)年4月、山本権兵衛内閣が総辞職するや、山県有朋は相変わらず政権への執着を見せ、前回取り上げたように清浦奎吾の組閣断念の〝すったもんだ〟のあげく、立憲同志会の大隈重信内閣が誕生します。

山県と大隈は犬猿の中だったようですが、陸軍の師団増強に反対する多数党の政友会第3代総裁・原敬の組閣を防止するとの思惑から大隈を推挙したと言われています。“毒をもって毒を制する”という山県の本領(執念)が見える組閣だったようです。

佐賀藩出身の大隈重信は、明治維新当初から政府の様々な要職で大活躍し、1898(明治31)年には、薩長藩閥以外からはじめて内閣総理大臣を拝命し、日本初の政党内閣を組閣しました。だが、アメリカのハワイ併合に強硬に反対したことが原因で、わずか4ヶ月で総辞職してしまいます。

その後、政界を引退し、早稲田大学の総長に就任しますが、第1次護憲運動が起こるや政界に復帰し、76歳で2度目の内閣を組閣したのでした。

大隈は山県の期待に応えて、1914(大正3)年の総選挙で原敬率いる政友会を230名の絶対多数党から一気に108名にたたき落とし、2コ師団増設を実現します。

そのような中、「第1次世界大戦」が勃発し、同年8月4日、イギリスはドイツに宣戦布告します。「日英同盟」には“自動参戦条項”がなく、同盟の適用範囲もインドを西端とするアジア地域に限定していたため、当初、イギリスは「日英同盟は適用されない」としていました。

その後、日本参戦をめぐるイギリスの態度は、日本の“中国大陸の権益拡大”に対する警戒や、“ドイツ領南太平洋の占領”に対するオーストラリアの懸念、そして中国や米国の「日本の参戦反対」をイギリスに伝えていたことなどの背景があって、二転三転します。

日本は、当初「中立」を宣言していましたが、山県や井上馨ら元老が「我が国の世界的発展の好機であり、この機会に一大外交方針を樹立すべき」との要請書を大隅首相に伝達したこともあって、8月8日、ドイツに宣戦布告した上で、「参戦範囲を限定しない」との条件で参戦を正式に閣議決定します。我が国は、イギリスの参戦から遅れることわずか4日、当初の「中立」を翻し、元老一致の賛同を得て、第1次世界大戦の参戦を決めたのでした。 

なおこの決定には、加藤高明外相が強く主張したとの解説はありますが、(調べる限りにおいては)陸海軍が積極的に関与したとの記録はありません。特に、シーメンス事件で失脚した山本権兵衛前首相や齋藤実前海相が辞職していた海軍は、この政治的決定に消極的だったようです。

イギリスは“戦域限定”を要求しますが、日本側はこれを拒否し、大隈首相が「日本の領土的野心はない」と延べ、ようやくイギリスも参戦を了解します。よくいわれる「日英同盟に基づく英国の要請」にはこのような“駆け引き”があったのです。

▼青島要塞の攻略

日本政府は、1914(大正3)年8月15日、ドイツに最後通牒し、8月23日宣戦布告します。

日本軍は、9月上旬、山東半島の青島や膠州湾を攻撃、約5千人の守備隊で要塞化されていた青島を占領し、さらに済南から膠州湾に至る山東鉄道を奪取します。こうして約2ヶ月にわたる攻防で、「第1次世界大戦」間、陸軍唯一の戦闘を終えます。青島攻略は、日露戦争時の旅順の教訓を活かし、要塞の詳細を解明するために飛行機を初めて使用するなどして模範的な攻撃を実施、死傷者も300人弱に留まりました。

海軍は、ドイツ艦隊を追ってドイツ領の南洋諸島を占領します。また、陸海軍とも国際法を遵守し、青島で捕獲したドイツ人捕虜(4700人)に対する丁寧な取扱いも話題になりました。これら一連の戦いは「日独戦争」と呼称されることもあります。(以下次号)

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