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「我が国の歴史を振り返る」(26) 「日露戦争」が日本に与えた影響

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▼はじめに

 だいぶ前、北方四島に「ビザなし交流」で訪問し、酔った上で「戦争しないとどうしようもない」旨の発言をして所属党から除名された国会議員がニュースになりました。私も過去に「ビザなし交流」で訪問した経験があり、ロシアの不法占領の“現状”や返還運動のこれまでの“いきさつ”などを熟知していますが、当時、“若いとは言え、国会議員とはこの程度か”と思ったことをよく覚えています。

その要因は「歴史や安全保障の本質を知らない」ことにあると考えます。今回の本文でも少し触れておりますが、不法占領に至った歴史や“国の体制は変わっても「民族の血」は変わらない”との事実、さらには、ロシアの伝統的な“南下政策”やオホーツク海の戦略的価値などまで考えないと、“ロシアにとって「核心的利益」”とする北方四島の価値は理解できないものと考えます。

よって、“交渉による返還の可能性はわずかにあっても、戦争によって簡単に奪い取ることなどできるものではない”となぜ理解できないのでしょうか。戦前も“無責任な発言が国の舵取りを狂わせた”例は枚挙にいとまがありませんが、国民の代表たる国会議員の不勉強さに思いが至った一件でした。

最近また、プーチン大統領が、欧州議会が「ナチスドイツとソ連の『全体主義』が第2次世界大戦の勃発の道を開いた」との“ソ連批判”に対抗して“ソ連の立場を擁護”するなど、「歴史戦に狼煙(のろし)」をあげたことがニュースになっています。我が国に関して言えば、戦後75年、ロシアはいよいよ北方領土占領を正当化しようとしているのです(そのいきさつは本文をご参照下さい)。

改めて「歴史は繋がっている」と実感するのですが、今回は、本文でもそのことを実感していただければ、と願っております。

▼「日露戦争」がロシアと米国に与えた影響

さて、本戦争が「世界の歴史を変えた」ことはすでに述べましたが、日露両国のみならず、米国の外交政策にも大きな影響を与えました。

まず、敗戦したロシアは、講和の結果、革命を目指す勢力と議会創設を狙う勢力の間で大衆を取り込むための競争が益々拡大し、ストライキも広がりました。「日露戦争」翌年の1906年には始めて議会選挙が実施され、その流れはやがて「ロシア革命」に繋がっていきます。

また、戦争責任を問われた軍部の権威は失墜し、10年後の第1次世界大戦時の最初の1年だけで約50万人のロシア人が戦線から逃亡したといわれるほど、その影響は長引くことになります。

敗戦の“記憶”も長くロシア人の中に残り続けます。あまり知られていませんが、「ポーツマス講和条約」からちょうど40年後の1945年、米・ソ・英によるヤルタ会談文書―「ソ連の対日参戦協定」(ヤルタ密約)―によって、遼東半島の租借権や南満州の鉄道に関する権利、それに樺太の割譲などは、「日本の背信的攻撃によって侵害された」と解釈され、ソ連の「参戦条件」として“反故”にされてしまいます。

しかも“千島列島の引き渡しまで不当に水増し”され、この結果が、現在の北方四島の不法占領の根拠となっています。遠縁の従兄にあたるセオドア・ルーズベルト大統領が仲介した条約をフランクリン・ルーズベルト大統領が「密約」という形で“反故”に同意したのでした(その細部についてはのちほど触れましょう)。

その米国のセオドア・ルーズベルト大統領は、元々親日家であった上、金子堅太郎の活躍もあって“仲介の労”を採った功績により米国大統領として初のノーベル平和賞を受賞します。

仲介の背景は、①中国の“門戸開放”を狙う米国としては、日露のいずれかが満州で圧倒的勝利を収めることを回避したいとの思惑があった、②米国は、本講和条約を伝統的な孤立主義―「モンロー主義」―から脱却するきっかけにしたかった、などと分析されています。

いずれにしても、その後の歴史をみるに、この頃を境に米国の外交政策、中でも対日政策が変わったことはまちがいないと考えます。

▼「大衆」が「力」を行使―「ポピュリズム」の始まり

一方、日本においても、戦争の結果が特に「大衆」と「軍部」の地位に大きな変化を与えます。まず「大衆」の登場です。 

そのきっかけとなったのが講和条約締結でした。講和条約において、「樺太の割譲と賠償金の獲得を断念する」との決断に対して、ほぼすべての新聞各社が批判する立場をとって大衆を煽り、暴徒化したのが「日比谷焼き討ち事件」(1905(明治38)9月5日)です。

本事件は、吉野作造をして「民衆が政治上において一つの“勢力”として動くという傾向が始まった」と言わせ、「日本のポピュリズム」の始まりとなりました。これ以降の我が国の歴史は、(扇動するマスコミを含め)大衆が様々な形で「力」を行使し、これらを抜きにして語ることができなくなったのです。

教科書では「日比谷焼き討ち事件」の名称ぐらいしか教えませんが、参加者約3万人、逮捕者約2000人・起訴者308人、警備側の負傷者約500人、群衆の死者17人・負傷者2000~3000人に及ぶ大規模なものだったことは記しておきたいと思います。

▼「軍部」の変化―「軍部大臣現役武官制」の導入

次に「軍部」の変化です。明治から昭和までの歴史を振り返る際に欠かせない“キーファクター”となるのが「軍部」です。ここでいう「軍部」とは、軍の最高指揮権を有する「統帥部」(陸軍は「参謀本部」、海軍は「軍令部」)と内閣(政府)側の「陸軍省」と「海軍省」を合わせたものを指しています。

「統帥部」は、大日本帝国憲法の「統帥権の独立」を受けて、「統帥部」は内閣とは別個に、かつ陸・海軍もそれぞれ別個に“作戦を発動”できたのですが、「軍部」と内閣の関係はそれに留まりませんでした。戦争の少し前の1900(明治33)年、山県有朋首相は「軍部大臣現役武官制」を導入しました。

明治の初め、軍部大臣(陸軍大臣、海軍大臣)に相当する「兵部卿」の補任資格は「少将以上」となっていましたが、その軍部大臣の補任資格を「現役武官の大将・中将に限る」とせばめたのが「軍部大臣現役武官制」です。その目的は、内閣と軍部が対立した際、軍部大臣を辞職させて内閣を総辞職に追い込むことにあり、政党に対して、「軍部」の権力を盾に“藩閥の影響力を維持”するための措置だったといわれます。

この「軍部大臣現役武官制」は大正時代初頭に見直され、昭和に入って再び復活する“運命”を辿りますが、結果として後世に甚大な影響を与えることになります。

▼「帝国国防方針」の策定 ―陸・海軍対立のはじまり

次に、「日露戦争」後に策定された「帝国国防方針」を取り上げましょう。「帝国国防方針」とは“国防の基本戦略を記した軍事機密文章”であり、「帝国国防方針」「国防に要する兵力」「帝国軍の用兵要領」の3部から構成されています。

戦争の結果、日本は、南樺太を領有、韓国を保護国化、関東州を租借地とするなど防衛環境が一変します。そして、1905(明治38)年8月には、それまでの“守勢同盟”から、より積極的な“攻守同盟”に強化された「第2次日英同盟」も調印されます。

このような中、陸・海軍はそれぞれに軍備拡張を競い、「海主陸従」とかとか「陸主海従」などの対立が表面化してきます。策定の経緯は省略しますが、1907(明治40)年4月、陸・海軍の妥協案として次のような「帝国国防方針」が採択されます。

つまり、「①帝国の国防は攻勢を以て本領とする。②将来の敵と想定すべきは、露国を第一とし、米、独、仏の諸国之に次ぐ。③兵備は、露米の兵力に対し、東亜に於いて攻勢を取り得るを標準とする」との方針です。

これらから、「実質的な想定敵国は米露2カ国で、両者の差はない」と読み取れ、これ以降終戦まで、陸軍は露国、海軍は米国を想定敵国として軍備拡張を競い合うことになります。ただし、「海軍は当時から対米戦争を予期していたかどうかは疑問であり、米国は軍備拡充の目標に過ぎなったようにも認められる」(瀬島龍三氏の言)が当時の実態であったと推測されます。

なお、「帝国国防方針」は、じ後3回にわたり改定されますが、策定そのものは憲法による「統帥権」の範囲とされ、「国防方針」のみを閣議決定し、「国防に要する兵力」は内閣総理大臣のみが閲覧を許され、「帝国軍の用兵要領」は閲覧も許されませんでした。

▼「不平等条約」の改正

江戸時代末期の安政年間から明治初年にかけて、日本は欧米列国との間で「不平等条約」を結び、欧米列強の支配する世界に編入された時から、条約改正は、“明治政府の悲願”というべき基本政策でした。

そのために行った「鹿鳴館外交」のような“涙ぐましい努力”の細部は省略しますが、その悲願は、「ポーツマス講和条約」締結から5年後の1910(明治41)年、列国と条約改正交渉を開始し、翌11年に改正条約の締結を完了してようやく達成されます。「ペリー来航」で開国してから、実に56年の歳月が流れていました。

日露戦争後、列国と間に交換される外交官も「公使」から「大使」に格上げされ、条約改正によって日本は“列国と対等の地位”を得て国際法上も“独立国”となったのです。

▼「日韓併合」の真実

元帥・山県有朋が「一国が独立を維持するためには、単に『主権線』を守るだけでなく、進んで『利益線』を守護しなければならない」と有名な「主権線・利益線」を主張したのは「日清戦争」以前の1889(明治22)年でした。

ここで言う「利益線」とは暗黙の内に「朝鮮」を意味しましたが、「朝鮮を占領」するのではなく、あくまで「朝鮮の中立」化が主意であり、「この『利益線』を侵害するものが現れた場合、軍事力をもってしても排除し、中立を維持する」との指針だったのです。そして、この指針のもとに、我が国は「日清戦争」と「日露戦争」を戦ったのでした。

余談ながら、山県のこの考えは、伊藤博文が大日本帝国憲法を策定するにあたって最も影響を受けたと言われるウイーン大学教授のローレンツ・フォン・シュタイン教授の考えがヒントになっていました。皮肉にも、その伊藤博文の暗殺が「併合」の原因ともなります。いきさつは次の通りです。

1904(明治37)年、「日露戦争」が勃発してまもなくの2月23日、日本は韓国の“独立を保障”するとともに、韓国防衛義務などを定めた「日韓議定書」を締結します。次いで、朝鮮半島での日露の戦争が終了し、事実上日本の占領下にあった8月、「第1次日韓協約」を締結し、外交案件については日本政府と協議することなどを定めます。

さらに「ポーツマス条約」調印直後の1905年11月に「第2次日韓協約」(いわゆる日韓保護条約)を締結し、外交権をほぼ接収、漢城に「韓国統監府」を設置、初代統監に伊藤博文が就任して韓国は事実上日本の保護国となります。さらに、1907年7月には「第3次日韓協定」を締結、李皇帝(高宗)を退位させ、韓国軍を“武装解除”します。

伊藤は韓国の植民地化には「絶対反対」との考えを持っていましたが、1909(明治42)年10月、ハルピン駅頭で朝鮮民族主義者の安重根によって暗殺されてしまいます。伊藤の暗殺を受けて、日本は対韓政策の大幅変更を余儀なくされましたが、韓国政府や民間団体からも「日韓併合」の提案が沸き上がります。

当時、日韓両国で広範に信じられていた“日韓同祖論”も併合を推し進める要素となったようですが、日本はあくまで慎重に事を運び、列国や清に打診しますがだれの反対もなく、英国や米国の新聞までも「東アジアの安定のために『日韓併合』を支持する」という姿勢を示したのでした。

そして1910(明治43)年10月、「韓国併合条約」を調印し、朝鮮総督府(初代総督府寺内正毅)が設置され、“内鮮一体“、すべての朝鮮人に日本国籍が与えられて日韓両国は完全に一つの国になります。その統治の実態は西欧諸国の植民地支配とは全く異なるものでした。

今なお、「韓国併合条約は無効」との主張もあるようですが、昭和40年、「日韓基本条約」が締結された際、「韓国併合条約は合法かつ有効な条約かどうか」が議論になります。「有効」とする日本の主張を当時の朴大統領が受け入れ、無事調印されたことを付記しておきましょう。長くなりました(以下次号)。

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