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「我が国の歴史を振り返る」(18) 「日清戦争」の背景

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▼はじめに(令和元年を終えるにあたって)

 今年は、今回が最後の配信となります。今年を改めて振り返ってみますと、最大の出来事は、何と言いましても元号が「平成」から「令和」に変わったことだったと思います。

私事ですが、私の父は、「明治」があと3か月で終わろうとする明治45年4月生まれで、幸運にも「大正」「昭和」「平成」時代を苦労しながら生き延び、平成14年に92歳で亡くなりました。徴兵年齢を超えていたので徴兵の経験はなかったのですが、3人の弟達は皆、徴兵され、戦死者もおります。また、食糧事情や未発達な医療体制のせいか、生まれたばかりの長男を亡くしています(戸籍上は私の兄に当たります)。

父の世代と比べると、「昭和」「平成」「令和」と大過なく生き延びた私達の世代は、時に自然災害には遭遇しても、今のところ“戦争や疫病などで大量に命を奪われる心配がなく、何と幸せなことか”としみじみ思ってしまいます。創設から70年あまり過ぎた自衛隊も、殉職者はおりますが、戦死者は1人もいないのです。

私事を続けますと、これも巡りあわせなのでしょうか、「令和」元年の今年6月に待望の初孫が誕生しました。子や孫達の世代は、将来、いくつの元号を経験し、そして大過ない人生を送ることができるのだろうか、とつい心は未来にはせ参じます。

そのような先日、皇位継承の最大の宮中祭祀、天皇の一世一代の「大嘗祭(だいじょうさい)」が古式ゆかしく執り行われた大嘗宮(だいじょうきゅう)」を見学してきました。18日間の一般公開の間に、延べ約78万2千人が訪れたようです。

この「大嘗宮」造営を巡っては色々とご意見がありました。恐れ多くも私見を申し述べれば、私は、歴史や伝統の継承はまず“形が大事である”と考えます。目に見えないものはなかなか伝わらないからです。

宮内庁の資料によれば、「大嘗宮」は、天皇陛下がご即位後、初めて新穀を皇祖・天神地祇(てんじんちぎ)に供えられ、自らもお召し上がりになり、国家・国民のためにその安寧と五穀豊穣などを感謝され、ご祈念になる「大嘗祭」の中心的な儀式「大嘗宮の儀」のために造営されたものとなっています。

実際に見学しますと、そのような様々なご意見に配慮してか、少なくとも外見は思った以上に質素な木造建築物という印象を持ちました。しかし、質素な中にも、諸所に「大嘗宮」建築の目的を十二分に理解した現代の棟梁達のプライドや想いや意気込みが感じられ、このような“精神”もまた、伝統的な建造技術とともに先人から受け継がれ、そして後世に伝わっていくものと確信し、とても感動することでした。

取り壊された後は、バイオエネルギーとして再利用されると聞きましたが、12月の寒い日曜日、見学に約3時間を要しましたが、この目で「大嘗宮」を見ることができた満足感と喜びを胸に抱き、「日本人に生まれて良かった」としみじみ想いつつ、帰り道にささやかな祝杯を挙げさせていただきました。見学できなかった人たちのために紹介しておきます。

▼「日清戦争」の原因となった朝鮮半島情勢

今回から「日清戦争」を振り返ってみましょう。まず、「日清戦争」が起きた当時の東アジア情勢です。これまで繰り返して述べましたように、19世紀後半の国際社会は、西洋列国が地球上の約85%を支配しており、それを脅威と感じていたのは清や朝鮮の李王朝も同じでした。しかしその対応は国によって違っていました。

清は、アヘン戦争(1839~42年)やアロー戦争(1857~60年)の結果、領土の割譲や11港の開港などを認め、不平等条約を提携しましたが、1860年頃から「洋務新政」(西洋に学ぶ近代化の試み)を合い言葉に近代化を推進しました。しかし、日本が廃藩置県を断行し、近代的な国家を生まれ変わったのに比し、清は自国の伝統的な文化や制度を土台にしたため、近隣との宗藩関係(冊封体制)はそのまま残りました。それでも1890年代の初め頃、中国経済は世界的に無視できない存在にまで成長しました。

一方、朝鮮は、大院君(国王の実父)が院政として実権を持ち、「衛正斥邪(えいせいせきじゃ)運動」(邪教を廃して朱子学を墨守する運動、対外的には攘夷思想)を展開しました。そして、実際にフランス極東艦隊やアメリカ艦隊を退け、旧来の鎖国と攘夷を続けました。一方、開国して近代化を推進しようとする「開化派」も台頭してきました。

我が国にとって、当時の最大の脅威は不凍港を求めて南下しつつあるロシアでしたが、1891(明治24)年にシベリア鉄道の建設に着手したことからその脅威は差し迫っていました。こうして、ロシアが朝鮮半島に及ぶ前に、「朝鮮が中立国として外国に支配されない自衛力を保持する近代国家になる」ことが“日本の安全にとっても死活問題である”との認識が強まったのでした。

▼朝鮮半島における日本と清の対立

日本と清の対立は沖縄をめぐる争いから始まります。今からおおむね150年前の1872(明治5)年、明治政府は、琉球王国を廃して琉球藩として中央政府直轄にして、中国との関係を廃絶することを要求しました。その7年後の1879(明治12)年、反対運動を抑え、琉球藩を廃して沖縄県を設置します。長い間、清に朝貢してきた琉球王国が約500年の歴史を閉じたでのした(「琉球処分」と言われます)。

この「琉球処分」がやがて「日清戦争」にまで発展しますが、その経緯を追ってみましょう。清は、その後、日本を “仮想敵国”として敵意を示すようになりました。そして、日本の朝鮮進出と自国の属国消滅を警戒して、朝鮮に欧米諸国と条約締結を促し、朝鮮政府は、米国・英国・ドイツと相次いで条約を締結します(1882(明治15)年)。

ところが、同年、朝鮮軍の兵士が暴動を起こして混乱が起きたのに乗じて、攘夷派の大院君がクーデターを起こしました(「壬午事変」)。清は、数千の軍隊を派遣し、これを鎮圧します。

2年後の1884(明治17)年6月、ベトナムの支配権をめぐって清とフランスの間で戦争が勃発します(「清仏戦争」)。この戦争は、陸戦も海戦も清が優勢に戦い、相次ぐ敗北の責任を取らされ、フランスのフェリー内閣が倒れてしまったほどでした。

一方、朝鮮半島では、「清仏戦争」で清がベトナムにくぎ付けになっている間に、日本の明治維新にならって近代化を進めようとした金玉均らが同年12月、クーデターを起こします(「甲申事変」)。清は再び軍隊を派遣し、親日派を徹底的に弾圧しました。

その後も日本との“にらみ合い”が続いたため、ベトナムでの戦争継続が困難になると判断した清は、講和を急ぎ、85年6月、「天津条約」を締結して“朝貢国ベトナムのフランス保護国化”を承認したのでした。清が勝っていた戦争ですから、信じられないような話ですが、本当の話です。

「甲甲事変」の後、金玉均らと親好があった福沢諭吉が「脱亜入欧(脱亜論)」を掲げますが、翌1886(明治19)年、清は、購入したばかりの最新軍艦「定遠」など4隻からなる北洋艦隊を、親善を名目に長崎に派遣し、日本に圧力をかけました。

この際に、清国水兵が2度にわたり日本の許可なしに上陸し、市内で乱暴狼藉の限りを尽くすという事件が発生します(「長崎事件」)。これら一連の事件が国内の反清感情を大いに刺激し、「日清戦争」を引き起こす遠因となったといわれます。

そして1894(明治27)年、朝鮮南部で「東学党の乱」と呼ばれる農民暴動が起こります。東学党とは“西洋のキリスト教(西学)に反対する宗教(東学)を信仰する集団”といわれますが、その実態は不明です。わずかな兵力しか持たない朝鮮は、再び清に鎮圧のための出兵を求めましたが、「甲申事変」の後の清との申し合わせに従い、日本も軍隊を派遣しました。こうして、朝鮮半島で日清両国がついに衝突、「日清戦争」が始まったのでした。

▼日本と清の「戦力」比較

「日清戦争」の経過を振り返る前に、日清両軍の戦力を比較してみます。このような話題になると、俄然〝血が騒ぐ〟のは元自衛官としての性(さが)でしょうか。

日本陸軍は、総員約7万人からなる7コ師団でしたが、1893(明治26)年に改正された“戦時編制”によれば、動員兵力は約15万人、後備軍を加えれば約27万人でした。歩兵は当時最新式の村田銃を保有し、中でも近衛及び第4師団は村田連発銃を装備していました。野戦砲兵部隊は、口径7.5㎜の青銅砲で射程約5000㍍の野砲と約3000㍍の山砲を保有していました。徴兵制の発布から20年足らずでこのような近代軍に成長させたのはまさに奇跡ともいうべき偉業でした。

これに対して、清朝250年の歴史を背負っていた清国陸軍は、複雑で古色蒼然としていました。兵制も満蒙漢人の子孫からなる「八旗」(約29万人)、清朝平定後に創設され、漢人で組織された「緑営」(約54万人)をはじめ「郷勇」「練軍」などにわかれ、総勢は約95万人でした。数だけ比較すると日本の約3倍ありましたが、兵器は旧装備で多種雑多、総じて日本軍より劣っていました。

海軍は、開戦前、日本が軍艦28隻・約57万㌧、水雷24隻・約1400㌧の計約59万㌧だったのに比し、清は「北洋」「南洋」「福建」「広東」の4師水からなる総数82隻、水雷25隻の計約85万㌧と数・質ともに日本より優れていました。中でも主力艦「定遠」「鎮遠」は鋼鉄艦で、日本の主力艦「松島」級より強大でした。

日本に幸いしたのは、清の軍隊で実際の戦争に参加したのは、陸軍は直隷省(現在の河北省あたり)、海軍は北洋師水と広東師水の一部に留まったことです。「眠れる獅子」は一枚岩でなく、国を挙げての戦争という概念はなかったようで、その上、兵士の練度や士気(戦う意欲)もけっして高くありませんでした。

それらを知る李鴻章は日本との戦争に反対したとの記録が残っていますが、政府の方針を“我が事”と受け止めた新進気鋭の日本軍に比し、相対的に劣っていたようです。

これらの情報は、今でこそつまびらかになっていますが、当然ながら開戦時は不明でした。敵は「眠れる獅子」として世界の最強国・清でしたし、開国以来外国と戦争したことがない当時の日本にとって自分たちの“強さ”も不明でした。よって、孫子の有名な「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」と全く逆、国を挙げて“国家存亡の危機”と映ったことは容易に想像できます。

しかし、それよりも「戦争しなければ朝鮮半島が清朝になってしまい、やがてロシアが進出し、日本も危なくなる」との危機感の方がはるかに強かったのです。

この続きは、年をまたぎ、新年の次号で振り返ることにします。皆様、よいお年をお迎えください。(以下次号)

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