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「我が国の歴史を振り返る」(10) 「ペリー来航」と開国

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▼はじめに

 本歴史シリーズを発信開始してから、記念すべき第10回目となりました。読者の皆様はいつもご愛読ありがとうございます。まだまだ“序章”にしか過ぎませんが、幕末ぐらいから、日本史と世界史の“横のつながり”と日本史の中の“縦のつながり”の両方の視点を意識しながら我が国の歴史を振り返らないと、独善的な“落とし穴”に陥るか、歴史を動かした“真の要因”を探求できないまま、表面的な歴史的事象をなぞって満足する可能性があると考えます。

戦後、GHQの強制もあって、ゆがんだ歴史教育を押し付けられてきましたが、(シリーズ開始でも申し上げましたように)そろそろ、私達は自分の頭で「史実はどうであったのか」を探りながら、正しく我が国の歴史を振り返る時期に来ているのではないでしょうか。

先日、古式ゆかしく執り行われました「即位礼正殿の儀」を拝見し、一国民として改めて我が国の悠久の歴史や伝統に思いが至り、感動することでしたが、日本人としての「誇り」を取り戻すためにも我が国の歴史を学ぶチャンス到来と考えます。ぜひ一緒に学んでいきましょう。いよいよ「ペリー来航」です。

▼「ペリー来航」の目的

「太平の眠りを覚ます上喜撰たった4杯で夜も眠れず」との狂歌があるように、幕末の大混乱を象徴する大事件が「ペリー来航」(1853年)だったことは疑いないでしょう。

まずアメリカ側から「ペリー艦隊」の派遣について振り返ってみましょう。独立戦争が一段落して50年あまり、「西へ」の衝動に駆られたアメリカは、大陸の西側の領土を拡張しつつ、メキシコと戦争してカリフォルニア、ネバタ、ユタなどを割譲させ、太平洋側に到達したのは1848年でした。

さらに、「欧州諸国に負けじ」と蒸気船の開発・製造を含む海軍力の増強に努め、当時の海軍の4分の1に相当する艦船を「ペリー艦隊」としてアジアに派遣することを決意します。そして1852年、フィルモア大統領以下の盛大な歓送セレモニーの中、艦隊はバージニア州のノーフォークを出港しました。1914年完成のパナマ運河はまだ使用できず、艦隊は大西洋を横断、喜望峰をまわり、インド洋を経て太平洋に進出、浦賀沖に到着するまで226日もの歳月が流れました。

この大航海の究極の目的はどこにあったのでしょうか。特に、日本に開国を迫った真の狙い(野望)はどこにあったのでしょうか。

歴史的には、「ペリー来航」の目的は「捕鯨船の物資補給」が定説になっています。確かに、「泳ぐ石油」と言われた鯨油は、19世紀、灯火用の油に加え、潤滑油や繊維加工など様々な用途で使用されました。捕鯨はアメリカの巨大産業に成長し、日本近海やアラスカ海域にも漁場が発見されていたため、捕鯨船は日本の周辺まで進出していました。

他方、「ペリー来航」の3年前の1850年、アブラハム・ゲスナーが瀝青(れきせい)と言われる天然アスファルトから灯火用オイルを精製する技術を開発し、この技術が原油の精製に応用され、やがて捕鯨は終焉を迎えることになります。当時のアメリカがこの近未来の技術的飛躍を知らないはずがありません。

これらから、「日本開国は、捕鯨船の安全確保ではなく、当時、貿易相手国として最も富を生み続けていた支那(清)の市場を巡るイギリスとの通商戦争を戦うために、イギリスより短い時間で支那にアクセスできる“太平洋ハイウェイ”(蒸気船航路)の安全を確保するのが狙いだった」との説があることを紹介しておきましょう。

こうして、イギリスの「南京条約」から遅れること2年の1844年、アメリカは、清との間に「望廈(ぼうか)条約」を結び、イギリス同様の特権を得ます。そして、再び来航したペリーが、我が国とも「日米和親条約」を締結(1854年)、4年後の58年、下田総領事のハリスが「日米修好通商条約」を締結するのです。

歴史は皮肉です。太平洋そしてアジアへ進出する糸口を見つけたアメリカでしたが、第7話で紹介しましたように、1861年、「南北戦争」が勃発し、4年間も続くのです。出遅れたアメリカがハワイを併合しつつ、スペインと戦い、再びアジアに進出したのは19世紀末です。ようやくフィリピンを植民地化したのでした(1898年)。

本歴史シリーズでもいずれ紹介する予定ですが、のちの中国の巡る「門戸開放」や「機会均等」などのキャンペーンは、「出遅れたくやしさ」の反映であろうと考えます。

▼江戸幕府の狼狽と「開国」

さて、「ペリー来航」への我が国の対応です。これについては、少し詳しく振り返ってみましょう。私も若かりし頃、横須賀市久里浜にある「ペリー上陸記念碑」を訪れ、見たこともない蒸気船2隻を含む4隻の“黒船”が目の前の沖合に現れた時の人々の驚きに思いを馳せた記憶がありますが、約250年間、“太平の世”をむさぼり、物心両面の「備え」を怠ってきた江戸幕府が、ペリーの砲艦外交によって「開国」を迫られた時の狼狽振りは察するにあまりあります。

しかし、当時の役人の名誉のために付記すれば、浦賀奉行所の与力・中島三郎助は、近代国際法である「万国公法」を理解しており、旗艦サスケハナ号に乗り込み、「湾口6海里(約11㎞)以内は領土の内水であり、江戸湾に許可なく進入することは認められない」と堂々と外交交渉したといわれます。それでも日本を半未開国として差別したペリーは、その3日後、金沢沖まで測量船を送り込んだのでした。

ペリーがいったん江戸湾を去るや、老中・阿部正弘は、ペリーへの対応策を諸大名や旗本・御家人に意見に求めた所、答申書は約700通以上に及びました。また、町触(まちぶれ)を出して広く庶民の意見も聞いたところ、これが大評判となって、笑えないような突拍子もない提案もかなりあったようです。多くの大名から名案が出なかった当時、庶民が直接政局に関与した希有な例で、「合議興論」の考えが広がった反面、幕府の権威を下げる結果となりました。

幕府はまた、江戸湾防備の必要性を痛感し、砲撃用の台場建設に取りかかりました。11基の台場建造を計画し、総工費75万両、延べ270万人に及ぶ人足を駆り出すという驚異的な工事によって、1年あまりの短期間で6基完成させました(現在も、第3と第6台場が残っています)。

1年の猶予のはずが半年前倒しの翌1854年2月、ペリーが再び来航しました。第12代将軍の徳川家慶(いえよし)の死去を知ったペリーが国政の隙を突いたといわれ、今度は、艦隊は7隻、のちに補給船などを含む9隻の艦船が東京湾に集結したのです。こうして約1ヶ月にわたる交渉の結果、下田と函館の開港、領事の駐在、最恵国待遇など、全12カ条からなる「日米和親条約」を締結し、「開国」します。

我が国の「開国」と同時期、お隣の清ではとんでもないことが起きていました。「太平天国の乱」と「第2次アヘン戦争」です。いよいよ清の衰退が明らかになってきました。また我が国は、ハリスとの条約締結過程で致命的な失態を犯し、大混乱に陥ります。それらについては次回以降取り上げましょう。(以下次号)

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