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「我が国の歴史を振り返る」(9) 江戸中期以降の我が国周辺情勢と混乱

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▼はじめに(民族の差)

 だいぶ前ですが、インドのマンモハン・シン元蔵相が「かつて欧州から鉄砲が伝来した際、日本人はこれをマネして火縄銃を作った。中国人は鉄砲を見せられて値切りにかかり、インド人に至っては、横目でチラリと見るだけだった」と自省の念を込めて語ったとの記事を発見し、興味深く読みました。

確かに、インドはほとんど抵抗せずにイギリスの植民地になり(のちに大反乱はありましたが)、中国は抵抗しましたが、圧倒的な戦力差にもろくも破れ、我が国は結果として独立を維持しました。

欧州諸国が植民地を拡大して世界を支配した根本原因に、西洋人の“野心”や圧倒的な戦力差に加え、支配された側の要因としてそれぞれの民族が持つ“精神”なども加味しなければならないことは間違いないと考えます。

▼ロシアの接近と江戸中期の「海防論」  

歴史上、我が国に最初に接近してきたのは、欧州諸国の中では後進国のロシアでした。ロシアは、中国領土の外満州が“南下”の障壁となっていた18世紀当初からカムチャッカや千島列島に進出して来るようになり、我が国との通商も求めて来ました。

これらの情勢を受けて、「四方を海に囲まれた“海国”日本の地理的特性にふさわしい国防体制が必要である」と主張する林子平の『海国兵談(かいこくへいだん)』や工藤平助の『赤蝦夷(あかえぞ)風説考』などの“海防論”が盛んになりました。当時、幕府の実権を握っていた田沼意次は、鋭い感覚で反応し、蝦夷地開発にも乗り出します。

一方、田沼が失脚した後に実権を握った松平定信は、蝦夷地開発を中止し、鎖国を遵守したばかりか、「海軍の充実と沿岸砲台の建設、中でも江戸湾防備が急務」とした『海国兵談』を「人心を乱すもの」と絶版にし、林に蟄居(ちっきょ)処分を言い渡しました(1792年)。

それでも松平は、蝦夷地近海に頻繁に現れるロシア艦船に不安を感じ、蝦夷地の天領化や北方警備に重い腰を上げました。そしてロシア特使が江戸湾での漂流民引き渡しを申し出たことをきっかけに江戸湾防備の必要性を痛感し、江戸周辺各地に海防奉行所を新設して“旗本や御家人を配置”するとの防衛構想を立案しました。

林子平が譜代大名の配置を提案したのに比し、“松平が旗本や御家人を配置”しようとした理由は、江戸の至近距離に大名を配置した際の謀反を危惧したといわれ、林子平処罰の背景も、外憂を吹聴されることによる内憂(国内の不安・不満)の拡大を防止したいとの“幕府の伝統的な安全を優先”する老中・松平の“限界”が露呈したのでした。残念ながら、テレビでは大人気の“松平定信”でしたが、実際の松平はこの程度だったのです。

その松平が辞職し幕政から去ると、この構想もお蔵入りしてしまいます。ロシアはその後も執拗に通商を求めてきますが、幸運にも、ロシアがナポレオンに侵略されるなど欧州情勢が緊迫して極東への関心がしばらく薄れたのでした。

脅威が眼前に現れないと国防態勢を強化できない“我が国の伝統”はこの頃から始まったものと考えます。時計の針は戻せませんが、“この時期に最小限の江戸湾防備を手がけていたら、じ後の歴史が変わった”ことは容易に想像できます。

▼イギリスの進出と「無二念打払令」の発令

米英戦争の結果、アメリカを諦めたイギリスは、再びインドや中国などアジアに重点を移します。特に、オランダがナポレオンに征服されると、これを好機としてアジアのオランダ領を攻撃しました。このような中、1808年、オランダ国旗を掲げた船が長崎の出島に入港、オランダ商館員が出迎えようとすると連行され、同時にオランダ国旗が降ろされてイギリス国旗が掲げられるという事件が発生しました。

この船は、イギリスのフェートン号が化けたもので、日本に燃料や食料を求め、要求が通らない場合は、港内の日本船を焼き払うと通告してきました(フェートン号事件)。幕府は激怒しましたが、長い“太平の世”が続いたため、長崎を警備していた幕府や肥前藩の兵力が激減し、戦える状態ではなかったのでした。

イギリスはその後も何度も日本近海に出没したため、業を煮やした幕府は1825年、〝沿岸に近づく外国船を理由いかんにかかわらず打ち払う〟ことを命じた「無二念打払令(むにねんうちはらいれい)」(「異国船打払令」ともいわれます)を発令しました。 

1837年には、日本漂流民を帰還させ、平和的に通商を求めてきたアメリカの商船に向かって打払令を理由に砲撃を行い、退去させるという事件も発生しました(モリソン号事件)。

▼清の「アヘン戦争」敗北

 対中貿易戦争に勝ち残ったイギリスは、中国から茶、陶磁器、絹などを大量に輸入しましたが、中国へ輸出する商品を欠き、毎年、大幅な貿易赤字になっていました。そこでインドで栽培したアヘンを中国に輸出することで“三角貿易”を成立させようとします。

1796年、清はアヘンの輸入を禁止しましたが、アヘン貿易は年々拡大し、アヘンの蔓延は清朝政府にとって無視できないほどになりました。政府はアヘンを没収して処分する施策をとりましたが、アヘン密輸で莫大な利益を得ていたイギリスは、1840年、清国沿岸に侵攻し、「アヘン戦争」を始めます。

清は、イギリス軍の強力な近代兵器に歯が立たず敗北し、1842年、「南京条約」を締結、香港の割譲、上海など5港の開港、関税自主権の喪失などを承認することになります。

▼我が国を震撼させた“「アヘン戦争」敗北のニュース”

江戸時代の学問の発達についてはすでに触れましたが、医学から発達した蘭学は、杉田玄白、高野長英、渡辺崋山、緒方洪庵らの有能な人材を輩出するとともに西洋事情の研究に寄与することとなりました。

出島を通じ、約1万冊の書籍を入手したと言われますが、当然ながら、ロシアやイギリスの出没の背景にある欧州諸国による世界制覇の“脅威”についても認識していたと推測されます。それを現実のものとして震撼させたのが、“清が「アヘン戦争」でイギリスに大敗し、半植民地になった”というショッキングなニュースでした。

当時の老中・水野忠邦は、周辺情勢の厳しさに危機感を持ち、「鎖国を強化するだけでは問題を解決しない」と決断、1842年、「無二念打払令」を撤廃し、薪水や食料の補給を認めることにした「薪水給与令」を発令しました。慌てふためく姿が目に見えるようです。 

▼イギリスとロシアの「グレート・ゲーム」

 歴史は、この後「ペリー来航」となるのですが、18世紀当初より度々日本近海に出没していたロシアやイギリスに先駆けて、なぜアメリカの「ペリー艦隊」の来航となったのでしょうか。その疑問をまず解決しておきましょう。

19世紀の開始を告げる戦争といわれた「ナポレオン戦争」の勝者はイギリスとロシアでした。その後、この2カ国が世界帝国としてユーラシア大陸の各地で対峙したことを「グレート・ゲーム」と言います。海洋国・イギリスと大陸国・ロシアの対立でもあり、衝突点はバルカン半島、中央アジア(今のアフガニスタンあたり)、そして東アジアの3カ所でした。

「ペリー来航」と同じ頃、イギリスとロシアは、この「グレート・ゲーム」の一環として、ナイチンゲールで有名な「クリミア戦争」(1853~56年)を舞台に戦っていました。この戦争は、バルカン半島経由で“地中海への道”を企図していたロシアとオスマントルコの戦争でしたが、イギリスはフランスやオーストリアとともにトルコ側に加担したのです。

戦争はクリミア半島をめぐる局地戦に留まらず、グローバルな世界戦争に拡大しました。細部は省略しますが、英露の艦隊は日本近海の鼻先をかすめるように移動し、オホーツク海やカムチャッカ半島でも本格的な戦闘を繰り広げたのでした。戦争はロシアの敗北に終わり、パリで講和会議を開き、終戦しました(1856年)。

この戦争に我が国が巻き込まれないのは幸いでしたが、「ペリー来航」成功の要因として、「クリミア戦争」の最中にあった英露両国の関心がいっとき、日本を含めた東アジアに及ばない時期と重なったことにあるのは間違いないでしょう。

それにしても、この頃から我が国の動きと世界の動きを重ね合わせて振り返らないと歴史は解明できないということが頻繁になります。やや難解ではありますが、引き続き日本史と世界史に“横串”を入れながら振り返ってみましょう。(以下次号)

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