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「我が国の歴史を振り返る」(7) 欧州諸国の「大変革」と植民地獲得

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▼はじめに

我が国の江戸時代と時を同じくする17世紀から19世紀にかけて、欧州諸国は、その後の国際社会に甚大な影響を及ぼすことになった「大変革」を遂げました。まずは、本歴史シリーズの目的などから、それらの実態をわずかに3000字足らずで紹介する“乱暴”を詫びておきたいと思います。

この「大変革」は、宗教改革から宗教戦争を経て、封建的な絶対王政の時代、自由や平等を求める「市民革命」へ繋がる政治体制の変革、そして18世紀半ばイギリスに端を発し、欧州列国や米国に広がった「産業革命」による工業社会への変革が融合され、19世紀以降の「帝国主義」へ発展していく歴史の“うねり”と要約できると考えます。これらの“うねり”について要点のみを振り返ってみましょう。 

▼「主権国家」の誕生(1648年)

第5回でも少し触れましたが、16世紀から17世紀にかけて欧州諸国は宗教戦争に明け暮れていました。その最大の戦争が、有名な「三十年戦争」(1618年~1648年)でした。当初は、神聖ローマ帝国内で局所的に起きた小国家のカトリックとプロテスタントの戦争が全ヨーロッパを巻き込む国際戦争へと発展し、カトリック国のフランス王国がプロテスタント側で戦うなど、次第に宗教とは関係ない争いに突き進んだのです。

本戦争の実態はなかなか理解しがたく、当時の欧州社会の複雑さを物語っていたといえますが、戦争で疲弊した諸国は、1648年、「ウエストファリア条約」を結び、最終的な決着をつけました。本条約は史上初の「多国間条約」であり、「国際法の始まり」ともいわれているものです。

“何が最も変わったのか”と言いますと、本条約によって、それまで各国家より強い権威を持っていたローマ教皇や皇帝を国家に介入させないこと、つまり各国王の元に「主権国家」が誕生し、各「主権国家」を対等としたことでした。

驚くなかれ、欧州列国が「国家」として真に独立したのは1648年なのであり、古来より「国民国家」として同胞意識があった我が国と比較するとその歴史は本当に浅いのです。

▼「絶対王政」から「市民革命」へ

こうして絶対的な「主権」が各国王のもとに一元化されたことから、この時代を世界史では「絶対主義」とか「絶対王政」という名称で学びます。フランス国王ルイ14世の言葉として有名な「朕(チン)は国家なり」はその実態を象徴していると言えるでしょう。

しかし、各国王による統治も長くは続きませんでした。17世紀後半になると、イギリスで「人間本来の理性の自立を促す」という「啓蒙思想」が興り、やがて欧州でその思想が主流となって人権思想や市民権思想の発達に繋がっていきます。その結果、絶対王政の論拠である「王権神授説」(王権は神から付与されたもの、王は神に対してのみ責任を負うとの考え方)にも厳しい批判が加えられるようになります。

これらを受けて、イギリスにおいては、「清教徒革命」(1641年~49年)、「名誉革命」(1688年~89年)を経て、「権利の章典」を承認した国王が立憲君主制に移行して絶対王政は終了します。

また、フランスにおいては、「フランス革命」(1789年)によって国王が斬首され、共和制に移行します。その後、しばらく内乱が続きますが、政治の安定とフランスの拡張を企図するナポレオンがクーデターで政府を倒して(1799年)、新たな政権を樹立、全欧州を巻き込む「ナポレオン戦争」(1803年~1815年)へ突き進みます。

予断ですが、陸上自衛隊の幹部自衛官は、若い時分に必ずこの「ナポレオン戦争」を学びます。本戦争が、傭兵を主体にしたそれまでの戦争から徴兵による国民軍の戦争に変わったばかりか、「産業革命」の初期段階にあって大砲などの兵器の大量生産が可能となり、用兵上も「師団」のような大部隊を編成して運用するなど、「近代戦」のさきがけとなった戦争であったからです。

▼社会構造まで大変革させた「産業革命」

18世紀半ばから19世紀にかけて、イギリスを皮切りにベルギー、フランス、アメリカ、ドイツ、ロシア、そして日本と順次各国に起こった一連の産業の変革を「産業革命」と呼称されています。「産業革命」は「市民革命」と並び、近代とそれ以前を分かつ分水嶺となり、それ以降の国際社会を支配する要因となりました。

「産業革命」とは、織物工業の技術革新や製鉄技術の改良などを背景に動力源の開発に発展していった一連の技術革新を指しますが、そのさきがけがジェームズ・ワットによる蒸気機関の発明(1765年)でした。この技術が織物機をはじめ、様々な工業生産に応用され、さらには蒸気船や蒸気機関車などに発展していきます。その延長で、この技術が“軍事利用”されるのは当然の流れでした。

開拓者のイギリスは、1820年代には世界の工業生産の半分を占めていたといわれますが、1825年に機械輸出を解禁したことで、「産業革命」はイギリス以外の国々に伝播していきました。それでもイギリスの力は増大し、オランダやナポレオンのフランスに勝利して第1次世界大戦終了まで世界の“覇権”を握ることになります。

「産業革命」によって、農民の比率が減少して商工業従事者が激増します。また、工場制機械工業の割合が増加して多くの労働者が工場のある都市に集中して都市化も進みます。その上、産業資本家と労働者の階層分化も起きるなど社会構造のそのものの変化、つまり資本主義の発達にも繋がったのです。

▼「先占の原則」による植民地獲得の正当化

そして何といっても、工業製品の大量生産を可能にする原料供給地と市場の確保のため、海外進出の重要性が益々増大します。各国は、再び競って植民地獲得を企てますが、その基本理念(錦の御旗)が必要でした。しかし、もはやスペインやポルトガルがローマ法王より公認された「キリスト教の布教」は万能でなくなっていました。

そこで浮上したのが、「国際法の父」と言われ、前述の「ウエストファリア条約」にも多大な影響を与えたオランダ人のグロテイウスが唱えた『先占の原則』です。つまり「たとえその地域に事実上支配する住民がいても、国際法の主体たり得る国家によって支配されていない限り無主の地であり、最初に実効支配した国家の所有が認められる」としたのです。ここで言う「国際法の主体たり得る国家」とは当然ながら「西洋の国々」を指し、欧州諸国は、「産業革命」によって近代化した「西洋文明至上主義」に基づき、(以前に紹介しました)「トルデシリャス条約」(1494年)などと同様、身勝手な理論を振りかざし、自らの“行動”を正当化したのでした。

長い間、この原則は、欧米人が国際社会に君臨する思想となっており、今でもスポーツ界などに一部残っているのはご存知のとおりです。

江戸時代の“太平の眠り”の間におきた欧州諸国のこの「大変革」が、やがて幕末から明治にかけた大混乱に繋がるのは当然の流れと言えるでしょう。(以下、次号)

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