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「我が国の歴史を振り返る」 (5) 江戸時代初期の外交・防衛

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▼はじめに

前回の話題を少し補足しておきましょう。ドライな西欧列国は、当時、信長、秀吉らを、“王”を意味する“King”ではなく、“皇帝”を意味する“Emperor”と呼称していたようです。それは、彼らが当時の天皇を凌駕する「力」を保有していたという我が国の実情をよく認識していた証拠だと考えます。

他方、“皇帝は1人と考える” 明が秀吉を“日本国王”に封じたことから、「慶長の役」が起きたのは必然だった、との指摘もあります。これらから、歴史観の違いを起因とする、我が国に対する東西の認識の差異がよく理解できます。今でもその差異は続いているようですが、“歴史の奥の深さ”に改めて思いが至ります。

さて、前回の信長、秀吉に続き、今回は家康を取り上げます。家康の歴史的評価については、本歴史シリーズで取り上げる必要はないものと考えます。「国防」という観点においても、家康の大戦略家たる片鱗が見え隠れします。それが、晩年の秀吉の「積極防衛」とは逆の「鎖国」政策への戦略転換です。今の「専守防衛」に近いような政策ですが、「鎖国」は日本に長い平和をもたらせました。今回は、「鎖国」に至る経緯などについて振り返ってみましょう。

▼「大航海時代」の“主役”交代

「大航海時代」が始まってからしばらく過ぎた16世紀前半、欧州では「宗教改革」が起こり、カトリックとプロテスタントの新旧両派がキリスト教世界を二分する激しい宗教戦争へ転化・拡大し、17世紀まで続きました。

日本に最初にたどり着いた「イエズス会」は、1534年にフランシスコ・ザビエルらによって創設された急進的なカトリックの一派でした。カトリック国・スペインは、支配していたネーデルランドのプロテスタント勢力を迫害しておりましたが、1581年、ネーデルランドの北部7州はオランダとして独立しました。

そしてプロテスタントの牙城・イギリスと手を握り、有名な「アルマダの海戦」(1588年)においてスペインの“無敵艦隊”を撃破してしまいました。その後、スペインは艦隊を再建して制海権を守り通しましたが、オランダとイギリスは、新大陸から銀などを持ち帰るスペイン船団を掠奪するなどして、次第に海外へ目を向け始めたのです。

こうして、“太陽の沈まない国”スペインが衰退し始め、ポルトガルもスペインの属国になるなど、16世紀末以降、「大航海時代」の“主役”がカトリック国のスペイン・ポルトガルからプロテスタント国のオランダ・イギリスへ交代したのでした。

▼オランダ・イギリスに貿易を許可した家康

日本は、1600年の「関ヶ原の戦い」に勝利した家康が天下人になっておりました。家康は、秀吉が存命中に発布した禁教令を取り消すことも、キリスト教を受け入れる意向もなかったようですが、貿易には熱心で、引き続き、「朱印船貿易」を許可しておりました。

この結果、東南アジアや中国南部などとの交易は益々盛んになり、各地に“日本人町”も誕生しました。主に中国産の生糸や絹を輸入し、日本から銀、銅、刀剣、硫黄、銅銭などが輸出されたようです。

1598年、オランダのロッテルダムから5隻の船団が極東に向かって出発、約2年の歳月を経てそのうち1隻だけが豊後(ぶんご)(今の大分県)に漂着しました。そこにイギリス人航海士ウイリアム・アダムスやオランダ人航海士ヤン・ヨーステンらが乗船しておりました。

家康は2人を引見(いんけん)し、2人から「キリスト教の布教には関心がなく、貿易の利益のみを求めている」との航海目的を聞き出し、欧州の宗教戦争の状況や「スペインやポルトガルがキリスト教を広めて日本を征服しようとしている」ことも知りました。

家康は、ウイリアム・アダムスやヤン・ヨーステンを信頼し、顧問として処遇します。ウイリアム・アダムスは250石取りの旗本に取り立てられ、帯刀まで許されて三浦按針と名乗ります。ヤン・ヨーステンも江戸に屋敷を構えることを許可されました。屋敷は現在の東京駅あたりで、「八重洲」という地名の由来となっています。

彼らの働きもあって、オランダやイギリスは「朱印船貿易」を許可され、長崎や平戸で商館を開設、貿易を開始したのでした。

▼キリスト教禁止・弾圧へ

江戸時代初期、家康のキリスト教への姿勢はあくまで“黙認”だったようですが、新旧入り交じって布教活動が活発になるにつれ、幕府は次第に態度を硬化させていきました。そして、神仏勢力からの暗躍もあり、1609年に発生したキリスタン大名が絡む収賄事件をきっかけにキリスト教徒の弾圧に傾斜し始めました。

この背景には、当時まだ健在していた豊臣秀頼が大のキリスタン贔屓(ひいき)だったことへの警戒心があったと言われます。中でも一番の危惧は、秀頼がスペインの支援を受けることでした。

そしてついに、「大坂の陣」に先立つタイミングの1612年、2代将軍秀忠は、江戸、京都、駿府など直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じた「キリシタン禁止令」を発令、翌13年には「伴天連追放之文」(バテレン追放令)を起草するなど、キリスト教禁止を全国に広めました。

そのような矢先、家康没4年後の1620年、ポルトガル・スペイン人2人の宣教師を乗せた平山常陳(じょうちん)の朱印船をイギリス・オランダの船隊が拿捕し、日本への密航を摘発するという事件が発生しました(「平山常陳事件」)。

本事件は、キリシタンに対する幕府の不信感を決定づけるものとなり、2人の宣教師をはじめ、長崎の牢獄に捕らえられていた宣教師や信者など教会関係者55人が一斉に処刑されました(「元和(げんな)の大殉教」(1622年))。

日本のキリスタン迫害の歴史の中で最も多くの信者らが同時に処刑された本事件後、各地でキリシタンに対する迫害がさらに強化徹底されたのでした。

▼「鎖国」は植民地化防止の手段だった!

このように、当初は布教に目をつぶり、貿易を優先した家康がキリスト教禁止を決断するまでには相当の葛藤があったようです。秀吉同様、軍事的征服を断念したスペインなどが布教を手段に侵略しようと戦略転換した意図を見破り、危機感を抱き始めます。そして秀頼の動きや伊達政宗による「慶長遣欧使節」派遣などの経緯を経て、布教と貿易の分離政策を断念し、かつ幕府による“一元外交”へ傾斜していきます。

その道程として「大坂の陣」があり、政宗の“巻き込み”工作(結果として政宗は家康に忠誠を誓いました)などがあったのでした。ついには、“キリスト教的文明化を拒否した国家体制”に行き着き、「鎖国」に至ります。この考えは秀忠に受け継がれますが、“大戦略家”家康の真骨頂でした。

幕府は、1623年には、ポルトガル人の日本在住禁止、朱印船のマニラ航行禁止、明以外の船の出入りを平戸に限定するなどの政策を強行しました。その結果、イギリスも業務不振で平戸商館を閉鎖するなど、入国する外国人の数も次第に減少し、翌24年にはスペインとの国交を断絶しました。

1633年、ついに「第1次鎖国令」が発令され、その後4度にわたり「鎖国令」が発令されます。第4次発令後の1937年、我が国の歴史上、最大規模の一揆である「島原の乱」が発生しました。幕府は、12万の大軍を投入してようやく鎮圧し、ポルトガルとの国交も完全に断絶して「鎖国」が完成しました。

こうして、貿易と布教を分別していたオランダ船以外のヨーロッパ船は入国を拒否され、オランダも長崎の「出島」で厳しい監視下におかれたのです。

以上の経緯を経て、江戸幕府は、貿易によって経済が発展することを犠牲にして「鎖国」政策を採用し、幕末までのおよそ210年の間、これを維持します。

▼なぜ「鎖国」が可能だったのか?

では、なぜ「鎖国」が可能だったのでしょうか?意外にもこのような視点で解説している歴史書はほとんど見当たりません。

その1は、我が国が自給自足で国を維持できる経済力があったことと考えます。江戸時代初期には、戦国時代の争いや城郭整備などを通じて発達した様々な技術のおかげで、農機具が発達し、水田が大幅に増え、米を輸送するための船舶の建造や水路の整備などにまで及びました。今の言葉で言えば、スピンオフ(軍事技術の民間利用)です。
ソフト面でも、秀吉時代の太閤検地と兵農分離によって農民が稲作に専念できるようになり、江戸時代の「米本位制経済」が可能となっていました。

その2は、江戸幕府には、「鎖国」という強権を発動しても国内を統治できる能力、そして「鎖国」を力づくでも踏みにじろうとする外国に対してそれを阻止できる武力があったことです。
確かに海軍力や大砲など一部の軍事技術は欧州諸国に比して劣勢でしたが、武力の総量、特に鉄砲の保有数や熟練した武士の存在などは、当時、列国と比較して遜色ありませんでした。戦国時代の軍拡競争を信長・秀吉・家康が“巨大な軍事大国”として統一したことが功を奏したのです。

その3は、上記の国内的な要因に加え、外的な要因です。幸運にもこの時期の欧州列国は、のちに「17世紀の危機」とも言われるように、「宗教戦争」「独立戦争」「領土争奪戦争」などに明け暮れ、欧州外への影響力は限定的で、中でも地球の反対側の日本に対する関心や支配意欲が低下した時代でした。
また、お隣の中国大陸においては、約300年続いた明が衰退し、1644年、北東から清の侵攻を受けて明が滅亡してしまいました。ロシアの“南下”もまだまだ先のことで、当時は全く視野に入っておりません。つまり、「鎖国」後の江戸時代初期から中期は、「国防」という観点では“外敵”を意識する必要がない時代が続いたのでした。その“太平の世”の細部は、次回以降に振り返りましょう。

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