過去の生活困難期を振り返る(1)
~本稿は、1月25日刊行の『看取り方と看取られ方』(国書刊行会)のあとがきを一部修正、分割したものです。
医師 NPOソシノフ運営会員
小松秀樹
2018年1月26日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
長い日本の歴史の中で、豊かだったのは例外的な時期でした。民衆は貧しいのが常態であり、苦しい生活を強いられてきました。近代以後、民衆の生活がそれ以前に比べてとりわけ落ち込んだ時期が2回ありました。第一次生活困難期は近世の終わりから明治前半の時期、第二次生活困難期は昭和恐慌から敗戦・戦後にかけての時期です。生活困難期という概念や時期は、私が本書の議論のために独自に設定したものです。今、三回目の生活困難期が進行しています。第三次生活困難期の今後を考えるために、過去の生活困難期の人びとの考え方を振り返ります。
◆第一次生活困難期
江戸後期から明治前半にかけての時代には、現在と重なるところがあります。農民は年貢と高利貸しに苦しめられました。江戸後期、不作が続いたり、収奪が大きくなったりすると、村は疲弊し、すさまじい貧困の中で、生産と人口が激減し「枯村」になりました。人心が荒廃し、自暴自棄になり労働意欲を失いました。関東の村々では疲弊がひどく、例えば、下野国芳賀郡の物井・横田・東沼3村では、元禄期に戸数440戸、年貢3100俵だったものが、文政5年には戸数140戸、年貢800俵まで減少しました(安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』青木書店)。名主層の没落も珍しくありませんでした。現代の生計困難者も、社会保険の重い負担と、銀行の経営するサラ金の利子に苦しんでいます。非正規労働者に限定すると、人口も激減していると推定されます。
二宮尊徳の農村復興活動は関東の荒廃した農村が対象でした。勤勉、質素、倹約、正直を尊び、自己形成、自己鍛錬を推奨する精神主義的なものでした。基本的に、支配者側の統治のための活動であり、幕藩制を自明のものとして尊重していました。大原幽学、石田梅岩などの教えも二宮尊徳と同様のもので、通俗道徳(安丸良夫)として民衆に定着しました。
徳川の平和は、戦国の乱世を乗り越えてやっと到達した平和でした。支配階級は徳の体現者でした。江戸時代の封建的身分秩序は、社会を安定させ、民を救うためのものだとされました。信念や価値の世界を支配階級の手に独占し、民衆は思想主体から排除されました。民衆は、現実に愚かで貧しいだけでなく、観念的にも愚かで貧しい劣等者とされました。愚民意識に支配階級のみならず、民衆もとらわれていました(安丸良夫)。
二宮尊徳らの唱えた道徳は、貧困にあえぐ民衆に経済的に生き残る契機を与えました。民衆に主体性をもたらし、自己鍛錬を可能にしました。しかし、個人的努力で、すべての人が貧困から抜け出せるわけではありません。道徳的実践によって貧困から抜け出せるとすれば、富裕層は、道徳的に優れており、経済的な敗北は、精神的、道徳的な敗北を意味します。このため「経済的敗北とともに無力感や諦観やシニシズム」が「社会の底辺部に大量に鬱積」されることになりました(安丸良夫)。
こうした中で、江戸時代、後期になるほど、百姓一揆が頻発しました。一揆では、支配体制を批判することは許されず、仁政を求めるのが習わしになっていました。過酷な年貢取り立てがあったとしても、それは現場の役人の問題であり、それを正すのは、正しかるべき藩主でした。藩に問題があるときは、幕府に仁政を求めました。一揆指導者も通俗道徳の信奉者であり頑固な実践者でした。通俗道徳は、為政者の奢侈や虚偽を非難する根拠を提供しましたが、社会の変革を提案することはありませんでした。
幕末、幕長戦争や戊辰戦争のさなか、各地で発生した世直し一揆が、戦況に影響を及ぼしました。打ちこわしでは、豪商、高利貸し、豪農がその目標になりました。買い占めによる米価の高騰、村役人の不正が問題とされ、年貢の半減が求められました。この時期、一揆勢は倒幕勢力に期待しましたが、明治新政府は彼らの期待に背き、年貢半減をすぐに撤回し、廃仏毀釈、徴兵令、学制、太陽暦、地租改正、戸籍制度、廃藩置県、断髪令など民衆の理解できない政策を次々と打ち出しました。さまざまな名目で農民に新しい税を課したため、農民の生活はさらに困難になりました。農民は明治新政府に激しく反発し、各地で新政反対一揆、地租反対一揆、徴兵に反対する血税一揆が荒れ狂いました。江戸時代の一揆では、原則的に人に対する暴力を伴いませんでしたが、明治初期の一揆は残虐な殺人を伴う暴動でした。鎮圧に鎮台兵が動員されました。
戊辰戦争の後、山口藩では奇兵隊・諸隊の兵士が脱走して反乱を起こしました。時を同じくして、藩内各地で貧農を中心に一揆が勃発しました。広沢真臣はこれが全国に拡大することを恐れました。木戸孝允が長州にもどって直接指揮をとり、苦戦の末、反乱を討伐しました。木戸は「今日の苦難語り尽くすべからず」と書き残しています(一坂太郎『長州奇兵隊』中公新書)。戦死者は反乱軍60名、討伐軍20名。木戸は、脱走兵133名を、みせしめのために、その出身地で処刑しました(鈴木淳『維新の構想と展開』講談社学術文庫)。寛大な処置を求めた前原一誠は、木戸とたもとを分かち、後に萩の乱を起こして斬首されました。
民衆にとって、幕藩制は、過酷だったとしても、慣れ親しんだものであり、異人、耶蘇教など外敵から民衆を守ってくれる実力装置と措定されていました(安丸良夫)。これに対し明治新政府は民衆と同じ側に立つのではなく、異人の真似をし、異人に指導される異様な権力とみなされました。子供の膏(あぶら)を搾りとる、若い男から血を搾り取る、若い娘を外国に売り飛ばす、コレラの避病院では肝を取る、などの奇怪な情報が流され、これに人びとは敏感に反応しました。民衆の認識枠組みが暴力的な抵抗を生み、維新に責任を負う新政府の指導者は、非情ともいえる対応をとらざるをえませんでした。
「徴兵令反対一揆は、基幹労働力を奪われることに反対したものだとか、学制反対一揆は、学校費負担と子供の労働力を失うことに反対したものだとかと規定することは、事実の一面をついたわかりやすい説明ではあるが、けっして十分なものではない。…奇怪な流言が、それが奇怪であれば奇怪であるほど、たちまち広汎な民衆に恐怖の伝播をひきおこしうるものであったことを理解することによってのみ、これらの一揆についてのリアリティにせまりうるのである。」この安丸の説明には強い説得力があります。
日本人は、狭い限られた空間の中で、個人あるいは集団の生存確率を高めるための生存戦略を長期間にわたって薫習し、閉鎖系倫理(大井玄『環境世界と自己の系譜』みすず書房)を形成しました。二宮尊徳や石田梅岩らが説いた道徳は、民衆に既にあった倫理を背景にしたために、容易に浸透しました。閉鎖系倫理は、勤勉・倹約・孝行・正直・謙虚を奨励するとともに、支配体制への服従、共同体への同調、争論の回避を求めます。資源と土地の豊富なアメリカの「開放系倫理」とは大きく異なります。日本では分を知り、足るを知ることが求められ、アメリカでは自らを信じて可能性を追求することがよしとされます。倫理は、先験的なものでもなければ、あらゆる場所で通用する絶対的価値を有するものでもありません。幕藩制は「閉鎖系倫理」の守護者であり、明治新政府は民衆に「閉鎖系倫理」の外の異質とみなされました。これが新政反対一揆を暴力的にしました。
第一次生活困難期、絶望的な生活の中で、最下層民から新しい宗教が出現しました。最下層民の心をとらえたのは、世俗の政治権力にとりこまれた権威ある既成宗教ではなく、新しい宗教でした。大本教など、最下層民の宗教は、ほとんど教育をうけていない文盲に近い人たちによってはじめられました。彼らも通俗道徳の実践者でした。大本教教祖の出口なおは、すさまじい努力にもかかわらず没落したことで、通俗道徳がすべての人を救済するわけではないことを自ら体験しました。この世は悪の世界であり、強いもの勝ちの「獣類(けもの)の世だ」、「王天下は長ごうは続かん」として、終末と世直しを説いたため、政府の弾圧を招きました。
第一次生活困難期、常態としての農民の貧しさと政府による収奪が生活困難の背景にありました。江戸末期から明治初年の混乱が生活をさらに困難にしました。明治維新によって近代への道が開かれました。資本主義の勃興期、資本の集積過程で、多くの民衆の生活が犠牲になりました。松方デフレの時期、明治15年から18年にかけて、債権者の訴えで、身代限り処分、すなわち、破産により資産を競売にかけられた件数は6万件を超えました。同時期、裁判所の努力で、身代限りにせずに、勧解手続きにより「調和」した件数は179万件に達しました(鈴木淳)。日本の人口が3700万人の頃、合計185万の家族が破産状態になったということです。一世帯当たりの人数が4人として20%の国民が、3人として15%が破産状態なったのです。特に養蚕農家の疲弊は甚だしく、明治17年、養蚕の盛んだった秩父では絶望した困民が武装蜂起しました。
明治22年の大日本帝国憲法によって天皇制イデオロギーが確立され、国家の形が整いました。資本主義化の成功により生産が徐々に向上し、政情が落ち着きました。人びとは、台湾出兵、日清戦争、日露戦争などの対外紛争を背景に、国家主義と天皇制イデオロギーの信奉者になりました。新しい宗教も天皇制を尊重し、国家主義に追随するようになりました。相次ぐ対外戦争の中で、第一次生活困難期の記憶は人びとの中で薄らいでいきました。
(MRIC by 医療ガバナンス学会より)