『地域包括ケアの課題と未来』編集雑感 (14): 相矛盾する死生観
死生観には相矛盾するものや対立するものがある。死後の世界、永遠の生命があるという確信を持つか持たないかが一つの境界を画する。
広井良典は、前者に属する。以下、『死生観を問い直す』(ちくま書房)に述べられた広井の意見をまとめる。
「わが国のターミナルケアについての議論が、技術的な話が先行しすぎ、『死』とはそもそも何か、というターミナルケアの本質とも言える点についての対応が遅れがちになっている。」
死生観とは「私の生そして死が、宇宙や生命全体の流れの中で、どのような位置にあり、どのような意味をもっているか、についての考え方や理解」である。
団塊の世代は、経済成長をゴールに欧米志向で突っ走るという時代に育ったため、「『死』が無であり、死についてそれ以上あれこれ考えても意味のないことで、ともかく生の充実を図ることこそがすべてなのだ」という考え方をもつ人が比較的多い。
「死にゆく場所としての『魂の帰っていく場所』を自分のなかでしっかりと確かめ位置づけるということ―こそが、ターミナルケアそして死生観の確立においてなによりも本質的なことである。」
「『死とはただ無に帰すること』という考え」を本書の中で退けた。
「不条理なかたちで襲いかかる苦難や不幸について、それを何らかのかたちで意味づけ、そのことを通じて、人びとにある種の、『救済』を与えることに」宗教の本質がある。
「人間はどのようなことがあっても自分はケアされている、という絶対的な確信といったものを得たいという深い欲求をもっている。」「仏教やキリスト教といった高次宗教は、まさに人間のこうした根源的な欲求に応えるもの」であり、「イエスやブッダといった存在は、」「どんなことがあっても自分の存在を肯定し受容してくれる」「絶対的なケアラ―」とでも呼べるものと思える。
『死生観を問い直す』のあとがきの最後で、広井は自身の宗教体験の原点ともいえる経験について述べている。広井が育った山間部の田舎での墓参りで、墓の向こう側にある世界のほうががはるかに大きく、永続的なものであり、帰って行くべき場所であり、生者と死者がともに属する場所なのだと思えるようなかすかな感覚が生じたという。
広井の体験は、柳田国男の日本の固有信仰説を思わせる。島薗進の『日本人の死生観を読む』(朝日新聞出版)によると、柳田国男の最大の研究テーマは日本の固有信仰だった。柳田は、近代日本人の中に円環的永遠回帰的な時間意識と死生観が濃厚に引き継がれていること、それがお盆などの行事の中で長く蓄えられてきたことを明らかにした。死んでも盆毎に家に帰ってきて、子や孫その孫と飲食を共にする。死後も魂が消えないとすれば、生きて居た間の最も痛切な願い、すなわち、子孫の安全のために役立とうという思いは死後も残るとするのが日本の常民の信仰だった。柳田は、「家存続の願い」が日本の「固有信仰」の中核部分と考えたが、島薗によると、柳田自身は、固有信仰そのものを信じていたわけではない。
中江兆民は、広井の反対の立場に属する。死の直前『続一年有半』(岩波文庫)で、霊魂の存在をあからさまに否定する議論を展開した。
空間、時間、世界を認識するにあたり、人類の都合を持ち込んではならない。世界は人間の価値と無関係に厳然と存在する。
死後の世界、霊魂の不滅を想定することは、人類の都合によるものであり、禽獣虫魚を阻害し、軽蔑するものである。死に近づきつつある人間にとって、霊魂が不滅で死後の幸福を保障してくれるとすれば、慰められるかもしれないが、理性的な人間には到底信ずることはできない。人類を慰めるための方便で世界のあり様が変わるわけではない。
世界が人間の価値と無関係で、冷たい、剥き出しで、殺風景であるからといって、合理的な考えを捨ててはならない。
そもそも精神は本体ではない。本体は身体であり、精神は身体の働きである。死によって精神は同時に消滅せざるをえない。唐辛子がなくなっても辛味は残るとか、太鼓が破れても堂々たる音は独り残ると主張するようなものであり、合理性をわきまえる哲学者が真面目に議論すべきことではない。
身体を構成する元素は死後も不朽不滅である。釈迦耶蘇の精魂ははるか昔に消滅しているが、路上の馬糞は世界と共に永続する。身体の作用たる精神は、身体が死ねば、即座に滅びる。世界は人間の価値観と無関係に存在する。
不条理、不公平などの人間社会の不始末を、不合理極まりない霊魂などを想定して、死後の裁判で片づけてもらおうとするのは、意気地なしである。昔に比べると悪人の多くは罪を逃れられず、善人は世の称賛を得て、社会の制裁は徐々に力を得つつある。
造物の説では、世界のすべて、山河草木、人獣虫魚、土石瓦礫にいたるまで何もないところに神が作ったという。無から有を得るという無茶な論理は、まともな脳髄で理解できることではない。しかも、進化論が示すように、生物は時間と共に変化している。造物の説と進化論は相容れない。
兆民は、喉頭がんを発病。医師に1年半の命と告げられた。永遠の命を一切信じなかったが、新聞を読むこと、『一年有反』を執筆すること、飲食すること、さらに、文楽鑑賞などを楽しんだ。死の前月、河野広中夫人の紹介で来訪した僧侶の加持祈祷を拒んだ。
広井良典は、死が無であり生の充実を図ることがすべてという考え方が、戦後、それも団塊の世代に特徴的だとしたが、明治30年代半ば、中江兆民、正岡子規は、死を前にして、死が無であると考え、来世に希望を託することはなかった。残りの人生を精一杯楽しもうとした。
中江兆民は、辛さを詳細には表現しなかった。宗教に対する嫌悪感を露わに表現した。正岡子規は病にある自分の生活を、苦しみや心の動きを含めて、型に当てはめることなく自由に描写した。
正岡子規は、自らの死期についての閻魔とのやり取りを、歌舞伎風の文章にすることでつかの間の楽しみを得た。最後の落ちの部分を記す。
「今夜はあまりに早うございますな。
「それでは明日の晩か。
「そんな意地のわるいことをいはずに、いつとなく突然来てもらひたいものですな。
閻王はせせら笑ひして
「よろしい、それでは突然とやるよ。しかし突然といふ中には今夜も含まれて居るといふ事は承知して居てもらひたい。
「閻魔様。そんなにおどかしちや困りますよ。(この一句菊五調)
閻王カラカラ笑ふて
「こいつなかなか我儘ツ子ぢやわい。(この一句左団調)
拍子木 幕 (『墨汁一滴』)
(Socinnov掲載記事)