『地域包括ケアの課題と未来』編集雑感 (4): 和田勝「介護保険制度の設計思想」を語る
ある会合で役人が嫌いですかと聞かれた。とんでもない誤解である。例えば、和田勝氏の業績と背景にある考え方を私は高く評価する。和田氏は1990年代半ば、高齢者介護対策本部事務局長として、厚生省(当時)のエースたちを率いて、介護保険制度の設計を指揮した。
当時、家族の介護負担は深刻な社会不安になっていた。介護サービスは公費による老人福祉と医療保険という2つの異なる制度で提供されていたが、不公平で使いづらいものだった。94年細川護煕首相の国民福祉税構想があっけなく挫折した。この事件で厚生省は税に頼ることの難しさ、危うさを痛感し、社会保険による介護の提供を本気で考え始めた。
『地域包括ケアの課題と未来』から、和田氏の考え方を示す文言を抜き出す。
「重視したのは、単なる財源対策ではなく介護に関する新たな理念を打ち出すこと」「それが、『個人の尊厳』の尊重であり、それに由来する『自立支援』です。」
「保険制度の下では、サービス利用は被保険者の権利ですから、『選択・契約』の仕組みとなり、その結果、市場機能が効いて事業者のサービス提供拡大や質の改善の意欲を刺激します。介護ニーズの拡大は確実で、サービス利用があれば保険から事業者に金が支払われます。予算範囲内でしかサービスを提供できない措置制度に比べて、サービス提供量が増加します。」「拡大するニーズに対応するため、在宅サービス分野では営利法人・協同組合・NPOなどの民間事業者の参入を認めました。」
「(保険者は)地方自治の本旨からすれば、当然市町村が担うべき役割です。」
「給付は、現物給付とし、家族への現金給付は制度化しないこととしました。足りないのは『カネ』ではなく『良いサービス』だからです。」
和田氏は中央統制より市場機能を重視し、サービスの受け手と提供者の自由意志を尊重する。その背景に憲法があることが、「個人の尊厳」と「地方自治の本旨」という日本国憲法固有の文言がそのまま使われていることから読み取れる。
高橋和之(『立憲主義と日本国憲法』有斐閣)によると、「憲法はその社会の基本価値を体現」しており、日本国憲法の基本価値は「個人の尊厳」である。「社会あるいは国家という人間集団を構成する原理として、個人に価値の根源を置き、集団(全体)を個人(部分)の福祉を実現するための手段とみる個人主義の思想に基づく。」「『個人の尊厳』を表明した日本国憲法は、全体主義を否定し個人主義の立場にたつことを宣言したのである。」全体主義のナチスドイツでは、社会的弱者が大量殺戮の対象になった。弱者への福祉サービスは個人主義に親和性を持つ。
「地方自治の本旨」という文言には「団体自治」と「住民自治」という2つの意味がある。「団体自治」とは、自治体に、国家に対するチェック・アンド・バランス機能を持たせることであり、一定以上の規模が要請される。都道府県が想定されるが、日本の都道府県の実態は憲法の期待を裏切っている。和田氏が求めているのは「地方自治の本旨」のもう1つの意味「住民自治」である。個人に身近な基礎自治体が住民参加により個人の尊厳の確保をすべく努力することを意味する。
筆者は、過去10年間、厚労省の医系技官とくに、医療事故や感染症に関わる医系技官と厳しい議論を繰り広げてきた。彼らは医療事故調査委員会の設計にあたり、医療を善悪の尺度で、中央主導で裁こうとした。医療における正しさを法システムで固定し、進歩を阻害しようとした。医学における正しさは善悪というより知に関するものであり、仮説的、暫定的である。知を増大させるために、未来に向かって議論が継続されなければならない。新型インフルエンザ騒動では、大量の事務連絡を連発して、医療現場を混乱させた。科学的に無意味な検疫と停留措置で人権を侵害した。「社会保障制度改革国民会議報告書」以来、医療行政の「強制力」を強めようとしてきた。医療の需要を測定し、医療サービスを計画的に供給することを目指してきた。医療機関から消費税損税を取り上げ、それを補助金としてばらまき、医療機関を支配し、経営努力の空間を狭く窮屈にした。あたかも、旧共産圏の統制医療を目指しているかのようである。
和田氏の介護保険の設計思想は、今日の医療政策の進んでいる方向と真逆である。
少し脱線する。筆者は2015年9月、行政官の違法行為を指摘したことを理由に、医系技官の指示に従った経営者によって懲戒解雇された。経営者は、医系技官に筆者の行政批判を止めさせないと、補助金を出さないと脅された。経営者は、筆者に補助金がもらえないと困るので、行政批判を差し控えられたいと、当たり前のごとく、何の屈託もなく述べた。脅した医系技官も経営者も、立憲主義の基本的な考え方を知っていたとは思えない。日本国憲法は、憲法の基本価値である「個人の尊厳」を守るため、国家権力を制限している。日本国憲法が、国民ではなく、公務員に憲法を尊重し擁護する義務を負わせているのはこのためである。憲法という制限がなくなると、国が暴走して人権侵害が生じ、国が危うくなるというのが憲法の前提である。医系技官という集団に憲法無視の傾向が見られるとすれば、医系技官制度の基本部分を考え直さなければならない。
話を元に戻す。和田氏の文章には、措置制度に対する強い問題意識がみてとれる。措置制度は個人の尊厳と密接に関連する。和田氏の問題意識は周囲で共有されていた。
大森彌東大教授(当時)は、地方分権を専門とした行政学者である。高齢者介護・自立支援システム研究会の座長として、介護保険法成立に大きな役割を果たした。大森教授の措置制度に対する考え方を大熊由紀子氏の『物語介護保険』(岩波書店)から紹介する。大森教授は、座長役になることを依頼されたとき、「厚生省は本気で措置制度を廃止する決心をしているのですか」と尋ねた。「大森さんは幼くして父を失い、町工場で働きながら夜学で高校を卒業した経験の持ち主です。」「生活保護を受けていることが小学校の担任教師の口から、級友に知られてしまい、惨めな思いもしました。人間の誇りを傷つける『措置』という制度の宿命を、身をもって体験していたのでした。」
元キャリア官僚の武田雅弘氏は、自ら介護事業を立ち上げた経験を有する。厚生省に入省直後に、和田氏の部下として薫陶を受けた。武田氏は『新13歳のハローワーク』(幻冬舎)で、中学生向けに介護保険について解説した。メインテーマは「措置から契約へ」である。「介護をしてあげる側」と「介護をしてもらう側」という、片方がもう片方に一方的に恩恵を与えるという関係そのものを変えていかなければ、介護サービスの質は向上しない。人が人に何かを「してあげる」という関係は、一歩間違えると「善意でしてあげているのだから、してもらったことには文句を言うな」とばかりに、「してあげる側」は強者の立場に立つ。これは悪徳によるのではなく、関係が対等でなかったために、人の心の働きによって自然にそうなった。措置から契約になって「してもらう側」が「お客様」に変化すると、介護事業者はサービスの品質を高くしないと、サービスを買ってもらえなくなり、事業を続けていけない。「お客様」も、利用可能な範囲を超えるとすべて自腹になるので、何でもかんでもしてほしいという甘えは通用しなくなる。
1990年代半ばの厚生省の法令事務官たちと、現在の医系技官の違いがなぜ生じたのか、国を危うくしないためには、人間の深い部分にまで立ち入った研究が必要である。
(Socinnov掲載記事)