西への衝動

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  • 西への衝動

自衛隊退官直後、ハーバード大学アジアセンターの上級客員研究員として、2年間(05~07年)遊学させて頂いた。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の著者、ボーゲル教授邸の3階を借りて住んだ。2階には当時東京外国語大学の荒このみ教授(アメリカ文学者)がマルコムX研究のため住んでおられた。荒教授には「西への衝動」という著書がある。その本の中に次のような記述がある。

「コロンブスは、アメリカ『発見』につながる4回の航海をした。コロンブスの西へ西へという衝動は激しく、神秘的ですらある。西へ行けばインドに到達するという思いは、コロンブスには信仰に近かった。(中略)北を向く磁石の指針性を利用した羅針盤が、コロンブスを西へ西へとつき動かした。西への航海に執着するコロンブスのやみがたい衝動が、『新大陸』アメリカの地に、あたかも植えつけられたようだ。ほとんど『遺伝子』ともいえそうな西への衝動は、『アメリカ』の本質となっていった。」

コロンブスの信仰を受け継いだ、「アメリカの『西への衝動』」は新大陸発見以降、その地で根付き育まれていった。コロンブス個人の「西への衝動」がアメリカという国家の「DNA」として刻み込まれ、育まれていった様子を、私は「三段跳び(ホップ・ステップ・ジャンプ)」の喩えで説明して見たい。

  • 西方を目指し、「ホップ・ステップ・ジャンプ」

第一の「ホップ」の段階においては、ヨーロッパから多数に移民が、大西洋を越えてアメリカに西進してきた。大西洋を越えた動機・経緯は様々だった。宗教的な迫害、貧困、飢餓などから逃れるため、あるいは囚人、奴隷として強制的に新大陸に移送されたケースもある。1718年のイギリスの法律によって重罪受刑者のアメリカ移送が定められた結果、植民地独立までに5万人以上の囚人が移送されたが、それはイギリスからの全移民の4分の1を占めたという。

また、アフリカから多数の黒人が奴隷貿易により、アメリカに運ばれてきた。デュ・ボイスの「アフリカ百科事典」によれば、新大陸に売られていったアフリカ人奴隷の数は、16世紀90万人、17世紀275万人、18世紀700万人、19世紀400万人と概算されている。しかし、これは新大陸にたどり着いた奴隷の数であり、アフリカで拉致された後、海上輸送の途中で死亡した数はその数倍にのぼるといわれる。航海は3ヶ月近くかかり、フランスの奴隷貿易港ナントにある奴隷貿易会社の18世紀の記録では航海中の奴隷の死亡率は8~32%と推定されている。船中で疫病が発生した例では、アフリカで「積み込んだ」189人の奴隷のうち、アメリカで「荷揚げされた」奴隷がわずか29人という記録もある。

いずれにせよ、このように、囚人を含む移民や奴隷など様々な理由・動機・経緯はあるものの、アメリカ人の祖先達は、ヨーロッパ・アフリカから「西へ向かって」大西洋を越えて新大陸に渡ってきたわけだ。

第二の「ステップ」の段階においては、1776年に北アメリカ東部の13州がアメリカ合衆国として独立した後、西へ向かって開拓を続け、次々と版図を広げ、今日のアメリカのように大西洋から太平洋に至る大国に発展・拡張する過程である。この間には、1848年カリフォルニアで金鉱が発見された。砂糖を目指す蟻のように、金鉱での一攫千金を夢見る人々により、西部開拓が加速し、1890年にはフロンティアの消滅が宣言された。

アメリカの西部開拓とは、土地を収奪するため、先住民のインデアンを駆逐するための戦争もであった。アメリカはこの戦争を通じ、二つのDNAを獲得した。最初のDNAについて、松尾文夫氏は、著書「銃を持つ民主主義」の中で、「アメリカは西部開拓・発展を通じ『国家発展の為には“武力行使”をも厭わない』という自らのDNAを扶植した。銃社会アメリカの起源もここにある」と指摘している。二つ目のDNAとは、「マニフェスト・デスチニー(明白な天命)」と呼ばれるものだ。「マニフェスト・デスチニー」とは新生国家アメリカがインディアンを殺戮・駆逐して西部開拓を行うのは、神の意思にかなった節理であるという考え方(イデオロギー)だ。これについては、次回「やたがらすの眼」で取り上げたい。

第三の「ジャンプ」は、アメリカが「西への衝動」というDNAに突き動かされて、西海岸で停止することなく、8000キロ以上の波濤を超えて太平洋を越えて西進し、アジアや中東にまで覇を唱えようとする動きである。アメリカの現在のフロンティアは、中国・アフガン・イラクといったところだろうか。「ジャンプ」の明瞭な契機は、1899年のヘイ国務長官による「門戸開放宣言」であろう。勿論それ以前にもペリー米海軍提督が1853年と翌54年に太平洋を横断し、日本に開国を迫るなど、「西への衝動」の兆候が見える。

そして、まさにこの「ステップ」から「ジャンプ」に移行する19世紀末の節目に、アメリカのDNAともいうべきマハンの海軍戦略理論(次次回「やたがらすの眼」で取り上げる)が世に出た。

このように、新生アメリカは幼児期に当たる建国から西部開拓に時代に、今日その国家的特質を形成した幾つかのDNAが生まれた。「三つ子の魂百まで」の諺どおり、これらのDNAは、今日アメリカの行動を律するものだ。

これらの特性こそが、中国が経済的・軍事的に急速に台頭しつつある今日、大きな意味を持つばかりではなく、我が国の安全保障の基本的前提条件・環境ともなるものだと思う。

 

(おやばと連載記事)

 

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