「我が国の歴史を振り返る」(54) 「大東亜戦争」の戦争戦略
▼はじめに
昭和20年8月14日、日本政府は、閣議で「ポツダム宣言」受諾を決定するとともに、重要機密文書の焼却を決定します。「ポツダム宣言」に「戦犯の処罰」が記述されていたので、「戦犯にかかわるような文書を全部焼いてしまおう」との意思が働いたといわれます。
この決定を受けて、陸軍省や参謀本部など陸軍の中枢機関が所在した市ヶ谷台では数日にわたり大量の文書が焼却されました。その結果、不幸にも「歴史の真実」を語る貴重な資料の大半を失ってしまいます。
しかし、占領軍に押収された資料も少なくなかったのでしょう。最近、米国スタンフォード大学フーヴァー研究所の西悦男教授が、それら占領軍が押収した歴史資料などを発掘し、鋭い角度で「歴史の真実」を解き明かしています。
時々、私も西教授の解説を勉強させていただていいますが、それらによると、私などはまだまだ歴史の真相の“上澄み”を漁っているだけなのかも知れない、との思いに駆られます。
読者の皆様にも、日本の命運を狂わした「大東亜戦争」の真相にはまだまだ感知し得ない部分があること、そして、本メルマガは、これまで私が“知り得た情報”に基づき、現時点でこれが“史実”だろうと判断していることを要約しているに過ぎないことをご理解いただきたいと願っております。
▼我が国の戦争指導組織―陸海軍の対立
「大東亜戦争」を振り返る時、我が国の失敗の要因として必ず指摘される「陸海軍の対立」について再度触れておきましょう。
まず、我が国と対比される米英の戦争指導組織ですが、英国は、第1次世界大戦の苦い経験から、大戦後の1918年、早くも「王立空軍」を独立させ、1924年に国防会議付属機関として3軍参謀総長会議を設置します。そして、1940年にチャーチルが首相になると、国防大臣を新たに設置して自ら兼務し、シビリアンコントロールの体制を整備します。
同時に、3軍参謀総長会議の下部組織として統合計画幕僚部・統合情報委員会・統合行政計画幕僚委員会等を設け、チャーチルは3軍参謀総長会議を活用して戦争指導を行いました。
米国は、英国との連合作戦を協議するために英国に倣って統合幕僚会議ならびにその下部組織を整備して、ルーズベルト大統領が戦争指導に活用します。さらに、真珠湾攻撃の後には、その教訓から太平洋や欧州などの主要戦域の指揮権を統一した「統合部隊」を設けます。
我が国の陸海軍が明治初期の生い立ちから違ったことはすでに述べました。陸軍がドイツから倣ったのに対し、海軍は英国から倣いました。その結果、ドイツと英国の国防思想・作戦思想・政治との関係などすべてを陸海軍がそれぞれ別個に模倣することになり、相互不信と対立を生み出す土壌が出来上がっています。
それでも明治18年に「国防会議」を設置し、皇族を議長として陸海軍の将官を議員とする会議を立ち上げますが、明治22年に創設された海軍参謀本部が海軍省の隷下に入ったため、統合された参謀本部は解消されてしまいます。
「日清戦争」1年前の明治26年には、「戦時大本営条例」が制定され、戦時の軍令は“陸軍参謀本部の下で統合”されます。この態勢で「日清戦争」を戦いましたが、戦争後、海軍側の主張によって「戦時大本営条例」が改正され、参謀総長と軍令部総長が並列した大本営をもって天皇を輔弼するシステムに改められます。日露関係が風雲急な情勢下で、陸軍は海軍を協議に引き出すための手段として改訂したといわれます。
この態勢で「日露戦争」を戦い抜き、統合運用は戦後の課題となったようですが、戦後まもなく児玉源太郎が急逝したため、この課題は果たされることなく時が過ぎてしまいます。逆に、明治末期には「長派陸軍」「薩派海軍」と言われたように、藩閥抗争も災いして、陸海軍の対立の根っこは、容易には抜き差しならぬ“深み”にはまっていきます。
我が国はまた、第1次世界大戦には限定的参加にとどまったため、英国のように、欧州戦場で展開された戦争やその教訓を学ぶ機会がなく、大本営政府連絡会議などにおいて、考えや立場を異にする陸海軍が激しい対立を繰り返しながら「大東亜戦争」を迎えることになります。
ようやく、昭和18年頃、窮迫する戦況を打開する決め手として陸海軍合一論が中央統帥部などで議論されますが、“時すでに遅し”でした。
▼「大東亜戦争」という呼称
1941(昭和16)年12月8日、日本軍はハワイの真珠湾を攻撃するとともに、英領マレー半島に上陸し、ここに「大東亜戦争」の火ぶたが切られます。12月12日、東條内閣は、「支那事変を含めて『大東亜戦争』とする」と閣議決定します。よって、「大東亜戦争」の開始は1937(昭和12)年7月7日(盧溝橋事件勃発の日)ということになります。
「欧米諸国によるアジアの植民地を解放し、大東亜共栄圏を設立してアジアの自立を目指す」という理念を貫こうとしたこの名称は、アジアの植民地の宗主国を中心に構成された連合国にとっては都合が悪かったため、戦後、GHQによって使用禁止となり、「太平洋戦争」という呼称が代わって用いられるようになります。
その後、マスコミなどでは「大東亜戦争」の呼称が意図的に控えられていますが、逆に「大東亜戦争」の呼称を使用すべきとの主張もあります。
のちほど触れますが、我が国が目指した戦争計画そのものからしても、元来、「太平洋戦争」と呼称すべきものでなかったことがわかりますが、本メルマガでは、“閣議決定した呼称を使うべき”と立場でこれまでも「大東亜戦争」という呼称を使用してきましたし、今後も使用するつもりです。
ちなみに、本戦争に関する書籍は巷に溢れていますが、使われている呼称だけで「どちらの立場か」がただちに判明できるという便利さがあります。そして一読するとすぐ納得します。
▼「秋丸機関」による研究
我が国の戦争計画は、1941(昭和16)年11月15日の大本営連絡会議で「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」(以下、「腹案」)として決定されます。当然ながら海軍も同意しました。
その内容は、「陸軍省戦争経済研究班」(以下、「研究班」)が昭和14年秋以降、およそ2年間かけて研究した成果を継承・編集したものでした。本研究班は、これを率いたのが秋丸次郎中佐だったことから「秋丸機関」と呼ばれています。
研究班は、軍人のみならず、大学教授、企画院、外務省・農林省・文部省などの少壮官僚に加え、民間企業、業界団体、金融機関などの精鋭など、総勢2百名に及ぼうとする巨大な組織でした。中には、治安維持法違反で検挙され保釈中の身であった東大助教授(休職中)のマルクス経済学者・有沢広己のような異色に人物も含まれていました。
大本営連絡会議において決定された「大東亜戦争」の戦争戦略は、その存在自体も歴史の中で埋もれ、長い間完全にベールに包まれていました。なぜか防衛研究所戦史室が編纂した『戦史叢書』(全102巻)にも一切触れられていませんでした。
恥ずかしながら、元幹部自衛官の私でさえ、その概要を『日米開戦陸軍の勝算―「秋丸機関」の最終報告書』(林千勝著:2015年初版発行)で知ることになりました。興味のある方がご一読願います。細部は省略せざるを得ませんが、戦後、語られているイメージと違い、陸軍がいかに科学的かつ合理的だったかも理解できます。
特に、我が国やドイツ、それに米英の戦争遂行能力(研究班は「経済抗戦力」と呼称)分析は、かなり的確なものでした。例えば、ドイツについても、ドイツの勝利を妄信していた大方の陸軍参謀達と違い、経済抗戦力を独ソ戦最中の昭和16年がピークと見積もり、生産力確保のためにはソ連占領が必要なこと、しかも対ソ連戦が膠着状態になる可能性があること、それがドイツにとって大きなリスクになることまで研究されていました。
また、米英の英国の経済抗戦力についても、各動員力や弱点をほぼ的確に見積り、大きなリスクを負いながらも、“これら弱点を突く方策はある”と極めて科学的に見積もっています。
さらに、報告書によると、米国の「対日原油全面禁輸」がいかに我が国を“絶望の淵”に追い込んだかもよくわかります。
個人的な印象を隠さずに言わせていただけば、私はこの書籍を通じて、それまで不可解だった旧陸軍の“あの戦争に賭けた意図”に触れたような気がして、以来、私の“陸軍観”は180度変わりました。それが本メルマガをスタートさせるきっかけにもなりました。
ちなみに、国家総力戦に関する基本的な調査研究と各省庁や民間などから選抜された研究生に対する教育と訓練を目的に設立された内閣総理大臣直轄の「総力戦研究所」は、この「秋丸機関」とは別物です。
こちらは、『日本人はなぜ戦争をしたのか 昭和16年夏の敗戦』(猪瀬直樹著)で詳細に紹介されておりますが、林氏は、「この演習では、総力戦に対する深い洞察も敵の弱点の研究・検討もなかった。猪瀬氏は、この最も大事な点を致命的に見過ごし誤解したまま、短絡的な文脈に基づく著作を世に出してしまい、世間を誤った方向に誘導した」と指摘しています。2冊を比較すると、その違いは一目瞭然です。
▼我が国の戦争戦略
さて、我が国の戦争戦略、つまり「腹案」の内容に触れてみましょう。「腹案」は「方針」と「要領」にわかれます。「方針」の第1段階は、「速やかにアメリカ、イギリス、オランダの極東の拠点を叩いて南方資源地帯を獲得し、自存自衛の体制を確立する」として「大東亜共栄圏という広域経済圏の獲得」を掲げています。
そして第2段階は、「比較的脆弱な西正面(インドやオーストラリアなど)、及び蒋介石政権を屈服し、ドイツ、イタリアと連携してイギリスを封鎖・屈服する。アメリカについては、合作相手のイギリスの屈服により戦争継続の意思を喪失せしめる」としています。この内容は、明らかに「秋丸機関」による研究成果の最終報告から導き出されたものでした。
次にそれらの「要領」です。第1段作戦は、「長期自給自足態勢の確立」を掲げるとともに、「アメリカ海軍主力については、日本から積極攻勢に出るのではなく、逆にこちらへ誘い込んで撃破する」という日本海軍の伝統的な“守勢作戦思想”を掲げています。まさに「日露戦争」時の「日本海海戦」の再現を目指していたのです。
第2段階作戦の核心は、イギリスの屈服をはかるために西向きの方策、つまり「西進」が記されています。日本はまず、インドやオーストラリアに対して攻略や通商破壊などの手段によって、イギリス本国と遮断して離反を図ります。その結果としてビルマの独立を促進し、インドの独立を刺激します。
さらに日本と呼応して、ドイツとイタリアが近東・北アフリカ・スエズに侵攻して、西アジアに向かう作戦を展開します。イギリスの封鎖・屈服のためには、日本によるインド洋やインドでの作戦が極めて重要とされました。
アメリカに対しては、この段階でもあくまで“アメリカ海軍主力を極東近くに誘い込んで叩く”のであり、日本が積極的に“東進”して積極攻勢に出ることは全く意図していないことを繰り返し述べています。
その他、蒋介石政権の屈服については、特にアメリカ・イギリスの援助の遮断に力点が置かれ、ソ連に対して、南方進出の関係から戦争を回避する方針でした。
以上が、我が国の「大東亜戦争」に臨む戦争戦略・国家戦略でした。実際の戦争経緯は、当初の予定にはなかった「真珠湾攻撃」や「ミッドウェー海戦」などが生起したのに加え、ドイツとイタリアが早期に敗北して、日本が描いた戦略環境は大幅に狂いますが、昭和16年当初の戦略としては、当時の状況からけっして“無謀なものではなかった”ことがわかります。
これまで何度も触れてきました武藤ら陸軍省と田中ら参謀本部の考えもほぼ同様でした。つまり、「対米英蘭戦は長期戦になる。よって、先制奇襲攻撃によって戦略上優位な態勢を確立し、重要資源地域及び主要交通路を確保して長期自給自足の体制を整える」ことを目指していました。
唯一の差異は、田中らが依然として南方資源を確保した段階で、対ソ武力行使を行うことを意図していたのに比し、武藤らは、対ソ武力行使には否定的でした。いよいよ次号から「真珠湾攻撃」に始まる日米の戦いを中心に振り返ってみましょう(以下次号)