Home»連 載»歴史シリーズ»「我が国の歴史を振り返る」(55) 「真珠湾攻撃」の真実

「我が国の歴史を振り返る」(55) 「真珠湾攻撃」の真実

0
Shares
Pinterest Google+

▼はじめに

 ようやく、「真珠湾攻撃」を振り返るところまで出来ました。「真珠湾攻撃」をはじめ、旧海軍が実施した各作戦を振り返り、我が国の戦争戦略に照らして適切だったかどうかを言及するのは、元陸上自衛官の私であっても正直、複雑な気持ちになります。

 その理由は、史実を辿ると、当時、国家の英雄として国葬まで執り行われた山本五十六提督をはじめ、旧海軍の戦略や体質をどうしても批判することになるからです。

その上で、「おまえは元陸上自衛官だから、海軍の作戦は素人だ」と海軍びいきの関係者から非難されることをあえて覚悟して申し上げれば、戦後「なぜ海軍作戦の稚拙さが表に出ず、旧陸軍だけが悪者にされるのか」の理由について、不勉強ですが、未だ納得が行く“説明”に出会ったことがないこと、そして、今なお「伝統墨守」の海上自衛隊が旧海軍の伝統を受け継ぎ、旧軍の提督達を敬愛し、旧海軍と同じような人材育成を実施していることについてどうしても理解に苦しむとの立場から、本メルマガに限っては本音を書こうと決意しました。

20年ほど前でしたか、旧海軍出身で存命の5人の元佐官達が、海軍関係者にしては珍しく“本音”を披露した『日本海軍の功罪』という書籍を発見しました。海軍にも史実や自分達の組織を正しく評価する“良識派”もいたことに安堵した覚えがありますが、今、改めて読み直しますと、「海軍関係者としてこれ以上は書けないのだろう。当時の佐官クラスでは止むを得まい」が率直な感想です。

本メルマガでは、遠慮しつつももう少し踏み込みたいと考えていますが、“意のある所”をご理解いただければありがたい限りです。

▼「真珠湾攻撃」は計画された作戦だったのか

 「大東亜戦争」のうち、主に「日米戦争」は、大きく4期に分けることができます。

第1期が開戦から約4カ月間で、我が陸海軍が大活躍した時期、第2期がその後の約1年2カ月間で、我が陸海軍が連合国軍とほぼ互角に戦争をしていた時期、第3期が昭和18年7月から約1ケ年間で、我が陸海軍が防戦一方の作戦を強いられた時期、そして第4期が昭和19年7月から終戦までの約1年1か月で、端的に言えば、我が方にとっては敗戦処理、連合国軍側にとっては残敵掃討の時期でした。

本メルマガでは、この区分に添って、戦争の経緯の要点、そして各期の戦争指導に焦点を当てて振り返ってみることにします。

 さて、第1期の緒戦「真珠湾攻撃」です。その華々しい大勝利について細部を解説する必要はないと考えますが、「真珠湾攻撃」の大成功のニュースはまたたく間に日本中を熱狂させ、山本五十六連合艦隊司令官は“軍神”のように当時の新聞やラジオで大賞賛されました。

他方、有名な「リメンバー・パールハーバー」の合言葉に代表されるように、本奇襲作戦はルーズベルト大統領にたくみに利用され、米国人の戦意に火をつけてしまいました。米国民は激高し、厭戦気分は雲散霧消、「日本叩くべし」の声が全米で高まってしまったのです。

そもそも実際の我が国の戦争戦略・計画(いわゆる「腹案」)には「真珠湾攻撃」が含まれていたのでしょうか。

日本の軍部は、ルーズベルト大統領がチャーチルの要請に応えて第2次大戦に参戦したがっているのに反し、米国民の多くが第2次世界大戦への参加を拒んでいることを良く知っていました。だから、米輿論の厭戦気分を高め、戦意を喪失したままにしておくことが得策と考えていたのでした。

 前回紹介しましたように、「腹案」は、その手段としてアメリカを直接叩くというよりも盟友イギリスを屈服させることを選択していました。その「腹案」に同意していた海軍軍令部は、当然ながら「真珠湾攻撃」に大反対していました。

大本営政府連絡会議で「腹案」を決定したのは11月15日でしたが、その時点で山本五十六率いる連合艦隊は「真珠湾攻撃」を目指し、最後通牒が米国に手渡されればすぐに攻撃できるように大きく動き出していたのです。当時、第1航空艦隊所属の飛行機が錦江湾など九州各地で猛訓練していたのもこの頃です。

 これは、明らかに「戦う場合は“極東に米海軍をひきつけて”」との方針だった「腹案」、つまり大本営政府連絡会議の方針を無視した行動であり、軍事組織として体を成していないと批判されてもしかたがないと考えます。

これに対して「緒戦のみ戦術として真珠湾を攻撃して米国に打撃を与え、後は極東、インド洋での戦闘に注力するという戦術はあり得た」という意見もあります。つまり、「大本営の『戦略』と山本の『戦術』に齟齬はない」というわけですが、「米国を怒らせない」「厭戦気分を高める」「米軍を極東に誘致する」という「戦略」に対して「戦術」の狙いがあまりに違うことは明白で、実際に大いなる齟齬を来す結果ともなりました。

 山本長官はなぜ「真珠湾作戦」、そしてこの後の「ミッドウエー作戦」を実行したのでしょうか。今になって振り返ると、両作戦ともあまりに無謀で、「やるべきではなかった」と結論づけざるを得ないのですが、米国通の山本提督がなぜこのような大ギャンブルを打ったのか、その究極の真意はどこにあったのでしょうか。

 「吉田ドクトリン」の名付け親として有名な、今は亡き永井陽之助氏は、『歴史と戦略』の中で「海軍主流派の大艦巨砲主義を嘲笑していた山本長官が、どうも真珠湾で多数の『戦艦』が撃破、撃沈されれば、アメリカ人に与える心理的効果絶大なものと心から信じていた形跡がある」として、「山本長官ともあろう人物が、どうして、かくも素朴になり得たのか」との疑問を紹介しています。

そして、「連合艦隊司令長官よりも海軍次官が適役で、戦略家、実戦指揮官よりも、軍政家としてその行政、管理能力が高く評価される」と結論づけ、よく言われる“親分肌の人情味(人気どり)についても厳しい評価をしています。

 実際に、長官として宇垣纏(まとめ)参謀長を無視し、腹心の先任参謀・黒島亀人(かめと)(奇人変人として有名だった)に直接指示したとの事実や「根っからのギャンブラーの魂を持っていた」とする副官の証言などからしても、その実像は、戦後の“伝説”と違っていたのかも知れません。

▼軍令部はなぜ止められなかったのか

 次に、山本長官はいつから「真珠湾攻撃」を決めていたのか、また、軍令部や大本営政府連絡会議がなぜ山本長官の“暴挙”を止められなかったのか、との疑問が頭をよぎります。

その答えとして、昭和16年1月7日付の山本長官から及川古志郎海相宛の書簡の中に「開戦劈頭に敵主力艦隊を猛撃爆破し、米国海軍及び米国民をして救うべからざる程度にその志気を阻喪せしめる」とありますので、この時点で本作戦を考察していたということになるでしょう。「腹案」より10カ月も前です。

そして3月頃、連合艦隊から「真珠湾攻撃」の細部を聞かされた軍令部が大反対したとの記録も残っています。10月に入り、山本は「これをやらされなければ辞める」とまで主張して永野修身軍令部長を説得したようで、永野軍令部長は、熟慮の末、「出先指揮官を羈絆(きはん)せず自由にやらせるのが我が海軍の伝統だ」として同意されたといわれます。

「羈絆」とは「さまたげになる」との意味ですが、国家の命運を決する一大作戦を「海軍の伝統」として独断で同意してしまったのです。

では、東條首相・陸相は「真珠湾攻撃」を知っていたのでしょうか。戦後の東京裁判において、東條は「真珠湾攻撃」についてキーナン検察官から執拗に質問されますが、東條は「連合艦隊が『真珠湾攻撃』を準備していたことも、11月5日に作戦命令が発せられたことも、11月23日頃、連合艦隊が日本を出発したことも知らなかった。知ったのは12月1日、(最終決心の)御前会議の日であり、陸軍大臣として参謀総長から知らされた。御前会議でも話題にならなかった。8日までの間、何度も謁見したが、首相の立場で天皇にそれについて報告することもなかったし、話題にもならなかった」と証言しています。

この証言によれば、現役の陸軍大将とは言え、一国の首相にも報告しないまま、海軍が、連合艦隊主導で「真珠湾攻撃」を準備・発動し、ゴーがかかる時を待っていたということになります。

東條の証言からすれば、天皇もこれについては知らなかったようです。昭和天皇や側近の日誌などについて書かれた書籍を読む限りにおいても、「天皇が事前に『真珠湾攻撃』を知っていた」と記述している文章を発見することはできませんでした。本当に極秘裏に作戦準備が進めされていたようです。

この事実を裏付けるように、前述の『日本海軍の功罪』に登場する源田実氏は、「真珠湾攻撃のために航空母艦が出港した事実を日本人の目から隠すために、涙ぐましいような努力をした」旨のことを暴露しています。

ここにこそ、戦前の日本政府の組織的欠陥があったといわざるを得ないのです。前回指摘しましたように、①陸海軍の対立、に加え、②統帥権の干犯問題により、(現役の軍人が司る内閣であっても)政府が軍部をコントロールできない、③天皇の軍事的・政治的な権限は実質的に存在しなかった、ことが“現実”だったわけで、強力なシビリアンコントールの元で統合運用体制が完成していた米英と我が国は全く違った体制で戦争に突入したのでした。

▼なぜ最後通牒は遅れたか

 思うに、「真珠湾攻撃」そのものが「戦略ミス」とするならば、有名な「最後通牒の遅れ」は、ルーズベルト大統領にとっては“願ったりかなったり”の「戦術ミス」だったと考えます。それを「日本軍は宣戦布告なしに卑怯な攻撃を行った」として逆用され、「スニーク・アタック」や「リメンバー・パールハーバー」の合言葉のもと、厭戦気分のアメリカ国民は一気に燃え上がりました。

 その最大の要因として、一般には在ワシントン大使館の前夜の送別会に加え、事務方が翻訳に手間取ったこととなどが挙げられています。機転の効かないエリート官僚の典型としてそれ自体は批判されるべき不手際ですが、どうもそれだけが遅れの原因ではなさそうです。

そもそも「開戦に関する条約」(1907年成立、日本も署名)では、「締結国は、明瞭かつ事前の通告なしに相互間の戦争を開始しないこと」と書かれており、山本長官もその点を最も気にしていたといわれます。

他方、海軍軍令部は、奇襲を成功させるために、当初は「真珠湾攻撃開始予定時刻の1時間前に通告」と決めていたものを、軍令部次長の伊東整一がさらに検討を加え、「攻撃開始の30分前」の手交に変更しました(この事実はなぜかあまり語られていません)。

これもあってか、全部で14部からなる覚書のうち、最後の1部が本省から現地に届いたのは、13部目が届いた14時間後だったとのことで、しかもそれには「大至急」の指定がないばかりか、誤字脱字だらけで解読作業が大幅に遅れたようです。

人類の歴史を振り返れれば、「宣戦布告」のない戦争など珍しくありませんし、第2次世界大戦においては、ドイツのポーランド攻撃もソ連による日本攻撃も「宣戦布告」はありませんでした。アメリカの戦後の戦争もほとんどの場合、宣戦布告なしに攻撃を行っています。

それらから考えますと、「真珠湾攻撃」のみが“卑怯扱いされる筋合い”はありませんが、ルーズベルト大統領のプロパガンダに逆用されたことは間違いなく、海軍と外務省の意思の疎通の悪さや現場の事務処理能力の不十分さなどから、我が国が汚名を着せられた上に命運まで左右されたことは、何とも複雑な思いに駆られます。

 ちなみに、当時ワシントンで勤務していた外務官僚達はその後、皆、偉くなります。事務次官になった人も国連大使になった人もおります。攻撃前夜の送別会の主役だった官僚は、天皇の御用掛となって、のちに『昭和天皇独白録』を筆記しますが、天皇には最後まで“真相”を話さないままだったようです(苦しかったと想像します)。

次回、「アメリカ側からみた真珠湾攻撃」を取り上げた後、先を急ぎます。(続く)

Previous post

「我が国の歴史を振り返る」(54) 「大東亜戦争」の戦争戦略

Next post

2020年米大統領選 前夜