Home»連 載»歴史シリーズ»「我が国の歴史を振り返る」(30) 「激動の昭和」に繋がった我が国の大陸進出

「我が国の歴史を振り返る」(30) 「激動の昭和」に繋がった我が国の大陸進出

1
Shares
Pinterest Google+

はじめに

 新型コロナウイルス(COVID-19)が世界中に蔓延していますが、今回、本文で取り上げています「第1次世界大戦」の最中の1918年にもインフルエンザ・パンデミックが発生します。通称、「スペインインフルエンザ」、日本では「スペイン風邪」と呼ばれるものです。

当時、約19億人といわれた世界人口の約27%に相当する約5億人が感染し、死者は、1700万人から5000万人(1億人との分析もあります)に及びました。また、現在のコロナウイルスと全く逆で、高齢者よりも若年者が高い死亡率を示しました(この原因は諸説あるようです)。日本でも人口約5500万人の0.7%に相当する39万人が死亡しました。当時の人々の絶望感に胸が痛みます。

このインフルエンザは、北アメリカが発祥の地で、米国の戦争参戦とともに大西洋を渡り、ヨーロッパで大流行したのですが、なぜか「スペインインフルエンザ」と呼ばれます。

その理由は、戦争に参戦していたイギリス、フランス、アメリカ、そしてドイツまでも兵士の士気を維持するために死亡者数の発表を最小限に抑え、報道統制もしていましたが、中立国スペインは、インフルエンザ流行について自由に報道ができましたので、「スペインが特に被害が大きかった」と誤った印象を与えてしまい、名称まで生み出したのでした。

後世の研究によると、スペインインフルエンザはそれまでのものと比較してさほど攻撃性が強いわけではなく、戦時下にあった当時の劣悪な衛生状態、栄養失調、過密な医療キャンプや病院などが重複感染を促進し、この重複感染によって犠牲者が増大したとの分析もあります。

歴史の中で、この種のパンデミックはなぜかあまり話題にならないのですが、上記のような数字を拾ってみると改めて壮絶な人類の歴史に思いが至ります。

幸い、現在は戦時下でありません。各国が協力して人類の叡智を結集して、有効な治療薬やワクチンが開発・実用化されるまでそう長くはかからないのではないでしょうか(そのことを心より期待したいものです)。私達は、政府や自治体の施策や要請を信じ、ひとり一人が、自分ができることを最大限に注意深く実施するしかないと考えます。お互いに強い忍耐力をもって頑張りましょう。

「対華二十一カ条要求」と米国の批判

さて、前回の続きです。青島攻略後の日本は、山東半島を戦時国際法上の軍事占領として軍政を施行し、駐留態勢に入りました。中国は日本軍の撤兵を要求しましたが、我が国は、戦時中につき欧州列国が中国を顧みるいとまがないことと中国内の内紛状態を好機とみて、1915(大正4)年1月18日、〝悪名高い〟「対華二十一カ条」を袁世凱に提出し、回答を迫りました。

その背景を少し振り返ってみましょう。「辛亥革命」(1911年)後、新政・中華民国としては、中国南部の14省が独立を宣言したに過ぎず、清朝の実権は残したまま皇帝を廃止し、袁世凱が大総統に就任しました(孫文との間に密約があったと言われます)。

袁は新憲法を発布して自ら皇帝につくことを宣言したのが、「二十一カ条の要求」と同じ年の1915(大正4)年でした。

当時、日本政府は、まだ中華民国政府と正式な外交条約を締結しておらず、日本と清国との間で結んだ諸条約の継承が明確でないままになっていました。中でも、日本の大陸経営の根拠地となっている遼東半島の租借期限が25年、つまり1923年に切れることが外交上の懸案になっていたのです。

「二十一カ条要求」は、第1号が「山東省のドイツ権益の割譲」(全4カ条)、第2号が「関東州の租借期限や南満州鉄道の権益期限の延長、及び南満州や東部蒙古における日本の独占的地位の承認」(全7カ条)、第3号が「湖北・湖南両省にまたがる中国最大の鉄鋼コンビナートの合弁事業に関すること(全2カ条)、第4号が「中国沿岸の港湾や島嶼部を他国に譲渡または貸与しないこと」(1カ条)などから成り立っていました。

評判が悪かったのが、秘密条項とされた第5号の「懸案解決その他に関する件」に含まれていた①中央政府の政治、財政、軍事顧問に有力な日本人を就任させ、警察官に多数の日本人を採用することなどの“保護国扱い”、そして②南満州から中国の主要都市を結ぶ鉄道敷設権を日本に与えるとの“外国利権”に抵触することでした。

確かに、欧州列国はヨーロッパの戦局に忙殺されて(不満を表明しても)日本へ干渉できなかったのですが、袁世凱が秘密条項をリークして不成立とさせようとしたこともあって中国民衆の抗議運動が拡大する結果に繋がります。

最終的には、第5号を外して袁世凱に受諾させ、公文書を交換します(5月9日)。袁世凱の帝政承認と引き換えとの意味合いもあったようですが、袁世凱は日本の横暴を非難するため、受諾日を「国恥記念日」と定めたのです。

また、日本のこのような勢力拡大を〝目にあまる行為〟として批判したのは、まだ第1次世界大戦に参戦していなかった米国でした。米国は、第1から第3号までは抗議する意図はなく、第4号と第5号については明確に反対、とりわけ、ウイルソン大統領の関心は第5号に集中していたといわれます。

日本政府は、前外相の石井菊次郎を渡米させ、ランシング国務長官と交渉させ、米国は日本の特殊権益を認める一方、中国に関する領土保全、門戸開放、機会均等の原則をうたった「石井・ランシング協定」(1917(大正6)年9月)が結ばれました。しかし、米国が認めた日本の特殊権益は経済的利益のみを指し、政治的利益を含むと解釈した我が国と大きく食い違っていたのでした。

米国の批判の背景に、中国政府の要請に加え、日露戦争以来の日本に対する不信感、そして何よりも米国自体の“利権獲得”を目論んでいたことはまちがいなく、第1次世界大戦後のワシントン会議で、米国は日本の対華要求を放棄させることになります。

なお、秘密条項については、大隅内閣が山県ら元老にも隠していたことが判明し、この後、“大隈落とし”に拍車がかかります。こうして、山県は、後継に推挙された加藤高明をさえぎり、軍の直系の寺内正毅(まさたけ)を後継内閣に押し立てます。

第1次世界大戦への参戦といい、「対華二十一カ条要求」といい、この時代の我が国の為政者の“自制心を欠いた”ような拙速な決断が、日中関係を不可逆的な衝突路線に陥らせ、やがて「満州事変」や「支那事変」に繋がるばかりか、米国をも本気にさせて「大東亜戦争」へ拡大する“導火線”になったと言わざるを得ないのです。

しかし、その時点ではまだ、その後の国際社会の歴史を大きく変えることになる、巨大な時限爆弾の“信管”がすでに動き始めていることをだれも知りませんでした。「ロシア革命」です。

▼「ロシア革命」とソビエトの誕生

共産主義思想の提唱者カール・マルクスが著した『資本論』は、“20世紀以降の人類社会に最も影響を与えた書籍”といわれ、その初版が発行されたのは、産業革命によって資本主義が発展してからおよそ1世紀が過ぎた1867年、我が国の明治維新の前年、「大政奉還」を実現した年でした。

私は本書の細部に触れるだけの知見を持っていませんが、マルクスは、“資本主義がいかに非人間的なものかを分析しつつ共産主義の魅力を説いたこと”で、『資本論』は世界中で大ベストセラーになりました。ただし、今では、かなり短絡した政治経済理論であると批判されています。

皮肉にも、マルクスの理論を実現する形で世界最初の共産主義革命が起きたのが、当時、西欧列国に比して資本主義の発展がかなり遅れていたロシアでした。

「ロシア革命」は、日露戦争後の「第1次革命」(1905年の「血の日曜日」事件)と第1次世界大戦中に発生した「第2次革命」(1917年の「二月革命」「十月革命」)の2段階からなるとされます。

「第1次革命」後、ロシア皇帝は議会の設立を承認し、選挙権を認めるなど市民の自由化要求に譲歩しましたので、事態は一旦、沈静化しました。

第1次世界大戦が勃発すると、ロシア全土に愛国的熱狂が沸き、内政の不満が解消されたかに見えましたが、軍の近代化の遅れが原因となった敗退と長引く戦争は国民生活に打撃を与え、その結果、「第2次革命」が起こります。

そして、ついに1917年3月15日、ロマノフ朝が倒れ、世界初の共産主義国家・ソビエト(ロシア社会主義連邦ソビエト共和国)が誕生します。

ソビエト政府は、1918年3月、ドイツとの間に「ブレスト・リトフスク条約」を結び、戦争から離脱しますが、フィンランド、バルト3国、ポーランド、ウクライナ、さらにカフカスを失い、巨額の賠償金を課せられます。

ドイツが敗北するとこの条約は破棄されますが、ウクライナを除く割譲地域は取り戻せず、独立を認めることになります。第2次世界大戦後、ソ連は再びこれらの地域に進出しますが、この時点で“伏線”があったとみるべきでしょう。

▼「シベリア出兵」と要請と決断

「ロシア革命」の我が国への最初の影響は「シベリア出兵」でした。その概要を振り返ってみましょう。「シベリア出兵」の大義名分は、ロシア極東の「チェコ軍捕因の救出」にありました。

つまり、オーストリア軍の一部として革命軍に捕らえられながら、民族独立のため連合軍側に通じていたチェコ軍(総勢3万4千人ほど)を再び西部戦線に復帰させ、戦力化をしようとした連合軍の作戦でした。しかし、その実態は、連合国によるロシア革命政権打倒を企図した「干渉戦争」でもありました。

他方、西部戦線で手一杯になっている連合軍は大部隊をシベリアに派遣する余力がなかったため、地理的に近く、欧州戦線に主力を派遣していない日本とアメリカに「シベリア出兵」の打診があったのです。

寺内内閣は、「シベリア出兵」について積極的な出兵論とやや消極的な出兵論に分かれていましたが、最終的には対米協定にもとづく妥協案をもって、1918(大正7)年8月、出兵に踏み切ります。

米国との協定では、我が国の派遣規模は米国と同等の8000人だったのですが、英仏が兵力を割けなかったこともあって派遣兵力は3万7千人に膨らみます。青島攻略の兵力が2万3千人だったことを考えるといかにも大兵力の派遣だったかがわかります。

出兵の最大の理由は、「我が国の政体とまったく相反する共産主義の波及阻止」にあったとされますが、またしても諸外国からは“領土獲得の野心がある”と見透かされていたようです。

米騒動」と平民宰相・原敬内閣誕生

以前、“定義が難しい大正デモクラシー”と説明しましたが、その第2章(後半)の幕開けとなったとも言われる「米騒動」がこの「シベリア出兵」の前後に発生します。

「シベリア出兵」の噂が出ると、軍用米を調達すると見積もった商人たちが“戦争特需”を狙って米を売り渋りするなどの混乱が発生します。これに対する民衆の不満が増大し、1918(大正7)年2月、憲法発布30周年の祝賀会記念国民大会時において参加者の一部が暴徒化するという事件が起きてしまいます。

そして、「シベリア出兵」直前の7月、富山県で発生した「米騒動」は、またたく間に約70万人が加わった全国的な暴動となり、寺内内閣は各地で軍隊を出動させてこれを鎮圧します。

「米騒動」の背景には、ロシア革命の影響を受けた労働運動や普通選挙運動への高まりもあって、「シベリア出兵」からわずか40日あまりの9月、寺内内閣は崩壊してしまいます。

後継として、爵位を持たない日本初の首相・原敬(たかし)内閣が発足し、民衆からは、「平民宰相」と歓迎されます。「米騒動」が大正デモクラシーの「第2章の幕開け」と言われるゆえんと考えます。

▼「ドイツ革命」と戦争の終焉

さて、「第1次世界大戦」の終焉についても触れておきましょう。ロシア(ソ連)が革命によって東部戦線から離脱しましたが、西部戦線では、フランスとドイツが互いに想像以上に強く抵抗して戦線が膠着します。こんな中、1916(大正5)年12月、ドイツは講和の意志を連合国側に提案、アメリカのウイルソン大統領が仲介に乗り出します。

しかし、英・仏はこれを拒否して、講和の道を絶たれたドイツは無制限の潜水艦作戦を展開し、アメリカの船舶まで犠牲になったことからアメリカの参戦に拡大します。

ドイツは、ロシア離脱後、東部戦線の兵力を西部戦線に投入して全力で戦いますが、アメリカの圧倒的な物量の前に押しまくられる一方でした。その上、冒頭に紹介しました「スペインインフルエンザ」が猛威を振るい、両軍の兵士達の厭戦(えんせん)気分を高める結果となります。

このような状況下、1918(大正7)年9月にブルガリア、10月にオスマントルコ、11月にはオーストリアがそれぞれ連合国側と単独休戦を行います。なおも戦争を継続しようとするドイツの軍部に対して水兵の反乱が起こり、反乱は革命となって全国に拡大、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに逃亡して共和国が成立します(「ドイツ革命」)。

こうして、11月11日、ドイツの新共和国と連合国との間に休戦協定が成立しますが、ドイツ国民にとっては「確かに犠牲は多かったが、“敗戦”という意識は低かった」ともいわれ、この意識が講和条約とその後の歴史に影響を及ぼすことになります。(以下次号)

Previous post

「我が国の歴史を振り返る」(29) 「大正デモクラシー」の第1幕と「第1次世界大戦」参戦

Next post

COVID-19、`コロナ危機 ’ に覆われた世界