「我が国の歴史を振り返る」(13) 「明治維新」と諸外国の関わり
▼はじめに
ここまでお読みいただいた読者の皆様には、日本史と世界史に“横串”を入れて歴史を振り返ると「違った歴史が見える」ことをご理解いただいているのではないかと思います。しかし、そのことを本当に“実感”するのは「明治時代」以降です。
つまり「明治時代」以降、我が国は、欧米列国や周辺国の“動き”を強く意識しつつ「国の舵取り」を強いられたからです。よって、この“横串”を抜きに、いくら詳細に国内事情のみを研究しても我が国の真の歴史を知ることはできないと考えてしまいます。前置きはそのぐらいにして先を急ぎましょう。
▼ 薩長側のイギリスと幕府側のフランス
江戸幕府の威信の凋落と尊王攘夷運動の中、「公武合体」から一発逆転を狙った「大政奉還」が失敗に終わり、「王政復古」の大号令を経て、「戊辰戦争」「版籍奉還」そして「廃藩置県」に至る『明治維新』の一連の流れについては、歴史物語や大河ドラマに任せるとして、本歴史シリーズらしく「『明治維新』と諸外国と関わり」に焦点を絞り、振り返ってみましょう。
植民地を拡大し、世界の覇権争いを繰り広げる西欧列国にとって、日本は極東に残された最後の“標的”でした。地理的にも東アジアを“牽制”できる要所に位置し、すでにある程度の都市や商工業が発達していた日本と通商条約を結び、実質的に支配することが各国の共通した狙いだったのです。
他国に先駆けて日本の開国を実現した米国が「南北戦争」にかまけている間、優先支配を企図したのは、「安政の5カ国条約」(1858年)で米国同様の条約を結んだイギリスやフランスでした。
イギリス駐日公使のハリー・パークスは、幕府と交渉する一方、「生麦事件」(1862年)や「薩英戦争」(1863年)、そして列強四国との「下関戦争」(1863・64年)などを通じて急速に薩摩・長州と友好関係を深めます。両藩も最新兵器を目のあたりにして、イギリスと手を結んだ方が得策と判断したのでした。
その具体例として、坂本龍馬が仲介した、有名な「薩長同盟」の重要な条件の1つは「薩摩が長州に武器を供与する」ことでしたが、龍馬に武器調達のための資金(の一部)を提供し、イギリスから武器・弾薬などを運んだのは長崎のトーマス・グラバーでした。当時のグラバーは、イギリスの貿易商社で、アヘン戦争の仕掛け人と言われたジャーディン・マセソン商会の長崎支店長という地位にありました。
それ以外に、龍馬の有名な「船中八策」そして「江戸無血開城」などもイギリスが陰の力となったとの説があります。それを証拠に、18年間駐在し、「日本人の手による政変」の実現に貢献したパークスは、「明治政府を最初に承認した外国人」となりました。
それに対して、フランスは、当初は英国と共同歩調をとっていましたが、「生麦事件」の後始末ぐらいから親幕府的立場をとるようになりました。駐日公使ロッシュは、英国に対抗して独自の対日政策を打ち出し、幕府の政策に積極的に関与するようになったのです。
ロッシュは、フランス式の幕府陸軍を建設し、軍事顧問団を派遣して訓練も開始しました。そのための資金の借款まで用意します。また、幕政改革を提言し、その一部は「慶応の改革」として実現しました。さらに「鳥羽・伏見の戦い」(1868年)の敗北後、江戸に戻った徳川慶喜に対して、ロッシュは3度にわたり再起を促したと言われますが、慶喜に拒否されました。
「戊辰戦争は英仏の代理戦争だった」との見方もあります。双方に武器・弾薬を売って利益を得ようとした大小様々な欧米の商社(「死の商人」と言われます)が存在したことは確かですが、パークスの「局外中立」との提案に対して、ロッシュもこれに従うしかなかったというのが事実のようです。
やがて、フランス本国の対英協調政策への変更によってロッシュは解雇されますが、軍事顧問ブリュネは一個人として榎本武揚に合流し、「函館戦争」(1868~69年)に従軍しました。このブリュネは、映画『ラストサムライ』のモデルになったといわれています。「明治維新」にはまだまだ知られていない「物語」が存在しているような気がします。
▼列国勢力の空白期に恵まれた「明治維新」
イギリスとフランス以外の諸外国と「明治維新」の関わりについてもう少し触れてみましょう。
まずアメリカです。幕末と同時期に南北戦争(1861年~65年)が発生したことはすでに触れましたが、それもあって、1861年、幕府がハリスに発注を依頼した軍艦2隻は受注することが出来なくなってしまいます。アメリカは、英・仏・オランダとの四国連合艦隊の一員として「下関戦争」には参加するなど、英仏と協調路線をとるようになり、「戊辰戦争」でも“局外中立”を維持します。
オランダは、鎖国時代から西洋や中国事情を幕府に伝えるとともに、幕府が発注した「咸臨丸」「朝陽丸」、そして幕府海軍最大の軍艦「開陽丸」を製造したり、練習船として「観光丸」を寄贈したりしていました。しかし、なぜか「和親条約」や「修好通商条約」はアメリカの後塵を拝することになりました。
ロシアは、1855年、「日露通好条約」(当時は、「日魯和親条約」と表記:樺太は両国の混在地、北方四島とウルップ島の間に境界線を確定)締結後、総領事館を函館に置いていたため、日本の内政にはほとんど関わることがありませんでした。当時のロシアは、英仏との「クリミア戦争」(1854年~56年)の敗北などで国内問題に忙殺されていたのです。
我が国が「明治維新」によって統一国家をつくりあげた頃、欧州でもイタリアとドイツが統一国家を完成させました(それぞれ1961年、71年)。統一前のドイツ(プロイセン)と我が国との条約締結は1961年と他国から遅れを取りましたが、ドイツは、「戊辰戦争は長期戦になり、日本は南北に分裂するもの」と予測し、「奥州越列藩同盟」側に肩入れしていました。
そして、会津・庄内両藩が戊辰戦争前に(北海道などの領地売却を含む)ドイツとの提携を模索していたとの文書も残っているようですが、ビスマルクは欧米列強間の協調と戦争への中立から、両藩の提案を退けたといわれます。
さて、フランスは、ルイ・ナポレオンの対外政策がことごとく失敗、ついに「普仏戦争」(1870年~71年)でドイツに敗北して日本から後退します。代わって進出してきたドイツは、宰相ビスマルクの戦略もあって、「我が国の近代化」に大きな役割を果たします。「普仏戦争」の勝敗は、明治以降の我が国に多大な影響を及ぼしたと考えています。
またイギリスも、インドの「セポイの乱」(1857年)、中国の「太平天国の乱」(1851年~64年)など、植民地支配に反抗する“てごわい民族運動”に直面したこともあって、我が国に対しては“柔軟な政策”をとっていました。日本の統治能力を認めつつ、「日本人の手による政変」の後押しにはこのような背景があったのです。
少し説明が長くなりましたが、我が国が「明治維新」を成し遂げた頃の国際環境は、このように“西欧列国勢力の空白期”といっても過言でない“一瞬の幸運”に恵まれたと言えるでしょう。
その後再び、列国はすさまじい勢いで帝国主義的な植民地獲得に乗り出すことになり、我が国は、西欧列国に“伍して”独立を保持するために速やかに統一国家を造り上げ、近代国家として「国力をつける」ことが求められました。このための「国家の大改造」を成し遂げたのが「明治時代」だったのです。次回以降、その概要を振り返ってみましょう。