規範的医療事故報告制度と認知的医療事故報告制度
1 医療機能評価機構による医療事故情報収集等事業
医療事故情報収集等事業は2004年10月に開始された。筆者は発足時より総合評価部会委員を務めてきた。以下、本事業を紹介する。本事業を、事故についての正しさの認定をすべき制度(規範的医療事故報告制度)だとする自縄自縛の心理的圧力が存在し続けたが、以下に示すように、善悪を離れて事故を科学的に観察するための制度(認知的医療事故報告制度)と考えるべきである。前者の場合、手続きを経てオーソライズされなければ、委員として意見を外部で発表することはできないが、後者なら科学であり、委員も個人の意見を言える。以下、科学であることを前提に個人の意見を交えて事業を紹介する。
そもそも、本事業の目的は、「医療事故事例情報を幅広く収集し、総合的に分析・検討したうえで、その結果を事故の発生予防・再発防止に役立てる」(「医療に係る事故事例情報の取り扱いに関する検討部会」報告書)こととされる。
表1に基本方針を、表2に事業内容を示した。
表1 基本方針
1)情報は匿名化して取り扱う
2)懲罰的な取り扱いをしない
表2 事業内容
1)医療事故情報収集・分析・提供事業
2)ヒヤリ・ハット事例収集・分析・提供事業
3)個別テーマの検討
4)再発・類似事例の発生状況
5)医療安全情報の提供
中核となる事業が、医療事故情報収集・分析・提供事業である。国立病院機構を含む国立の医療機関と特定機能病院には報告が義務付けられている。報告義務医療機関数は2005年の273から、2014年には275へと若干増えた。任意参加も可能で、任意参加医療機関数は2005年の300から2014年には708へと増加した。
表3に報告すべき事故の定義を示した。
表3 医療事故として報告すべき情報
1) 誤った医療又は管理を行ったことが明らかであり、その行った医療又は管理に起因して、患者が死亡し、若しくは患者の心身の障害が残った事例又は予期しなかった、若しくは予期していたものを上回る処置その他の治療を要した事例
2) 誤った医療又は管理を行ったことは明らかでないが、行った医療又は管理に起因して、患者が死亡し、若しくは患者に心身の障害が残った事例又は予期しなかった、若しくは予期していたものを上回る処置そのほかの治療を要した事例(行った医療又は管理に起因すると疑われるものを含み、当該事例の発生を予期しなかったものに限る)。
3) 1)及び2)に掲げるもののほか、医療機関内における医療事故の発生の予防及び再発の防止に資する事例。
毎年4回の報告書と年報が出版されてきた。表4に医療事故の報告件数の推移、表5に死亡事例の報告件数の推移を示した
http://expres.umin.jp/mric/mric_vol.036.pdf
義務医療機関からの報告数は毎年増加している。義務医療機関の1機関あたりの報告件数は任意参加医療機関の20倍である。任意参加医療機関の報告数は事故の件数を反映しているとは思えない。報告件数には、実際の事故発生件数、心理的障壁、作業の煩雑さなどが影響すると想像される。義務医療機関からの報告数についても、実際の事故数を反映しているかどうかは分からない。報告件数の推移から、医療事故の増減は判断できない。
表6に医療事故の発生要因(2013年度)を示した。個別要因としては、「確認を怠った 12.4%」「観察を怠った 10.1%」「判断を誤った 10.9%」「連携ができていなかった5.7%」「知識が不足していた 5.2%」「技術・手技が未熟だった 4.8%」など当事者の行動やヒューマンファクターが目立った。環境要因としては、「患者側 10.3%」が最も多く、「医薬品 0.5%」「医療機器 1.5%」「施設・設備 1.8%」など工業製品や施設・設備は事故の要因としては少なかった。同様に病院内での「しくみ 1.6%」や「ルールの不備 2.9%」 も相対的に少なかった。こうした傾向は本事業の開始時期より観察され、その後も同じ傾向が続いている。
医療機関からの報告には、改善策の記述が求められている。実施可能な改善策が存在するはずだというドグマが、暗黙裡に関係者に押し付けられて規範化されたが、実施可能な改善策が必ずあるという根拠はない。医療機関が記載した改善策も、総合評価部会の改善策も、必ずしも現実的な対策ではなかった。非現実的な改善策が記載された背景には、改善策が存在するはずだという規範の影がちらつく。
http://expres.umin.jp/mric/mric_vol.036-2.pdf
※発生要因は複数回答が可能である。
※割合については、小数点第2位を四捨五入したものであり、合計が100.0にならないことがある。
医療事故情報収集等事業の活動がこれまでに工業製品に関わった例を表7に示す。
表7 医療事故情報収集等事業の活動に関連した工業製品の改善
1 インスリン製剤の名称変更
2 抗リウマチ剤のパッケージ変更
3 各製薬会社の類似名称の注意喚起
4 アルマール錠から アロチノロール塩酸塩錠「DSP」への 販売名変更
5 「肺人工蘇生器の組み立て間違い」について安全情報発信
2 WHO draft guidelines for adverse event reporting and learning systems
2005年
WHOは、2005年に有害事象の報告ならびに学習制度についてのドラフトガイドラインを発表した。このガイドラインは、報告制度によって過去の経験に学び、医療の安全を高めるとしている。表8にWHOが推奨するシステムの特徴を挙げた。これらは、医療事故情報収集等事業の特徴とほぼ重なる。
表8 成功する報告システムの特徴(WHO draft guidelines 51ページ)
1) 被懲罰的
報告したことによって、報告者自身が報復を受けたり、関係者が処罰を受けたりする恐れがない。
2)個別情報の秘匿性
患者、報告者、病院の個別情報は決して明かされない。
3)処罰権限を持つ当局からの独立
報告制度は、報告者や医療機関に対する処罰権限を持つ当局から独立している。
4)専門家による分析
報告は、医療がおかれた環境を熟知し、背後にあるシステムの問題を理解するよう訓練された専門家によって作成される。
5) 迅速性
報告は即座に分析され、勧告は迅速に関係機関に周知される。特に、重大事故発生の要因が発見されたときは迅速性が重要である。
6)システムに焦点をあてる
勧告は、個人の行動ではなく、システム、プロセス、製品に焦点をあてる。
7)報告に対する反応
報告を受けた機関は勧告を周知させる能力を持つ。関係機関は可能な限り勧告の実現を責務とする。
WHOのガイドラインは、報告を即座に分析し、重大事故の要因が発見されたときは、迅速に勧告を発出し、関係機関はこの勧告の実現に努めなければならないとしている。このメッセージは2005年当時のWHOの政治的メッセージであり、事実の認識からの帰納に基づくものではなかった。医療事故を責任追及から、学習改善の契機に切り替えるのに成功したが、期待が事実に優先されていた。
前述の医療事故情報収集等事業では、膨大な事故情報、ヒヤリ・ハット情報が収集された。ヒヤリ・ハット情報は年間20万件も集まった。情報が多すぎると処理しきれない。すべての個別情報を検討して再発防止に生かすのは無理だった。
医療事故情報収集等事業のこれまでの結果からは、事故の要因として、当事者の行動やヒューマンファクターが多かった。環境要因の中で、工業製品や施設・設備は事故の要因としては少なかった。同様に病院内での「しくみ 1.6%」や「ルールの不備 2.9%」 も相対的に少なかった。少なくとも、本邦の医療事故情報収集等事業の報告を見る限り、人間に由来する問題をシステムで対応できるようにはならなかった。
3 規範的予期類型と認知的予期類型
ニクラス・ルーマンによると、人間に関するすべての事象の関連を整理して理解するのに、ホッブズの登場まで、規範を基準に概念が整理され、世界が理解されてきた。これは、論理的帰結ではなく、社会を運営するのに、機能的に不可欠だったからである(1)。
現代社会では、社会の理解と運営の双方で、規範の果たす役割が小さくなってきた。社会システムの分化が進み、医療を含めて、経済、学術、テクノロジーなどの専門分野は、社会システムとして、それぞれ世界的に発展して部分社会を形成し、その内部で独自の正しさを体系として提示し、それを日々更新している。例えば、医療の共通言語は統計学と英語である。頻繁に国際会議が開かれているが、これらは、医療における正しさや合理性を形成するためのものである。今日の世界社会は、このようなさまざまな部分社会の集合として成り立っている。
それぞれの部分社会はコミュニケーションで作動する。ルーマンはコミュニケーションを支える予期に注目し、社会システムを、規範的予期類型(法、政治、行政、メディアなど)と認知的予期類型(経済、学術、テクノロジー、医療など)に大別した(1)。規範的予期類型は、「道徳を掲げて徳目を定め、内的確信・制裁手段・合意によって支えられる」。違背に対し、あらかじめ持っている規範にあわせて相手を変えようとする。違背にあって自ら学習しない。これに対し、認知的予期類型では知識・技術が増大し続ける。ものごとがうまく運ばないときに、知識を増やし、自らを変えようとする。「学習するかしないか―これが違いなのだ」。
それぞれの部分社会は独自に進化発展する。学問における業績、高速鉄道の正確な運営の獲得や喪失、医療における患者の治癒は、それぞれのシステムの作動の中で決められていく。こうした部分社会間に矛盾が生じ、その衝突が社会に大きな影響を与えるようになってきた。短期的には合意の得やすい規範的予期が優位であるが、長期的には、規範的予期が後退するのに対して、適応的で学習の用意がある認知的予期が優位を占める。
4 規範、認知、加えて歴史
信頼できる単一の情報
東日本大震災で、文部科学省は、SPEEDIによる放射線物質の拡散の試算を、米軍に提供していたにもかかわらず、公表しなかった。このため、原発から北西方向の高度汚染地域に住民が避難した。SPEEDIには科学者が関わっていたはずだが、科学者の声は表面に一切出てこなかった。
気象研究所は、大気中の粒子の放射能観測を、半世紀も前から継続していた。3月15日、大気中の放射線量が急上昇した。継続的な観察データは、何が起こったかを推測するための重要な手掛かりとなる。ところが、3月31日になって、文部科学省が次年度の予算を凍結した。翌日から観測を中止せよというのである。観測の中心メンバーは他の研究機関の支援で観測を継続した。観測データをまとめた論文をネイチャー誌に発表しようとしたところ、気象庁と気象研究所の研究畑ではない管理職が差し止めた。
本来、自由でなければならない学会までもが、批判精神を放棄した。日本気象学会は、3月18日、「学会関係者が不確実性を伴う情報を提供することは、いたずらに国の防災対策に関する情報を混乱させる」「防災対策の基本は、信頼できる単一の情報に基づいて行動すること」とする新野宏理事長の声明を発表した。
文部科学省の官僚は、手続きを経てオーソライズされた情報、すなわち規範化された情報を「信頼できる単一の情報」と考えたらしい。科学では「信頼できる単一の情報」を確定することは不可能である。責任を取ることを嫌がるとすれば、情報を隠ぺいするしかなくなる。
ヨーロッパではルネサンス期になっても科学が宗教的に規範化されていたため、地動説を唱えたガリレオは宗教裁判で裁かれた。ニクラス・ルーマンによると、「学問がその理論の仮説的性格と真理の暫定的な非誤謬性によって安んじて研究に携われるようになるまで、学問研究の真理性は宗教的に規範化されていた」(1)。科学における正しさは研究の対象と方法に依存している。仮説的であり、とりあえずの真理である。ゆえに議論や研究が続く。新たな知見が加わり進歩がある。
事故が増える圧力
医療の対象が急速に高齢化し、医療内容が高度化し、多様化している。これらは、事故を増やす方向に働く。一方で、一人の人間に、単位時間当たり、一定以上の負荷は無理である。
工業製品についてのある専門家の意見
中央で事故情報を収集して現場にフィードバックするというのは、旧JACHOが行っていたsentinel event alertが有名で、カリウム製剤が病棟配置されなくなるなど、いくつかの成果を出した。ただし、現場レベルでのルールの作成と普及には金銭的・非金銭的コストが必要であり、普及して一般化したものもあったが、他方でコスト高なモグラ叩きに陥ってしまったこともあった。
ルールが複雑であるというのもコストの一つであり、また、費用補填なく人材投入の増加を迫るというような解決策は、コストに耐えられない医療機関が多ければ普及しない。無理すると収支の悪化に直結し、生存が難しくなるため、経営者としては慎重な判断をせざるを得ない。端的に言ってルールは無視され、無視したことで行政が医療機関を罰しようという、不毛な政策に至る。
以前に提示された対策が十分な効果を示さなかったことについて、医療安全の専門家はアナウンスすべきなのにまだそれをしていない。特に医療安全調査機構、医療機能評価機構、その監督官庁である厚労省は失敗を明確にアナウンスしなければ次に進めない。医療安全対策が仮説的なものであることを示す貴重で悲しむべき事例となったように思う。
ほとんどの事故類型がすでに報告されているのではないか。現実的かどうかは別にして、個別事故に対する膨大な改善策が集まっている。目新しいものはほとんど出ない。それでも同じような事故は起きる。人間本来の性質が事故の原因。ダブルチェックを組み入れても、必ずすり抜ける事故が起きる。トリプルチェックでも同じ。「たった一人のエラーで人が死んでしまうシステム」であることは免れない。事故は人間の性質が大きく関わっており、自然現象の側面がある。
個別事故が発生するたびに対応策を求めると、ルールが複雑になりすぎる。ルールの変更に現場が追い付かなくなる。ルールを尊重すると業務が動かなくなるので、必然的に、ルールが尊重されなくなる。
安全マニュアルは個別医療機関が総合的な判断で決めるべきである。実施できる対策の総量には限界があるので、被害総量(平均被害量×発生件数)の大きい事故を優先しなければならない。また、経済的、政治的コストが小さく、ベネフィットが大きい対策を優先すべきである。コストが大きくベネフィットが小さい対策は、有用な対策を阻害するので、有害である。病院ごとに扱っている疾患の種類、実施している医療行為が異なるので、事故類型の重要度の順序は病院ごとに異なる。しかも、病院ごとに、財政的基盤、人的基盤が異なる。各病院の最適の医療事故対策は個別性が強い。
中央組織が権威を付与した安全対策を打ち出すとそれが規範化する。病院が善悪の基準で評価されるようになる。規範が現場の対応に影響を与える。非難されないことが、安全対策の目的となる。実情を無視して現場に無理な規範を押し付けるとときとして悲劇が起きる(インパール作戦を想起せよ)。
行政は法に基づく組織であり、規範的予期類型に属する社会システムである。政策の誤りを安易に認めることができず、認めるとその後、責任が生じるのもこのためである。規範的予期類型では事実の認識より規範が重視される。医療事故を減らすことを厚労省に義務付ければ、規範を優先するために嘘をつく場面が生じる。規範を振り回すと、結果として、軋轢が高まる。無理すると厚労省と医療現場の双方が傷つく。そもそも、行政は自然現象を解明できるようにはできていない。
医療事故についての議論を進歩につなげるには、突き放して、科学的議論として積み重ねるしかない。
筆者がある地方行政官に送付した苦言
「政府威を用うれば人民は偽をもってこれに応ぜん、政府欺を用うれば人民は容(かたち)を作ってこれに従わんのみ。これを上策と言うべからず。」(福沢諭吉『学問のすゝめ』)
行政が、不合理な理由で、偽の容(かたち)を作るよう実務担当者に強いたのでは、良い結果は望めない。
医療の安全性は医療をめぐるさまざまな組織や個人が、さまざまな努力をしていく中で、さまざまな意見が出され、試行錯誤が繰り返される。改善されるべきものが改善されたり、改善されなかったりする。改善不可能なものが、何らかの理由で、改善されたと一部で主張されることもある。
医療事故情報収集等事業の報告内容についての筆者の現時点での個人的考え方:
医療安全に関する学問の基礎資料である。また、医療事故情報収集等事業の委員や個別医療機関の医療事故についての歴史の記録である。
1 ニクラス・ルーマン:「世界社会」 Soziologische Aufklärung 2, Opladen, 1975. 村上淳一訳・桐蔭横浜大学法科大学院平成16年度教材)
(2015年02月24日 MRIC by 医療ガバナンス学会)