『地域包括ケアの課題と未来』編集雑感 (6): 宮本太郎「地域持続の雇用戦略」について
宮本太郎氏は政治学者である。私は政治学者について、高みから政治行動を観察し、皮肉で乾いた見方を提示するひねくれた人たちという印象を持つ。権力の動きを人間の悪の部分を含めて、突き放して観察する。どうしても、人のよい政治学者というものが想像できなかった。宮本氏と会って、人柄のよい政治学者が存在するのだと、素直にびっくりした。宮本氏が政治学者として風変りなのは、人柄がよいことだけではない。観察だけでなく、実際に社会を変えようとしていることも風変りである。
安房10万人計画は、宮本氏の『生活保障 排除しない社会へ』(岩波新書)から大きな影響を受けた。筆者が安房10万人計画を提唱した2012年、館山市では、2つの半導体工場の閉鎖が決まり、800人の雇用が失われることになった。安房医療福祉専門学校を創設して、館山市で看護教育を開始することになったのは、雇用に結びつく教育を社会人に提供するためだった。
地域包括ケアでは高齢者のケアが念頭に置かれている。しかし、地方では安定雇用が失われ、人口が減少し、地域社会そのものの存続が危ぶまれるようになった。日本社会には、高齢者のケアだけを独立して考える余裕がなくなった。このため、『地域包括ケアの課題と未来』では、宮本氏に雇用について執筆してもらうことにした。
宮本氏には少ない字数を押し付けて迷惑をかけた。本稿では、宮本氏の『生活保障』の内容を若干の私見を交えつつ紹介する。生活保障とは雇用と社会保障を結びつける言葉である。宮本氏は、働けなくなったときに、所得が保障され、働くことができるような支援を受けられることをイメージしている。
高度成長期、日本の生活保障は男性稼ぎ主の安定雇用に依存していた。賃金体系は、家族を養うことを前提としていた。保育や介護が主婦の担当すべき役割とされた。現役世代の生活保障が雇用と家族に委ねられたため、1990年代まで、日本の社会的支出(社会保障・福祉分野の支出の指標)は先進工業国のなかで最低水準だった。社会保障支出は、雇用が終了した後の年金、遺族関連、高齢者医療に集中した。このため、世界に比べて、職業訓練、職業紹介カウンセリングなど、就労を支援する積極的労働市場政策のための支出が極端に少なくなった。
この時期、日本の非正規労働市場の基本的な形ができあがった。日本では住宅や教育への公的支出が少なかったため、労働者にとって、住宅ローンと学費が大きな負担となっていた。家計の不足分を補うため主婦がパートで働いた。誰もが広く利用できる奨学金は用意されておらず、額も就学中の学生の生活を支えられるほどのものではなかった。生活費不足に悩む学生はアルバイトをせざるを得なかった。
ところが日本の税制や社会保険は、男性稼ぎ主が妻や子を養うことを前提としていた。このため、所得水準が一定を超えると、扶養控除を受けられなかったり、高額の社会保険料の支払いを求められたりするなど、損をするような制度になっていた。主婦のパート労働や学生アルバイトは、男性稼ぎ主の収入を補完するべきものと位置付けられ、低賃金にとどめられた。
グローバル化によって工場が海外に移転した。技術革新によって、生産現場で必要とされる人数が激減した。地方の雇用を支えた公共事業は、国家財政の赤字拡大とともに、大幅に減少した。国際的な企業は収益を伸ばしたが、その恩恵にあずかれる人数は減少した。事業の設計者、経営者、国際金融担当者、高度技術者の収入は増えたが、多くは都市在住者であり、地方では貧困が拡大した。十分な収入の得られる安定した雇用が減少し、非正規雇用が拡大した。
「男性稼ぎ主の所得を補完するための雇用条件が、家計の主な担い手の雇用条件になってしまったのである。その結果、現役世代は大きな低所得リスクに直面するが、社会保障は人生後半に偏っているため、現役世代への十分な支援はおこなわれないのである。」
非正規労働者は低賃金に苦しむだけでなく、社会保険への加入も拒まれた。例えば、2008年の非正規労働者の雇用保険未加入率は、加入制限などのため58%に達すると推計された。厚生年金や、健康保険にも加入できないことが多い。加入できたとしても、賃金に比して保険料が高すぎて支払うのが難しい。
生活保障の課題は、所得の保障だけではない。人間関係の中での居場所の確保、すなわち、「生きる場」の確保はさらに大きな課題である。問題は、「日本型生活保障の衰退に伴い、職場であれ、商店街のコミュニティであれ、人々の『生きる場』となりうるつながりが解体」しつつあることである。孤立し絶望した人間による無差別の暴力事件は、「生きる場」の解体と無関係ではない。
社会保障の形は国によって異なる。社会保障のための支出は、アングロサクソンの国は低く、北欧、大陸ヨーロッパでは大きい。
アングロサクソンの国では、雇用保護法制が弱く、現金給付、積極的労働市場政策など公共サービス支出のいずれも少ない。給付は困窮世帯に限定されている。
北欧では福祉のための支出、とりわけ社会サービスの比重が大きい。現金給付についても、年金の割合が小さく、現役世代向けの支出が大きい。スウェーデンでは労働組合が雇用を守ることに固執せず、積極的労働市場政策によって雇用を流動化させながら完全雇用を実現させることに協力してきた。公共事業などで雇用を創出するのではなく、生産性の低い企業から、高い企業に労働力を移動させつつ雇用保障を実現しようとしてきた。このため、失業保険で生活しつつ、公費で新たな就労につながる教育訓練を受けられる。
ドイツやフランスなどの大陸ヨーロッパの国々も社会的支出が大きい福祉国家であるが、雇用保護法制が強く解雇しにくい。職域ごとの社会保険が発達しており、公共サービスより年金などの現金給付の比重が高い。
現状の世界的課題は、グローバル化と技術革新のために、安定した収入の大きい雇用が減少していることである。スウェーデンの積極的労働市場政策も機能不全に陥りつつある。世界中の国が解決策を模索している。
男性稼ぎ主の安定雇用に頼る日本の生活保障の仕組みは、世界の変化の中で、機能を停止した。それどころか、日本の社会と労働市場の従来の仕組みには、人々を就労から排除する機能が内在していた。宮本氏は、排除されないような仕組みとして、仕事に就いてから教育を受け直したり、退職してから新しい仕事を始めたりするなど、後戻りの効く「交差点型社会」を提案している。
新しい産業を起こして雇用を創出することは至難である。しかし、今後数十年、日本には膨大な数の高齢者が存在し続ける。介護、福祉の大きな需要が維持される。この分野での処遇を安定させて、雇用の基礎部分とする。男性稼ぎ主だけに頼る状況を変えて、全員参加の雇用をめざす。そのためには、就労を困難にする状況を取り除く必要がある。子育て支援、介護サービスを充実させること、知識や技能の不足に対応するための成人教育も雇用機会を創出するのに必要である。
宮本氏は社会保障と税の一体改革のブレーンだった。2014年10月より、雇用保険による専門実践教育訓練制度が開始され、資格取得のための支援が大きくなった。この制度の創設に、宮本氏の存在が影響したのは間違いないだろう。
(Socinnov掲載記事)