日米衝突の原因はマハンにある
メッケル少佐――帝国陸軍の「お雇い外国人」
明治政府は「富国強兵(殖産興業と軍の近代化)」を大戦略として、欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために「お雇い外国人」を招聘した。
陸軍は、ドイツ帝国にその指南を要請し、1885年、当時最高のレベルの戦術の権威であったメッケル少佐を招聘した。日本陸軍はメッケルを陸軍大学校教官に任じ、参謀将校の養成を任せた。僅か3年間の滞在であったが、メッケルの日本陸軍に対する影響は絶大だった。メッケル着任前の日本ではフランス式の兵制を範としていたが、メッケルを顧問として改革を進め、ドイツ式の兵制を導入した。メッケルの戦術教育は徹底しており、最初の1期生で卒業できたのは、東条英教(東条英機の父)や秋山好古などわずか半数の10人という厳しいものであった。その一方で、兵学講義の聴講を生徒だけでなく希望する者にも許したので、陸軍大学校長であった児玉源太郎を始めさまざまな階級の軍人が熱心に彼の講義を聴講した。メッケルの戦術教育の成果は、日露戦争において如実に証明された。
マハンに心酔し、門下生国家となった日本帝国海軍
一方の帝国海軍は、マハン大佐を海軍大学校の戦術教官として3年間招聘しようと考えていた。海軍省は1889年、ワシントンの海軍駐在武官の成田中佐にマハンの招請の可能性を調べるよう訓令している。帝国海軍はマハンに1万5000円の年俸を出すことを考えていた。当時職人の年収が180円。世良田大佐が、マハン獲得に動いた1889年から約10年後の1907年当時の夏目漱石(東京帝大講師)の年俸が800円、石川啄木(渋民村小学校代用教員)の年俸は144円だったことを思えば、マハンの年俸が如何に破格だったかが分かる。しかし、結果としては、マハンの招聘は実現しなかった。マハン自身の判断なのか、米国海軍の判断――軍事機密などの配慮から――なのか分からない。
帝国海軍は、マハンを招聘できなかったものの、メッケルが帝国陸軍に及ぼした影響に勝るとも劣らない影響を受けた。新興の帝国海軍は、マハンとその理論に心酔した。帝国海軍はマハンの書籍や論文をことごとく翻訳・配布し、咀嚼・吸収に努めた。世界でマハンの著作が最も多く翻訳されたのは日本だった。マハン自身も、著書「帆船から蒸気船へ」(1907年)の中で、「私の理論は何人かの日本軍人や翻訳者と気持ちの良い文通をもたらした。」と書き、日本でマハンの心酔者が多い様子が窺われる。
マハンとは二回しか会ってはいないものの、大きな影響を受け、その戦略・戦術を我がものにして、日露戦争・日本海海戦にフルに生かしたのは秋山真之だった。但し、秋山はマハンの戦略・戦術を模倣したのではない。マハンは秋山に戦略・戦術を会得する方法として「古今海陸の戦史を読んで、その成功失敗の原因を究明するとともに、欧米の大家達の名論卓説を読み味わいその要領を会得し、もって独自の識能を養成することが必要だ」と教えた。秋山は、マハンから教えてもらった研究方法を実践し独自の境地を切り開き、これを日本海海戦の戦勝に繋げた。このように、我が帝国海軍は、米国海軍にも劣らないマハンの門下生国家だった。
マハンの門下生国家、日米が激突するに至る経緯
米国が、日本をアジア(特に支那満蒙)市場参入の障害と感じ始めたのは日露戦争以降のことだ。西欧列強に遅れた米国が目指す「ニューフロンティア」は太平洋を横断したし支那満蒙であった。当時支那には4億の民がおり、市場としても資源産出地としても極めて有望だった。この米国の「ニューフロンティア」である支那満蒙を目指すもう一つの新興国家が、ほかならぬ日本だった。
支那満蒙を巡る日米の衝突が顕在化したのは、米国の鉄道王ハリマンの南満州鉄道買収が契機だった。日露戦争講話談判の最中に来日したハリマンは、ポーツマス条約締結(1905年9月)直後の10月、桂首相との間でいったん満鉄及び満鉄に属する鉱山などの利権の半ばを譲渡するとの覚書を交わした。しかし直後に、ポーツマス条約締結から帰国した小村全権が覚書を知り、取り消させた。
米国は、これを契機に、日本をアジア市場参入の障害――仮想敵国――として捉え始めたようで、1910年頃には「オレンジ(対日)戦争計画)」の検討に着手したほか、日本に対する砲艦外交として、米海軍の「白色艦隊」による世界一周航海(1907~09年)を実施した。その後も支那満蒙を巡る日米の確執は深まり、マハンの門下生国の日米は、終には太平洋戦争に突入、両国海軍が激突した。
日米激突の原因はマハン
大本営海軍部の富永謙吾少佐は、戦中出版された『海軍戦略』の中で「マハンがいなかったら大東亜戦争は或いは起こらず済んだかも知れない。少なくともハワイ開戦といふものは存在しなかったのではないかと考えられる。何となれば“ハワイは米国のために神様が造って呉れたようなものだ”と最初に言い出したのはマハンである。それは疑いもなく米国が太平洋を湖沼化せんとした出発点であった。爾来制海権獲得のため不可欠な条件として根拠地への触手は悉くマハンの賢明な示唆を実行に移したものに他ならなかった」と述べ、日米激突の原因がマハンであるとの認識を示している。
戦後日本のレジームをもたらしたのもマハンでは?
我が国は、アメリカと熾烈な戦いを繰り広げた末に、人類史初の原爆二発で止めを刺された。その後アメリカ軍が進駐し、今日のレジームができた。戦後レジームとは、「平和憲法」と称する「日本無力化」憲法と日米安保条約という「ビンの蓋」という二つのセットで、日本を完全コントロールし、日本をアメリカの世界戦略の拠点として活用する体制だ。日本を「世界支配のための戦略拠点」にするという考え方こそが、マハンの海洋戦略理論から導かれるものである。今日、中国が急速台頭しアジア太平洋を舞台に覇権争いをするアメリカは、引き続き日本を対中国戦略の最大拠点として活用する方針である。マハンの呪縛ともいうべき海洋戦略理論は、今日も日本の運命を左右しているのである。
(おやばと掲載記事)