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「我が国の歴史を振り返る」(67) 占領政策の変更に伴う混乱

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▼はじめに(「共同謀議」について補足)

 前回取り上げた「共同謀議」について、1点、補足しておきたいと思います。それは、林房雄氏の『大東亜戦争肯定論』に出てくる文章です。林氏の肯定論自体については、本メルマガの総括で取り上げるつもりですが、林氏は「共同謀議」について以下のように記述しています。

 「(我が国の)どの戦争も、敵と味方の戦力を慎重に計算し、周到に『共同謀議』したら、とてもやれる戦争ではなかった。・・・勝目のない戦争を避け、文明開化政策によって『内治の改革』をはかり、欧米に伍する繁栄を求めることが最も懸命な道であったからだ。もし可能なら、日本人はその道を選んだであろう。だが、この道はふさがれていた。いかなる理性的判断と努力によっても他の道を選ぶことが不可能であった」として、「政府は常に“非戦論”だった」とする立場は、日清戦争以外、どの戦争にも当てはまることを強調しています。

その上で、「日本は、近代の世界文明の中にあって、極めて特殊な地位に立った国であり、20世紀の進行中には、遅かれ早かれ、この特殊な地位にもとづいた“日本の悲壮な運命”を展開せざるを得ない」とする運命論的な考え方を大隈重信氏、徳富蘇峰氏、和辻哲郎氏らも共有していたことを紹介しています。

本メルマガでも再三、紹介しましたように、事実は「共同謀議」とは全く別次元であり、我が国は、常に圧倒的に勝る敵に対して、あらゆる手を尽くしても回避する手段がなく、やむなく戦争に挑んだのでした。それは日清・日露戦争から大東亜戦争まで共通しています。まさに、「国際社会の中で特殊な地位にあったが故の“我が国の宿命”だった」とする指摘は、我が国の歴史を素直に学べば、自ずと導かれる有力な結論のひとつであろうと考えます。

さて、これまで述べてきましたGHQの占領政策、中でも日本国憲法や日本改造については、戦後、我が国の隅々まで広く行きわたっています。しかし、占領期の後半に議論された、講和条約や日米安全保障条約の締結、それに伴う米軍の駐留や日本再軍備については、日本政府とGHQ・ワシントン当局を含む米側の間で“いかなる情勢判断のもと、いかなる議論がなされたのか”など、あまりつまびらかになっておりません。

昭和史研究家には興味にない話題だったのか、我が国の「戦後体制」の骨幹ともいうべき、安全保障体制(国防体制)の議論が“蚊帳の外”におかれているように見えるのは、元自衛官としては何とも“腑に落ちない”ところがあります。

そこで、今回後半から、数少ない“参考となる歴史書”などを探り当てながら、経済政策の変更などと絡めて、「朝鮮戦争」前、厳しい情勢の変化を眼前にして、将来の我が国の安全保障政策をめぐる議論、言葉を代えれば、 “非現実的な理想主義といかに決別しようとしたか”について振り返ってみようと思います。

▼「東京裁判」の後遺症と総括

その前にもう少し「東京裁判」の続きです。「東京裁判」は、事実と異なる南京大虐殺、特に非現実的な被害者規模を支持する判決を下すなど、中国のプロパガンダが色濃く反映された一面もあり、裁判の後遺症として、戦後の日本に「自虐史観」を植え付ける結果となりました。

裁判のもう一つの後遺症として、戦後日本の「反軍思想」に影響を及ぼすことにもなりました。裁判において「すべて軍の責任」とする証言もあったように、確かに軍の責任は随所にありました。

しかし、“史実”を子細にみれば、中国や米国の挑発や陰謀に加え、マスコミの愛国的な扇動に煽られた世論に抗すべくもなかった実情、それに近衛首相の軽率な政策や松岡外相の独断などもあって、「すべてを軍だけの責任に帰するのはあまりにも雑駁な論である」(岡崎久彦氏)との見方もあり、改めて、軍の責任にすべてを押し付ける無謀さと国の舵取りの難しさに思いが至ります。

さて、GHQ内においても当初から「東京裁判」に対する疑問があったことはすでに紹介しましたが、マッカーサー司令官さえ、帰国後、トルーマン大統領に「東京裁判は間違いだった」と報告したことに加え、数年後、キーナン首席検事をはじめ、ウイリアム裁判長、アンリ・ベルナール仏代表判事、ベルト・レーリング蘭代表判事など、裁判にかかわった多くの人が「この裁判は間違いだった」と白状しています。

これらから、後世、“東京裁判は人類史上最悪の裁判だった”と酷評される可能性は大と考えますが、戦後の日本の法律家はだれひとり、この裁判を検証しようとしないのも不思議です。裁判が終了してから数後年、パール判事が日本で講演し、日本の法律家に「なぜ沈黙を守っているのか」と奮起をうながしましたが、誰一人動きませんでした。

「東京裁判は、国家の名誉のためにも、処刑された人々の名誉のためにも何らかの形で清算してもいい」と岡崎久彦氏は述べています。全く同感ですが、岡崎氏のような方が法曹界に現れないのは我が国の不幸としか言えようがありません。素人の口出しすることではありませんが、この世界も「骨の髄までマインドコントロールされている」ということなのでしょうか。

▼再び、中国・朝鮮半島情勢

 さて、「東京裁判」判決前後の周辺情勢を再び振り返っておきましょう。まず中国です。当初は、国民党が圧倒的に優位を保持し、共産党の約3倍の兵力・地域・人口を支配していたのが、徐々に共産党が優位になり始めたことは、その原因を含め、すでに述べました。

1948年9月から、有名な「遼瀋戦役」「淮海戦役」「平津戦役」の“三大戦役”で共産党軍が勝利し、1949年1月末には、国民党軍は北京を放棄し、共産党軍が無血入城します。その後、国民党首脳は広州、さらに重慶に逃れて抵抗しますが、各地で降伏するなど力を失います。

同年10月1日、毛沢東は、北京で「中華人民共和国」の樹立を宣言し、国民政府要人は台湾に逃れ、翌50年3月1日、蒋介石は台北で総統に復帰、「中華民国」を存続させます。長かった国共内戦がついに決着します。

その頃の朝鮮半島情勢ですが、 1948年8月、李承晩が「大韓民国」独立を宣言します。それに対抗するように、9月、金日成が「朝鮮民主主義人民共和国」を宣言し、占領境界線の38度線を国境にして北側と南側にそれぞれ別の国家が誕生します。

この結果、朝鮮半島は、北をソ連などの社会主義陣営が支援し、南をアメリカなどの資本主義陣営が支援するという、東西冷戦の両陣営がにらみ合う“最前線”となります。

その後、金日成は、李承晩を倒して統一政府を樹立するため、スターリンに南半部への武力侵攻の許可を求めますが、アメリカとの直接戦争を望まないスターリンは許可せず、同年12月、ソ連軍は、軍事顧問を残し、朝鮮半島から撤退します。

翌49年6月、アメリカ軍も軍政を解き、軍事顧問団を残し撤収しますが、それを受けて北朝鮮は「祖国統一民主主義戦線」を結成します。同年10月、「中華人民共和国」が成立すると、金日成は、“朝鮮半島でも社会主義による統一を実現しよう”と決意したといわれます。

こうした情勢の中の1950年1月、アメリカのディーン・アチソン国務長官が「アメリカが責任を持つ防衛ラインは、フィリピン―沖縄―日本―アリューシャン列島までである」との奇妙な発言をします。つまり、朝鮮半島や台湾はアメリカの“防衛ラインの外である”と明言したのです。

アチソン発言には、「アメリカの国防政策上、西太平洋の制海権だけは絶対に渡さない」という意味があったといわれますが、マーシャルの後任の国務長官アチソンもニューデーラーのリストに挙がっていることから、彼の発言には何らかの意図があったと考えるべきでしょう。

実際に、この発言が金日成をさらにその気にさせ、同年5月、金は毛沢東から中華人民共和国の援助の約束を取り付けます。これによって、北朝鮮の南侵の環境はすべて整ったことになります。

▼占領政策の変更と影響

 米国政府が「日本経済の早期復活の促進」に政策を変更したことはすでに述べました。その際のジャパン・ロビーの活動が我が国に与えた影響をもう少し掘り下げておきましょう。

昭和23年3月、ジョセフ・グルーを名誉会長とする「対日協議会」が発足されます。やがて親日ロビーの牙城となる同協議会の発起人は、『ニューズウイーク』の外交担当編集者ハリー・カーン、ドーマン、コンプトン・バケナムら知日派でした。

彼らは、GHQの対日政策を徹底的に批判する記事を『ニューズウイーク』に相次いで掲載します。特に「占領政策はアメリカで許容されている以上に左傾化している」との記事が掲載されると、議会でも対日政策が攻撃の的になり、「経済復興を占領政策の第1目標にすべき」との政策変更に繋がります。

マッカーサーやニューディーラー達が猛反発したことは当然でしたが、「もっと徹底した旧体制の破壊によって、社会主義的な国家にしたい」との意図を持つ国内マスコミや左翼にとっても、『ニューズウイーク』の記者達が憎悪の対象となりました。

このような経緯に加え、その後の日米安保条約や再軍備をめぐる議論の混迷もあって、“日本を共産化しやすい状態にとどめておく”との本音を隠し、経済復興を阻止するとともに、「安保反対」「再軍備反対」をことごとく叫ぶ左翼(いわゆる進歩的文化人)が残ってしまい、長くその影響を引きずることになります。

さて、日本経済は、のちの「朝鮮戦争」の勃発によって閉塞状態から一挙に開放されますが、昭和21年から24年までの経済の回復度(戦前との比較)は、21年が58%、22年が65%、23年が69%となります。緩慢ではありましたが、占領政策の変更によって徐々に改善基調にありました。

▼「公職追放」解除と共産党追放

 占領政策の変更によって、財閥解体や自治体警察の返上なども行われます。「公職追放」も見直され、日本の政治や経済の再建に必要な人物は復帰を求められます。昭和24年2月、追放指定解除の訴願審査委員会が設けられ、1年半の審査の結果、1万人余を解除し、残りは19万名余となります。そして、講和条約締結間近の昭和26年11月までに、1万8千名を残して他は追放解除となります。

他方、逆に共産党追放へ目が向けられ、コミンフォルムの命により、共産党が占領当局と対決路線を指示したこと(1950年1月)がそのきっかけになります。同年5月に、GHQは、「赤旗」幹部41名に追放命令を出したのを皮切りに、追放は、講和条約によって追放解除されるまで続き、共産党員61名が追放されます。その結果、多くの共産党幹部は、地下に潜るか海外に亡命してしまいます。

▼「芦田書簡」とマイケルバーガーの安全保障論

 連合軍の日本占領は、結果として7年も続きますが、“近世以来、主権国家同士の戦争の結果、敗戦国全土の占領がこれほど長く続いた例はなかった”ことを私達は改めて記憶にとどめておく必要があると考えます。

この“長く続いた占領”については、「初めから意図されていたわけではなかった」ともいわれます。現に、マッカーサーは、占領1年半後の昭和22年3月に「できれば1年以内に平和条約を結んで、軍事占領を終わらせたい」と発言しています。

この時点で米国が用意した対日講和案は「バーンズ案」と呼ばれ、「軍隊や航空機の保有を禁止し、工業や商船隊も制限し、極東委員会の代表が日本に常駐して25年間、監視する」という内容でありました。マッカーサーはこれを「過酷すぎる」として、講和が遅れることにしぶしぶ同意したといわれます。

日本に幸いしたのは、当時、第2次世界大戦の処理をめぐって米英ソの交渉が至る所で暗礁に乗り上げており、対日平和条約も難航し、“監視期間を25年から40年に延長する”妥協案まで出されたようですが、結局、合意は得られませんでした。

その後の動きは、「日本を対象とする安全保障」から徐々に“日本が共産陣営の手に落ちることを防ぐ”、つまり「日本のための安全保障」へ転換していきます。特に、マーカーサーの早期和平提案に疑問を持っていたのは、第8軍司令官のマイケルバーガー中将でした。

マイケルバーガーは、「早期和平が実現すれば米軍は引き上げを考えなければならないが、もしその後でソ連軍が樺太や千島から侵入してきたらどうするのだろう」と心配していました。当時の我が国が置かれた“状況”を伺い知ることができるエピソードと考えます。

昭和22年9月、芦田均がそのマイケルバーガーに、「国連が機能しない場合を想定して、(国連が機能するまで)我が国を防衛する方法として、①米軍が駐留し、②日米間で特別協定を結び、日本の防衛をアメリカに委ね、日本の独立を保障するのが最良の手段である」とする「芦田書簡」を手交します。

特に、この“国連が機能するまで米国に頼る”という考えは、のちの旧安保条約や改正安保条約に引き継がれます。また「“日本に対する駐留”より“日本のための駐留”であるべき」とする考えは、その後しばらく続いた「ビンの蓋」論に対抗する考え方として有効でした。

岡崎久彦氏は、歴史の「if」として、「占領中の日本政治を指導したのが、権威主義的な固定観念の持主であるマッカーサーと論理性のない吉田ではなく、マイケルバーガーと芦田であったら、戦後日本の思想言論の混迷は間違いなく避けられただろう」と述懐しています。(つづく)

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