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「我が国の歴史を振り返る」(60) 米国の「日本研究」とその影響

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▼はじめに

記念すべき60回目の発信となりました。読者の皆様にはいつもお付き合いいただき心より感謝申し上げます。

現在、占領政策を取り上げておりますが、個人的には、マッカーサー率いるGHQによって我が国が国家の大改造を強行されたことについて、“我が国の過去・現在・未来の長い歴史の中でどのように評価すべきか”判断しかねているというのが正直な気持ちです。

我が国の“現状”の出発点は占領政策にあると考える一方で、終戦後、我が国に対する連合国(特に、ソ連)の“強硬姿勢”に真っ向から立ち向かい、国土の分割や天皇制廃止を回避できたのは、マッカーサーらGHQの功績であることも事実だからです。

GHQによる占領政策については、すでに多くの書籍や論文が出ています。以前にも紹介しましたが、丹念に発掘した米国側資料に基づいて書かれた『國破れてマッカーサー』(西悦夫著)をはじめ、占領下の5人の首相に焦点をあてた『占領期』(五百旗頭真著)、占領政策が主に戦後の安全保障政策に与えた影響を見事に分析している『吉田茂とその時代』(岡崎久彦著)、そして、WGIP(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム)研究の第一人者・高橋史朗氏の『日本が二度と立ち上がれないように アメリカが占領期の行ったこと』『WGIPと「歴史戦」』の2冊などです。

他にもたくさんありますが、これらの書籍は、これまでベールに包まれた占領政策の策定経緯や基本的考えなどの“史実”をあぶりだしてくれます。

他方、まだまだ“解明できていない部分”があるのも事実でしょう。一般には、触れたくない占領下の我が国の状況ですが、占領政策の狙いやその実態はいかなるものであったのか、戦後の日本及び日本人に絶大な影響を与えた占領政策だけに、ここは我慢しつつ、引き続き占領時代の概要を努めて時程を追って振り返ってみたいと思います。

前回、マッカーサーの「人となり」などを取り上げましが、色々調べていくうちに、個人的には、①占領政策の決定権は本当にマッカーサーにあったのか、②周辺情勢の変化などから占領政策がいかに変容していったか、に関心を持つに至りました。

さらに、占領時代は、「“兵は国の大事”といわれる戦争において、“敗戦”とはいかなる意味を持つのか」、その延長で「“平和主義”がはびこる現在において、それを追及した結果として、独立(主権)を失うということはいかなるものなのか」などについて、歴史から学ぶ“他に類を見ない好材料”と考えます。

占領政策は、本歴史シリーズの“集大成”です。細部に触れるとそれだけで分厚い書物になってしまいますので、これまで同様、知り得る限りの“史実”を簡潔に、かつ要点をあぶり出しつつ振り返ってみたいと思います。

▼マッカーサーの最初の指令

 昭和20年9月2日、東京湾に停泊する戦艦ミズーリ―で降伏文書調印式が実施され、日本側の人選が難航した結果、重光葵(まもる)外相と梅津美治郎参謀総長が臨むことになります。

調印式を終えて宿所に戻った重光外相にマッカーサーより「日本国民に告ぐ」で始まる以下の内容の文書が舞い込みます。①軍政を敷き、公用語は英語とする、②一切の命令違反は軍事裁判で死刑などに処す、③米軍軍票を日本の法定通貨とするとあり、重光外相は軍政布告などポツダム宣言を逸脱した内容に唖然として翌日、さっそく俄然抗議をします。

重光の「軍政を敷けば混乱が生じ、その結果については、日本側は責任を負わない」と脅しのような抗議に対して、マッカーサーはたじろぎ、軍政の布告案を撤回し、直接軍政より間接統治の方を選択します。

あわや、軍政を敷かれ、我が国の公用語がフィリピンのように英語になり、(前回紹介しましたように)日本人の大半がキリスト教徒にさせられるところでした。中でもGHQの間接統治への決心変更は、重光外相の手柄だったことは間違いないでしょう。

しかし、重光は(だまっておればいいものを)記者会見でこれを誇ったためにGHQの不評を買う結果になります。その結果、「日本人を甘やかしてはならない」と対日政策の硬化に繋がってしまいます。お互いまだ手の内がわからない段階だったとは言え、当初から勝者と敗者の明確な線引きがあったのでした。

▼天皇陛下のご訪問

こうした中で、マッカーサーを揺り動かした筆頭は天皇陛下でした。昭和20年9月27日、天皇がモーニング姿でマッカーサーをご訪問されます。マッカーサーは「天皇が“命乞いに来た”と思った」と回想録に記しています。

しかし、天皇が口にされたのは正反対で、「戦争責任はすべて私にある。私の一身はどうなろうともかまわない。あなたにお任せする。この上、どうか国民が生活に困らないよう、連合国の援助をお願いしたい」旨を述べられ、マッカーサーを驚かせます。

マッカーサーは、「私は大きい感動にゆさぶられた。諸事実に照らし、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとしている。この勇気に満ちた態度は私の骨の髄までゆり動かした」とのちに回想しています。

この会見によって、マッカーサー自体は、天皇を「日本の最上の紳士」とみなし、訴追反対の意思をより強くするとともに、「天皇の影響力を保つことで占領統治を成功させようとした」といわれます。

この天皇のご訪問はこの後“尾ひれ”がつきます。モーニング服で正装した天皇とラフな格好のマッカーサーが並んで写した(有名な)写真が翌日の新聞(朝日、毎日、読売)に掲載されてしまったのです。

当時の国民にとっては衝撃的な写真でしたが、内務省は掲載した新聞を発禁処分します。これに対して、“絶好のプロパガンダと考えた”GHQは、処分を無効として改めて発行を命じます。本事件もまた、対日強硬政策を行う「引き金」になったのでした。

▼「日本人の国民性」研究

 さて、GHQの占領政策は、マッカーサーに絶大な権力があるとはいえ、GHQの方針のみで決定したわけでないことも明白です。マッカーサーに(前回紹介したような)「日本観」を抱かせたのも必ずしも自身の経験や信念からだけでなかったようです。

アメリカの日本研究は、ペリー来航以降、つまり19世紀後半までさかのぼりますが、本格的な研究は「太平洋問題調査会」(1925年設立)という民間の学術団体が担っていました。

この調査会は、「真珠湾攻撃」の数か月後には「対日占領政策研究」を開始したといわれますが、戦争が終盤に近づいた1944(昭和19)年12月、調査会の臨時会議がニューヨークで開催されます。「日本人の性格構造とプロパガンダ」の論文を書いたジェフリー・ゴーラーが指導的役割を果たした本会議には、有名な『菊と刀』の著者ルース・ベネディクトなど40名の文化人類学者、精神分析学者、心理学者などが参加します。

この会議において、「日本人の国民性」の定義として①原始的、②幼稚・未熟で、少年非行や不良の行動に類似、③精神的・感情的で不安定で「集団的神経症」、などという偏見と誤解に満ちたレッテル貼りが行われ、参加者一同の同意を得ます。

この「学問」の名において行われた日本人の性格構造分析がアメリカ、そして前述のマッカーサーの「日本観」をはじめGHQの対日政策に決定的な影響を及ぼすことになります。

アメリカの戦時情報局(OWI)は、これらを活用して「対日心理作戦ハンドブック」を作成しますが、「“敵の精神に打撃を与える無形の武器”として日本人の“国民性研究”を取り組んだ点を見落としてはならない」(高橋史朗氏)と指摘されるように、この研究成果が占領政策に反映されていきます。

これと比較して思い出すのは「真珠湾攻撃」です。「緒戦の奇襲によって米国民にショックを与え、厭戦気分を増大する」との壮大な作戦であれば、その可能性や効果を見極めるため、「米国人の国民性」について学者を集めて研究するぐらいの知恵が必要だったと考えます。

山本五十六長官、あるいは海軍の限界と言えばそれまでですが、日本にはアメリカ専門家も数えるほどしかいなかったこともあってそのような研究をした痕跡は見つかりません。残念ですが、日米には軍事力や経済力など国力以上に“知恵の差”があったと認めざるを得ないのです。

ちなみに、日本人の国民性の分析により、占領政策に多大な影響を及ぼしたといわれる『菊と刀』については、和辻哲郎氏が「読むに値しない」と酷評しているのをはじめ、竹山道雄氏や柳田國夫氏などの著名人が異口同音に誤解と偏見と悪意に満ちていると反論しています。

なぜか近年、本書は「日本を知るための最良本」として中国でベストセラーになっているらしく、いかにも中国人が喜びそうな内容でもあることから、またしても誤った日本観が蔓延するのが懸念されます。

私も来日経験が一度もない作者がこれほどの誤解と偏見をよく書けるものだと感心しながらも、途中で嫌気がさして気分が悪くなったことをよく覚えております(本書だけは決してお勧めしません)。

▼トルーマン政権による「対日政策」指示

 さて、トルーマン政権からGHQに対する「対日政策」に関する指示が幾度か発出され、これらがGHQの占領政策を決定づけることになります。

書物によっては、すべての指示に「トルーマン大統領が直接目を通し、同意したわけではない」との指摘もありますが、それはさておき、まず「降伏後における米国の初期の対日方針」(1945年9月6日付)を紹介しますと、占領の究極の目的として「日本国が再び米国の脅威となり、世界の平和及び安全の脅威とならないことを確実にすること」、そして「国連憲章の理想と原則に示されたアメリカの目的を支持する平和的で責任ある政府を樹立すること」が明示されています。

この指示こそが「日本をアメリカの属国にする決意の声明だった」(西悦夫氏)との分析もあることを付記しておきましょう。そして、一連の大統領指示は、次第に具体的かつ硬化的になっていくのです。

▼マッカーサーと連合国の主導権争い

 具体的な占領政策を振り返る前に、マッカーサーと連合国との主導権争いを振り返っておきましょう。特に、ソ連とは意見の相違が絶えませんでした。その端緒は、日ソ中立条約を一方的に破って満州に侵攻したソ連兵の略奪行為と70万人から90万人といわれる日本兵と民間人のシベリア抑留でした。

これらもあって、マッカーサーは、日の丸の掲揚を禁止するとともに、国連旗ではなく、アメリカの国旗を掲揚することを命じます。連合国はアメリカの独裁をねたみ、ソ連はマッカーサーから独立した軍隊によって北海道占領を要求しますが、マッカーサーはこれを一蹴します。

そんな中、「極東委員会」が1945年9月に設置されますが、英国、ソ連、中国が対立し、ようやく12月、この3か国に加え、オーストラリア、フランス、カナダ、フィリピンなど11ヶ国の代表で構成されることが決まります。その結果、第1回目の会合が翌年2月、ワシントンで行われます。

強力な権限を持っていた「極東委員会」は、①日本占領の政策を作る、②マッカーサーが出した指令や政策決定を検査する、③マッカーサーの行動を加盟メンバーの要請に基づいて調査する、とその権限を明確にしますが、マッカーサーは「アメリカは、太平洋戦争の勝利に最も貢献しただけでなく、日本占領の負担をほとんど担っているのだから、占領政策を作る道義的かつ正統の権利を主張するのは当然」として跳ねのけます。

この点については、マッカーサーの功績と評価できますが、「日本占領は連合国軍によって行われる」とした「極東委員会」設立の掛け声とは裏腹に、アメリカ政府も「“戦利品・日本”をソ連と山分けしようと思っていなかった」ことも事実で、この姿勢は、共産主義の拡大を警戒するに従い、更に強化されることになります。

これらを可能にした背景に、ソ連がまだ原子爆弾を保持していなかったことがありますが、「5年から10年先」と見積もった米国軍事情報局をあざ笑うかのように、ソ連の原子爆弾の実験成功の報告がトルーマン大統領に入ったのはそれからわずか3年後でした。(つづく)

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