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「我が国の歴史を振り返る」(56)  「ミッドウェー作戦」の真実

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アメリカ側からみた「真珠湾攻撃」

前回の続きですが、「真珠湾攻撃」の奇襲はみごとに大成功します。直ちに第1次攻撃隊指揮官の淵田中佐から第1航空戦隊旗艦「赤城」宛に有名な「奇襲成功セリ」(暗号略号 トラ・トラ・トラ)が打電されます(電報のコピーを保持していますが、日付は12月8日0322とあります)。

報告された戦果は、「敵主力艦2隻轟沈、4隻大破、巡洋艦約4隻大破以上確実、飛行機多数撃破 我飛行機損害約30機」とあります。所在しているはずの空母が不在だったことが判明しますが、この瞬間、この戦果を「予期どおり」と判断したかどうかは不明です。のちに後悔することになる基地の石油タンクや海軍工廠も破壊しませんでした。

後日、空母の乗組員水兵による「12月5日の朝、空母3隻だけ土日の演習命令が出て外出禁止になり、上官に文句を言った。後日、パールハーバーに帰ってきて『なぜ空母だけを助けたのだ』と不思議に思った」旨の証言が残っています。アメリカ海軍史上、日曜日に演習したのはこの時が最初で最後だったといわれますが、この演習が何を意味するかは明白でしょう。

一方で、アメリカ側もオアフ島北端のレーダーが日本軍機を発見していながらもB17爆撃機と誤認し、何らの措置を取らなかったとの判断ミスがあります。

これらもあって、米太平洋艦隊司令官のキンメル大将と米陸軍ハワイ管区司令官ショート中将は退役させられますが、のちにキンメル大将は「事前に真珠湾攻撃があることを知りながら、故意に連絡してこなかった」とルーズベルト大統領を告発します。

その根拠として、1941年1月以来、グルー大使から国務省宛に送られた暗号電報(時期は、海軍が真珠湾攻撃の検討を始めた頃と一致)に始まり、東京―ハワイ・ホノルル総領事間の176通に及ぶ暗号電文のほとんどを米国陸海軍諜報部が傍受していたのにも関わらず、ハワイに何らに通報がなかったことを挙げています。

また、「真珠湾攻撃」がはじまる前に、ルーズベルト大統領に13部までの解読文が渡り、「これは戦争だ」と発言していたこと、そして4時間前に、スターク海軍作戦部長やマーシャル陸軍参謀総長も14項目全部の暗号解読文が届き、スターク提督がキンメル大将に知らせようとすると、マーシャルがそれを制止し、攻撃から2時間後に普通電話で知らせたこともわかっています。マーシャル参謀総長のこれらの言動は、今でも不可解とされています。

このぐらいにしておきましょう。もっと詳しく知りたい方は、『世界が語る大東亜戦争と東京裁判』(吉本貞昭著)をご一読下さい。

こうして、チャーチル首相に「私は、宣戦はしない。戦争を作るのだ」と語ったルーズベルト大統領の“術中”に見事にはまる形で「日米戦争」の火ぶたが切られたのでした。

今なお、「日本は汚い攻撃をした」と信じて疑わない人達が日米両サイドにたくさんおりますが、そろそろ「史実」をしっかり見極める時期に来ているのではないでしょうか。

▼緒戦の連戦連勝

 「真珠湾攻撃」以外の日本軍の緒戦の快進撃を要約します。12月8日未明、日本軍は南方の英国植民地でも行動を開始します。

陸軍の第25軍(山下奉文司令官、3万5千人)が行動を開始すると、これを阻止しようとする英国東洋艦隊がシンガポールから出撃しますが、10日午後、仏印の飛行場から飛び立った海軍航空隊が英戦艦「プリンス・オブ・ウエールズ」と巡洋艦「レバレス」を撃沈させ、開戦3日目にして太平洋の制空権、制海権を握ります。

報告を受けたチャーチルをして「すべての戦争を通じてこれ以上直接的な衝撃を受けたことはなかった」と言わせた瞬間でした。

第25軍は、マレー半島に上陸し、銀輪部隊で知られる追撃作戦を実施し、シンガポールに向かって猛烈な勢いで半島を南下します。そして55日間で約1100㎞も進撃し、翌年1月末にはシンガポールを臨むジョホールに到達します。

2月8日からシンガポールへの上陸作戦を敢行し、熾烈な戦闘の結果、15日にはシンガポールを占領します。ここに100年以上にわたった大英帝国アジア植民地の牙城が陥落することになります。

我が国の重鎮らは日米開戦に最後まで反対しており、国民の一部も慎重論を唱えていたのですが、シンガポール陥落の頃には国中が戦勝気分に沸いたようです。

引き続き、陸海軍は、ラバウル、ジャワ島、フィリピンなど次々に占領して宣戦を拡大してきます。あまりの快進撃に対して天皇が「戦果が早く挙がり過ぎる」と内大臣につぶやかれたとの記録も残っています。

▼第2期作戦―「ミッドウェー海戦」を巡る議論と結果

 さて第2期です。昭和17年4月頃から18年6月頃までの約1年2カ月で、「我が陸海軍が連合国軍とほぼ互角に戦争をしていた時期」でした。

この期間も海軍統帥部と連合艦隊の確執が続きます。緒戦の「真珠湾攻撃」で中途半端に勝った結果として、さらに組織的欠陥の傷を大きくするのです。

実情を知らないメディアの山本賞賛の後押しなどもあって、この後、日本から遠いミッドウェーへの攻撃、ガダルカナルへの進出など、「腹案」と逆を行く山本長官の作戦を阻止できず、その結果、大敗します。その概要を振り返ってみましょう。

海軍が「真珠湾攻撃」で緒戦を飾り、陸軍がマレー半島からシンガポール占領など東南アジアの作戦をほぼ計画通りに進捗した昭和17年3月頃、大本営政府連絡会議で「今後採るべき戦争指導の大綱」が決定されます。

ここで、「既得の成果を拡充して長期不敗の攻勢態勢を整えつつ、“機を見て積極的の方策を講ず”」という文言が併記されます。当初の守勢的戦略をあわよくば攻勢的戦略に転換しようとしていたのでした。

この文言は、連合艦隊に引きずられた海軍の「大東亜戦争の主作戦は終始一貫、太平洋正面にある」と立場を考慮したものだったと参謀本部の田中作戦部長が回想しています。

陸軍は“攻勢の限界を超える”ことを恐れ、ジャワ占領をもって長期持久態勢を固め、連合艦隊主力をインド洋に指向すべきと主張します。

海軍も同年2月頃までは、インド洋作戦の図上演習を実施するなど、その時点では陸軍と同様の戦略を保持していました。ところが、4月、我が国を震撼させた奇襲爆撃が発生します。「ドゥーリトル空襲」です。

「ドゥーリトル空襲」とは、空母ホーネットからドゥーリトル中佐率いる16機のB25が東京方面等を空襲したことです。この空襲は、実際の損害以上に我が国の中枢部に直撃弾を浴びせた格好になります。

日本軍のメンツは丸つぶれになり、特に海軍に与えた衝撃は甚大で、中でも山本長官のプライドは大きく傷つきました。これによって、「ミッドウェー作戦が必要だ」とする山本長官の説明が説得力を増してしまいます。

こうして、4月に決定された海軍の第2段作戦計画には、インド洋の作戦やオーストラリア攻略に通ずるサモア諸島やニューカレドニア等の作戦に加え、ミッドウェー島攻略、さらにはハワイ攻略まで盛り込まれました。

これによって、明治以来、迎撃戦を基礎としてきた海軍は、今まで研究はおろか考えたこともない作戦様式の戦闘を続けることになります。その結果が「真珠湾攻撃を除き、百戦百敗は当然だった」との戦後の分析に繋がります。

当然ながら、軍令部は、本作戦に大反対していましたが、再び「計画が受け入れられなければ長官の職にはとどまれない」との山本長官の主張に対して「真珠湾攻撃の英雄を辞めさせるわけにはいかない」と作戦を了承します。“頭に血が上った”山本長官らには、「ドゥーリトル空襲」に込められたアメリカの“したたかな意図”を見抜けなかったのでした。

ミッドウェー作戦((昭和17年6月5~7日)の結果についての説明は必要ないと考えますが、日本は主力空母4隻と艦載機、搭乗員を一挙に失い、山本長官の連続決戦構想は破綻します。

開戦以来一度も変えていない暗号はすでに米英に解読され、米軍は日本人の八木秀次氏が発明した「八木アンテナ」を使用して待ち構えていたこともあって「負けるべくして負けた」のでした。その上、こともあろうか海軍は、この大敗北と破壊的損害を陸軍側には長く知らせていなかったのです。

ミッドウェー海戦の結果について永野軍令部長から奉上を受けた天皇は「損害により士気の齟齬(そご)をきたさないように、また今後の作戦が消極退嬰(たいえい)にならないように」と語られたことが『昭和天皇実録』に記載されています。

その後もインド洋作戦、つまり「腹案」への回帰のチャンスがありました。昭和17年6月、ドイツがようやくリビアにあるイギリス要塞を陥落させ、エジプトへ突入します。誰が見ても日独伊枢軸側の“勝機”でした。これを受けて、海軍は再編した連合艦隊を投入してインド洋作戦を決定し、陸軍参謀本部もセイロン島攻略を進言します。

しかしながら、またしても山本長官がこのチャンスを壊します。マラリア諸島やカロリン諸島などの攻略を経てガダルカナルに固執します。そして、連合艦隊は、ミッドウェー海戦をはるかに上回る決定的大失態を南方方面で演ずることになります。

「ガダルカナル島の戦い」の経緯と結果

海軍の戦いの要所になると、しばしばこの名前が出てきて驚きます。有名な井上成美提督です。

「ガダルカナル島の戦い」(昭和17年8月~18年2月)の端緒は、当時南洋方面の総帥でもあった井上成美第4艦隊司令官の決心のもとでガダルカナル島に航空基地建設を始めたことによって開かれました。

井上司令官は、前年の8月、日米開戦に反対して、会議の席上、及川海相を怒鳴りつけたことが原因で、ご栄転という形で艦隊司令官に左遷されていました。「真珠湾攻撃」の成功の報に接しても「バカな!」と吐き捨てたとの逸話も残っています。

その井上司令官がいつの時点でミッドウェー海戦の惨敗を知ったかは不明ですが、この建設の提案に対して、当初、ミッドウェー海戦の結果を知っていた連合艦隊司令部は、ラバウルからさらに1000キロ離れているガダルカナルに対しては(制空権の確保が無理)として難色を示しますが、最終的に許可します。

山本長官がミッドウェー海戦で失望し、ガダルカナル進出の可否や攻勢作戦方針を再検討する気配がない中、井上司令官が惰性のままに攻勢終末点のはるか彼方で基地建設を始めたとする見方もありますが、その真意は不明です。

当然ながら、制空権のないこの地域の基地建設情報は米軍に探知されることになります。そして完成した航空基地に海軍航空部隊が進出する直前を狙った8月、米海兵隊が突如、ガダルカナルに上陸し、航空基地は簡単に米軍の手に落ちてしまいます。それを予測して対応策を取っていなかった海軍の“落ち度”と言えるでしょう。

ようやく海軍は陸軍に基地の奪回を依頼しますが、細部情報不明の陸軍は、作戦において最も戒めるべき“逐次戦闘加入”を繰り返し、激烈な消耗戦を展開して大失敗します(あまりにも悲しいので細部は省略します)。

井上司令官は、昭和17年10月、山本長官の推薦で海軍兵学校長に転属しますが、この時の心境を「自分は戦が下手でいくつかの失敗も経験し、海軍兵学校の校長にさせられた時は、全くほっとした」と語ったようです。山本長官同様、“軍政”では名を馳せた井上提督の“実像”を物語っているのではないでしょうか。

この失敗によって、「腹案」、つまり日本の戦争戦略は完全に破綻します。この結果は、我が国の作戦への影響だけに留まりませんでした。インド洋を遮断できなかったことから、アメリカは大量の戦車や兵員を喜望峰回りでアフリカ東岸航路にてエジプトに送ることができ、ドイツ軍のスエズ進出は止められ、昭和18年5月には、チェニジアの戦いで壊滅してしまいます。

▼ドイツ敗北と「無条件降伏要求」

 この頃、欧州戦局も重大な分岐点を迎えます。陸海軍がガダルカナルで死闘を繰り広げていた頃、独ソ両軍がスターリングラードで市民を巻き込んで壮絶な市街戦が展開していました。そして、昭和18年1月31日、スターリングラードは陥落します。

スターリングラード陥落の1週間前の1月24日、米英両首脳がカサブランカで会談し、会談後、ルーズベルトが「ドイツと日本の戦力を完全に除去しない限り、世界に平和が訪れすることはない。戦力の除去とは、無条件降伏を意味する」と宣言し、「カサブランカ会談を“無条件降伏会談”と呼んでほしい」とも付け加えます。

しかし、チャーチルは、ルーズベルトがそこまで挑発するとは考えておらす、逆に「日独に無条件降伏を要求すれば、死に物狂いで抵抗し、戦争がますます長引くに違いない」と内心、“怒り心頭に発した”と回想しています。

実際、“国家そのものの否定”を意味する「無条件降伏要求」を前に、日独両国は戦争を続けるしか道がなくなります。この時点で、米国は原子爆弾の開発成功を間近にして、“無条件降伏要求は新兵器を使う大義名分ではなかったか”との分析もあります。(続く)

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