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「我が国の歴史を振り返る」(34) “波乱の幕開け”となった「昭和時代」

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▼はじめに(「昭和金融恐慌」の発生)

西暦1926年が「昭和」の始まりですが、昭和元年はわずかに7日間しかなく、すぐに昭和2年を迎えます(これは偶然なのでしょうが、最後の昭和64年も7日間しかありません)。

我が国は、まるで「激動の昭和」を暗示するかのように、経済情勢が大混乱の中、新元号を迎えたのです。本シリーズでもすでに取り上げたように、日本経済は、1920(大正9)年頃から第1次世界大戦後の不況に陥ったのに続き、1923(大正12)年に発生した「関東大震災」のダメージにより益々悪化し、社会全般に金融不安が生じていました。

こうした中、当時の大蔵大臣の失言によって金融不安が一挙に表面化し、1927(昭和2)年3月、金融恐慌が発生します(「昭和金融恐慌」と呼ばれるものです)。

「昭和」をいきなり経済情勢から始めたのには訳があります。一般の歴史ではとかく無視されがちな経済情勢ですが、歴史を探求しているうちに、“「日米戦争」への道を進まざるを得なかった”背景に経済的要因がかなりの部分を占めるとの「史実」に気がつきました。

そのような時、「ジオ・エコノミクス(地政経済学)」、つまり「経済をひとつの手段として相手国をコントロールする戦略を研究する学問」に出会いました。その結果、「経済情勢を抜きに『昭和の歩み』を語ることはできない」と確信するようになりました。

「ジオ・エコノミクス」の細部に触れる余裕はありませんが、その考えを活用しつつ、我が国の命運を左右した経済情勢を織り交ぜて「昭和」を振り返ってみたいと考えます。

金融恐慌を続けましょう。この金融恐慌の影響で憲政会の若槻内閣が総辞職し、政友会の田中義一内閣が誕生しますが、田中内閣は、「支払い猶予令(モラトリアム)」を公布し、日本銀行による莫大な特別融資などによって金融恐慌を終息させます。

しかし、この金融恐慌によって、台湾銀行など37の銀行の休業をはじめ中小銀行が没落し、その反面、三菱・三井・住友・安田・第一の5大銀行に預金が集中して圧倒的優位を確立しました。こうして、金融恐慌の“置き土産”のように「財閥」が出来上がります(「財閥」は、終戦後GHQの指令によって解体されます)。

さて、「第2次世界大戦の発端はどこにあるか」を探っていきますと、1929(昭和4)年のアメリカ発「世界恐慌」に行き着くと私は考えます。「関東大震災」やこの「昭和金融恐慌」で疲弊していた我が国、そして植民地を持たないドイツやイタリアは、この「世界恐慌」の“あおり”をまともに受けます。

▼「山東出兵」と「張作霖爆破事件」

「世界恐慌」の前に中国情勢を振り返っておきましょう。大正末期頃から、我が国は、中国の国内情勢から目を離せなくなります。いよいよコミンテルン(=ソ連)による中国の内部工作が本格化してきたのです。

1925(大正14)年、中国国民党の孫文が死亡し、蒋介石が後継者となりますが、国民党と(ソ連の指示で活動している)共産党の内紛が発生します。しかし、北部軍閥打倒のためにはソ連の援助が必要だったこともあって両者はひとまず妥協します。北伐は国民革命軍となって続けられ、1927(昭和2)年3月には南京・上海を占領し、4月には、南京に国民政府を樹立します。この後も北伐は続けられ、翌5月には山東半島に迫ってきます。

田中義一首相は、5月、「在留邦人の生命・財産の保護」を目的に山東半島に軍隊派遣を決定、英・米・仏・伊の各代表からも異論がなかったので出兵させます(「第1次山東出兵」)。

そして6月、軍部・外交官を召集して「東方会議」を開いて「対中国政策」の基本方針を検討し、翌7月には満蒙分離・武力行使など強硬な内容を持つ「対支政策綱領」を決定して発表します(のちに、日本が世界征服をめざした「田中上奏文」として米国や中国で流布されますが、これは“偽書”であることが判明しています)。

日本の「山東出兵」によって北伐は中止され、田中内閣は撤兵の声明を出します。しかし、翌28(昭和3)年4月、蒋介石が北伐を再開しますと、再び出兵し(「第2次山東出兵」)、済南を占領して国民革命軍と衝突します(「済南事件」といわれます)。これに続き、田中内閣は「第3次山東出兵」を敢行することになります。

国民革命軍は済南を迂回し、北京に入場しますが、同年6月、敗走して奉天に引き上げようとした張作霖は、関東軍参謀の河本大作大佐らによって列車もろとも爆破されて死亡してしまいます。有名な「張作霖爆破事件」です。

政府は“重大事件”として発表しただけで真相を隠し、犯人の処罰を行わなかったことから田中内閣は天皇の信任を失います。またこれにより、中国の“日貨排斥運動”が広がって日本の中国貿易が衰退、代わって英・米・独などが狙ったように中国市場に進出します。

「第1次山東出兵」時には日本を支持した米・英両国でしたが、1928年、相次いで国民政府を承認して日本の“動き”を非難し始め、日本は国際的に孤立することになります。

実は、この「張作霖爆破事件」は、実は河本大佐の犯行でなくソ連諜報機関による犯行だったとする見方もあります。一時話題になりました『マオ 誰も知らなかった毛沢東』(ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著)にも「ソ連の仕業だった」とサラリと書かれています。この時期、大陸で発生した様々な事件にはとかく謎が多いのです。

▼普通選挙の実施と社会運動の弾圧

1928(昭和3)年2月、「普通選挙法」に基づく最初の選挙が行われます。他方、共産党がはじめて公然と活動開始したことから、「治安維持法」に基づき、全国一斉に共産党員とその支持者約1600人を検挙します(「三・一五事件」)。

同年5月には「治安維持法」を改正し、最高刑を懲役10年から死刑とします。また、特別高等警察(特高)を強化するとともに、憲兵隊に思想係を置き、翌年4月には再び共産党とその支持者を一斉検挙し(「四・一六事件」)、その結果、共産党は壊滅状態になるなど、左派は労働運動の主導権を失います。

▼「不戦条約」締結・批准

「張作霖爆破事件」の処理をめぐって天皇の信任を失った田中内閣でしたが、28(昭和3)年8月、「不戦条約」に調印します。

同条約は、アメリカ国務長官ケロッグとフランス外務大臣ブリアンの提唱により1928年に開催されたパリ会議で締結されたもので「ケロッグ・ブリアン条約」とも呼ばれています。当時の国際法では「国家が戦争に訴える権利や自由を有する」と考えられていたものから「国際紛争の解決手段として武力を行使しない」と宣言したことで画期的な意味を持っていましたが、その後の歴史を見れば全く効果がありませんでした。

我が国が調印する段階で議論になったのは、第1条の「各国の人民の名において厳粛に宣言」という言葉でした。この表現が野党・立憲民政党から「天皇大権を犯すもの」と批判されたのです。「天皇大権」が〝政争の具〟として初めて使われ、その結果、「該当字句は我が国に適用しない」との留保宣言をつけてようやく批准します。

昭和史の中で「天皇大権」を楯に取った物議は、軍人の“専売特許”のように思いがちですが、ことの始まりは、この時の“党利党略”の中で使われたことを覚えておきたいものです。

のちの「満州事変」はこの「不戦条約」違反第1号といわれ、その延長で、現日本国憲法第9条第1項に「国際紛争の解決手段として武力を行使しない」との表現がそのままコピーされます(その経緯などはのちのち明らかにしましょう)。

ちなみに、本条約を批准するにあたりアメリカは「自衛戦争は禁止されていない」と解釈し、「経済封鎖は戦争行為そのもの」と断言していたことも付記しておきましょう。これについてものちに明らかにしますが、「真珠湾攻撃」に繋がった、いわゆる“ABCD包囲網のよる経済封鎖”について、米国は明らかに「戦争行為」と認識していたということです。

1929(昭和4)年7月、立憲政友会の田中内閣は総辞職し、立憲民政党の濱口雄幸内閣が成立します。このようにして、「昭和」は〝波乱の幕開け〟となったのですが、まだまだ“序章”にしか過ぎませんでした。

▼「世界恐慌」の背景と影響

1929(昭和4)年、アメリカ発の「世界恐慌」が発生します。「この度の新型コロナが世界経済に与える影響は“世界恐慌”以来だ」と分析されている、その「世界恐慌」です。まずその背景を探ってみましょう。

第1次世界大戦の勃発以降、工業製品や農産物生産は主戦場となった欧州からアメリカに移り、アメリカが世界経済の中心になります。1920年代になると、米国内の都市化も進んで好景気となり、投資ブームも異常に盛んになって、ダウ平均株価は1924~29年の5年間で5倍に高騰します。

他方、過剰生産によって商品の売れ残りも生じ始めたのです。こうした中、1929年10月24日(木)、ウォール街のニューヨーク証券所で株価の大暴落が起こります(世に言う「暗黒の木曜日」です)。 

不安を感じた国民は銀行から預金を引き出し、銀行は倒産、銀行が融資していた企業も倒産、企業に仕事をもらっていた工場も倒産と“ドミノ倒し”のように影響が広がり、失業率が25%を超えます。

この一連のパニックはアメリカ一国にとどまらず、世界中を混乱の渦に陥れますが、この一連の混乱が「世界恐慌」(あるいは「世界大恐慌」)と呼称されます。

「関東大震災」に続き「昭和金融恐慌」によって疲弊していた我が国でしたが、国際協調を掲げていた濱口雄幸内閣が「世界恐慌」の直前に“金解禁”を断行したこともあって、恐慌の“あおり”をまともに受け、株の暴落や企業の倒産が相次ぎ、大量の失業者が発生します。特に、アメリカに輸出していた生糸が危機的状況に陥り、生糸生産農家では、あまりの不況から子供を身売りするなどまで事態は悪化したのでした。

「世界恐慌」の対応は国によってまちまちでした。アメリカは、やがてフランクリン・ルーズベル大統領が掲げた「ニューディール政策」によって政府が積極的に市場に介入する方針へ転換、イギリスやフランスは「ブロック経済」という政策をとって植民地を含む身内以外の国を貿易から締め出すような対応策を取って経済を回復させます。

これに対して、我が国はしばらく成長率が低迷した後、犬養毅内閣の高橋是清蔵相による金輸出再禁止と日銀に国債引き受けなどのリフレーション政策によってようやくデフレを終息させますが、資源や植民地の少ないドイツやイタリアなどと共に「植民地を得るために侵攻すべき」「軍事に力を入れれば軍事産業が盛りあがり、仕事ができる」という空気が高まったことも事実でした。

この空気の延長で、日本では「満州事変」が起こり、ドイツではヒトラーが、イタリアではムッソリーニがファシスト体制を作りあげ、他の国々との対立が深まっていくことになります。

他方、この「世界恐慌」の影響を全く受けない国がありました。ソ連です。物価、生産・流通・配給のすべてを国家が統制する社会主義国家・ソ連は、スターリンの元で「五か年計画」の真っ最中でこの時期も高い成長を遂げ、1939年にはGDPで世界第2位に踊り出ます。

「世界恐慌」によって引き起こされた様々な事象は、共産主義勢力には「資本主義の末期的症状が露呈したもの」と映っていたといわれ、“全世界共産主義の完成”を画策するコミンテルンの勢いを増大させる要因ともなりました。これらの細部についてはのちほど振り返りましょう。

こうして、アメリカ発の「世界恐慌」は、多くの国の運命を狂わせ、やがて世界史上2度目の世界大戦という歴史的事件を引き起こすことになります。(つづく)

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