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「我が国の歴史を振り返る」(31) 「ヴェルサイユ条約」締結と「第1次世界大戦」の歴史的意義

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▼はじめに

 今回は、いきなり本文に入り、最後の方で総括したいと思います。

▼「ヴェルサイユ条約」締結とその影響

ドイツの新共和国と連合国との間に休戦協定が成立したことを受けて、翌1919(大正8)年1月18日からパリで戦勝国の講和会議が開かれます。

さかのぼること1年前の1月、アメリカ議会でウィルソン大統領は有名な「14カ条平和原則」を提唱しました。その内容は、「海洋の自由」「民族自決」「関税障壁の撤廃」「軍備縮小」「植民地の公正な処置」「国際平和機構の設立」などに及び、大統領は、この理想主義的な平和原則を講和会議の基調として議事運営を取り仕切るつもりだったといわれます。

しかし、フランスはドイツを徹底的に痛めつけ、二度と立ち上がらせないこと、イギリスは戦前の大英帝国の地位を復元することを優先してこれに「待った」をかけます。

こうして、講和会議は、英仏の“既得権擁護”が主目的となり、戦争責任をドイツに押しつける形で進行し、同年6月に「ヴェルサイユ条約」としてまとめられ、ドイツに調印を強要します。

特に、大幅な軍事制限と植民地の剥奪に加え、1320億金マルク(国民1人あたり約1千万円に相当)という巨額の賠償金を課したのです。その賠償金の約半分はフランスの取り分でした。

第1次世界大戦の結果、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、更にロシア帝国が消滅します。ハンガリー、ポーランドなど各帝国内の各民族の独立は認められましたが、ドイツ民族の独立や併合は認められず、「民族自決」は否定されたままでした。

 他方、ドイツ国内では、パリ会議が開催されていた1919年1月、ドイツ労働党が結成され、9月にはアドルフ・ヒトラーが入党します。翌20年、「国家社会主義労働党」(略称「ナチス」)と改称し、講和条約の破棄と国粋主義的要求などを盛り込んだ「25ケ条綱領」を発表します。早くも第2次世界大戦の伏線が張られたのでした。

なお、「民族自決」と言ってもアジアやアフリカ諸国の独立については全く取り上げられず、これを不満とする中国は調印を拒否しました。

▼パリ講和会議と我が国

パリ講和会議に戦勝国の一員として出席した我が国についてもまとめておきましょう。我が国は西園寺公望、牧野伸顕らが全権として、また随行者として“その後の日本の舵取りや外交を担う”ことになる近衛文麿、吉田茂、松岡洋右ら総勢60人が出席しました。

我が国が提案し、そして否決されることになる、有名な「人種的差別撤廃提案」については、政府内でいつ誰が最初に言い出したのかは明らかでないのですが、背景に米国やカナダなどの日系移民排斥問題があり、その解決のきっかけにしようと「人種的偏見の除去が国際連盟参加の条件」が日本全権の正式な方針となっていました。

全権団はパリに到着するや、各国と交渉を開始しました。当初は米国ウィルソン大統領も了解したと言われますが、白豪主義体制を国是としていたオーストラリア、そしてカナダなどが猛反発、それを受けてイギリスも否定的な反応を示しました。

講和会議において日本代表は、自国の利害が絡む山東問題や南洋諸島問題以外、ほとんど発言せず「サイレント・パートナー」と揶揄されたようです。その山東州のドイツの権益については、(事前の密約もあって)英・仏の賛成により日本が引き継ぐことになりますが、アメリカは反対し、結果として中国全土の“排日運動”に繋がっていきます。

また、朝鮮半島でも1919年3月、「万歳事件」(3・1独立運動)が発生し、これを契機として、朝鮮民族の独立運動が年を追って活発化することになります。

日本代表は、国際連盟設立の問題についても消極的な態度に終始し、各国の失望を買いました。このような状況を打開するため、つまり、成否はともかくも「人種的差別撤廃の主張を鮮明にすることは将来のために極めて緊要」との判断から、いわば“捨て身”の提案をすることになります。

そして、国際連盟委員会において、牧野は連盟規約21条の「宗教に関する規定」について、「人種・宗教の怨恨が戦争の原因になっている」として「人種あるいは国籍如何により法律上あるいは事実上何ら差別を受けないことを約す」旨の条文を追加するよう提案します。本提案により会議が紛糾し、結局「宗教に関する規定」そのものが削除されてしまいますが、本提案は海外でも大きく報道され、様々な反響を呼ぶことになります。

米国においても「人種的差別撤廃法案は内政干渉であり、本法案が採決された場合は、米国は国際連盟に参加しない」との上院決議が行われ、一時帰国したウィルソン大統領を窮地に追い込みます。

これらを受けて、牧野は、国際連盟規約前文に「国家平等の原則と国民の公平な処遇を約す」との文言を盛り込むという修正案を提案します。ウィルソンは提案そのものを取り下げるよう要求しますが、牧野は採決を要求し、議長ウィルソンを除く出席者16名中、フランス、イタリア、ギリシャ、中華民国など11名が賛成、イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジルなど5名が反対しました。

しかし、ウィルソンは「全会一致でないために提案は不成立である」と宣言します。これに対して、牧野は“多数決の有効性”を主張しますが、「本件のような重大な問題は全会一致が原則」としてこれを再度否定します。最後に、牧野は「議事録に記載すること」を要求して了解します。

これが一連の結末でしたが、この結果に、米国の黒人が自国政府の措置に怒り、全米で数万の負傷者を出すほどの暴動に発展します。我が国においても、反米感情が高まり、世論は国際連盟不参加まで発展します。

人種差別については、第2次世界大戦後の1948(昭和23)年、「世界人権宣言」として採択され撤廃されます。つまり、「日本の主張が正しかった」と認められるまで、さらに約30年もの歳月と多大な犠牲を強いることになります。

▼「国際連盟」の誕生

さて、「ヴェルサイユ条約」発行日の1920(大正9年)1月10日に「国際連盟」が発足しました。ウィルソン大統領が提唱した「14カ条の平和原則」の第14条「国際平和機構の設立」に基づき、パリ会議において戦勝国に承認されたものでした。

「国際連盟」の原加盟国は42カ国でしたが、アメリカは議会や世論の反対で不参加、ソ連やドイツも参加を容認されないなどその基盤は当初から十分なものでありませんでした(ドイツは1926年、ソ連は34年にそれぞれ加盟します)。

米国の不参加を恐れて人種的差別撤廃の強引な否決まで強行したウィルソン大統領は、「世界大戦の悲劇を防止するためにもアメリカが国際的に孤立するのは許されない。集団的安全保障の枠組みに参加するのは米国の責任であり、崇高な義務だ」と説きますが、議会や国民の支持を得ることができず、やがて失意のうちに世を去ります。そして、加盟反対を掲げた共和党のハーディング大統領が誕生し、アメリカの加盟の道は絶たれます。

原首相が世論を押さえて参加の調印に踏み切った日本は、イギリス、フランス、イタリアとともに常任理事国となりますが、欧州中心の加盟国に加え、「全会一致制」や「武力制裁」の手段もないなど、「国際連盟」は国際協調や世界平和の確立という目的達成のためにかなり不備がありました。

日本はまた、(予定通り)「ヴェルサイユ条約」によって「国際連盟」から南洋諸島(北マリアナ諸島・パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦などに相当)の委任統治も託されます。

まさに、戦勝国・日本の絶頂期だったとも言えますが、南洋諸島は、当時、アメリカの植民地下にあったフィリピンとハワイの間に日本が“割って入る”ような格好となり、アメリカの対日警戒感を益々増大させることに繋がっていきます。

▼総括―「第1次世界大戦」の歴史的意義

2018年11月11日は、第1次世界大戦の「休戦協定」から丁度100年にあたり、パリで記念式典が開催されて各国首脳が出席しました。その式典で、フランスのマクロン大統領が「ナショナリズムの台頭が再び平和を脅かそうとしている」と演説し、当時、具体的な名指しは避けてもそれが何を意味するかが明白であったことから、物議を醸し出しました。

ヨーロッパ人にとっては、戦闘員の死者約1千万人、非戦闘員の死者約1千3百万人の犠牲者を出した第1世界大戦は「第2次世界大戦よりも歴史的意義が大きかった」といわれます。

最後に、我が国の有識者達が“第1次世界大戦をどのように分析しているのか”に絞って歴史的意義を総括したいと思います。

高坂正堯元京都大学教授は、最近その復古版が話題になっている名著『国際政治』の中で、「第1次世界大戦が発生する前までは、欧州列国は“勢力均衡”原則が外交を指導する中心的な原則だった。各国は“勢力均衡”を口にしながら、自国に有利な“均衡”を獲得しようとした。第1次世界大戦はその“勢力均衡”の不完全さが集積して起こった」旨の論旨を展開し、その意義を分析しています。

同じく京都大学名誉教授の佐伯啓思氏は、著書『20世紀とは何だったのか』の中で、「20世紀とは、“世界史”が表舞台に出てきた時代である」として、「20世紀はもはやヨーロッパを中心に世界を語ることができなくなった。ヨーロッパの理念や使命感として推進してきた帝国主義の矛盾が行き着くところまで行き、ヨーロッパ列強の植民地をめぐる争いが最終的にたどり着いたのが第1次世界大戦だった」旨の意義を分析しています。

その上で、「日本の場合は、その“勢力均衡”の一環だった『日英同盟』に基づく参戦だったが、モンロー主義の中立国・米国の参戦は“異例”だった。参戦に至る表向きの直接的理由は、“ドイツの無制限攻撃によってイギリスの客船が攻撃され、犠牲者に100人を超すアメリカ人が含まれていた”ことにあったが、ウィルソン大統領は、『世界の民主主義を守るためにアメリカは参戦する』と国民に訴え、支持を得た。言葉を代えれば、『危険な政府を倒し、世界を民主化するためにアメリカは軍事力を独自に行使できる』というロジックが確立した」と指摘します。

佐伯氏は続いて、「米国のこの論理は、19世紀の帝国主義の時代の論理と基本的には同じであり、ヨーロッパ内の“勢力均衡”に代わり、超大国・アメリカが世界秩序を保持すべきとする“覇権安定性”が完成した」と総括しています。

この理論は、第2次世界大戦においてはアメリカなど戦勝国側の「デモクラシー対ファシズム(正義と悪)の戦い」との主張に繋がり、現在、トランプ大統領の「アメリカン・ファースト」が目指す“目的”にも繋がっていると考えます。

マクロン大統領の発言は、「歴史の中では失敗だった欧州型の“勢力均衡”に依然として執着している」との見方もできますが、「世界秩序を保持して平和を維持するために、より有効な体制は時代とともに変化する」ということに尽きるのではないかと考えます。

改めて振り返りますと、ボスニアで発生した「サラエボ事件」がこのように人類社会の“歩み”そのものを一挙に変えたばかりか、20世紀そして現代の国際社会の“序曲”になっていたということ、そして講和条約の結末が次の大惨事を引き起こす“時限爆弾”としてすでに時を刻み始めていたということを当時の誰が認知し得たでしょうか。

今回は、一寸立ち止まって歴史を“鳥瞰”してみましたが、第1次世界大戦の頃から現在社会との“繋がり”がより密接になってきていると考えます。

有名な「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」(ビスマルク)という言葉があります。人類の本質はそう変わらないので、歴史には人類の英知が詰まっているはずなのですが、“歴史を学び、未来に活かす”ことがいかに“言うは易く行うは難し”なのか、つまり、“人類はなぜ賢者になれないのか”などについても引き続き探求して行こうと考えています。

次回は、“歴史的岐路”となった「ワシントン会議」を取り上げましょう。(続く)

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