医師の自律(その2/2)
【厚労省の動き】
2007年4月、医療現場への刑事司法の介入に対応するという名目で、厚労省は、「医療事故調査委員会」の検討会をスタートさせた。厚労省案として、第 二次試案、第三次試案、大綱案が次々に発表された。いずれも、網羅的な調査と行政処分の拡充によって医療をコントロールしようとするものであった。
司法、行政は法による統治システムの一部であり、過去の法令で未来をしばる。問題が生じたとき、過去の規範にあわせて、相手に変われと命ずる。自ら学習 しない。しかし、医療は未来に向かって変化し続ける。問題が生じたとき、実情を認識し、自ら学習して知識や技術を拡充させて対応する。別の表現をすれば、 法は理念からの演繹を、医療は実情からの帰納を基本構造としている[11]。医学論文における正しさは研究の対象と方法に依存している。仮説的であり、暫 定的である。この故に議論や研究が続く。新たな知見が加わり、進歩がある。医学では今日正しいことが、明日正しいとは限らない。法的評価は、医療を過去に 固定し、進歩を阻害する。
他の社会システムでも、同様の問題が生じる。例えば、会計は、企業の活動実態を社会に正確に伝えるという機能を有する。新しい業種が出現すると、その実 態を表現するために新しい会計が考えられるようになる。2006年に施行された新会社法431条は、「株式会社の会計は、一般に公正妥当と認められる企業 会計の慣行に従うものとする」と規定している。
網羅的な調査による評価と行政処分の拡充で医療を制御しようとする厚労省案に対し、日本医師会は現場の医師の声を聞かずに賛成した[12]。多くの医師 が、紛争を拡大させ、医療の進歩を止め、結果として医療を壊すことになるとして反対した[13]。以後、日本医師会は、現場の医師の支持を急速に失った。 2009年8月の総選挙による政権交代で、厚労省案がそのまま実現する可能性はなくなった。しかし、大野病院事件の判決の後、ボールは医療界にあり、対応 を迫られている状況であることは間違いない。
【日本医師会と医師の自律】
司法や行政が医療を取り締まると、医療を知らないが故に医療を破壊する。このため、英語圏を中心に、専門分野の制御を、専門職団体の自律に委ねる国が多 い。専門職団体の自律は、もともと、ギルドなどの閉鎖集団の利益を守ることが目的だったが、現在では自律に委ねる方が、結果として、公益を向上させるから だとされている。日本の現状で医療側が自らを律することなく、信頼が得られなければ、法で医療を取り締まろうという意見が再び強くなり、医療の安定的な発 展が阻害される。
日本医師会は、日本の医師を代表する公益法人(社団法人)とされてきた。しかし、医師の自律を担う団体としては全く機能していない。社会に対しては医療 を守る公益団体だといい、勤務医に対しては医療制度を守るために開業医と勤務医は団結するべきだと主張した[14]。実態は、開業医の経済的利益の擁護を 最優先課題とし、二重の代議員制度で勤務医の意見を抑圧してきた。こうしたガバナンスの不備のため、ほとんどの活動が結局は開業医の経済的利益のためでは ないかと見られてきた。
日本では、江戸期以後、政治的影響力を大きくすることと自らの経済的利益を主張することは両立してこなかった。江戸時代、切羽詰まった状況では越訴に よって状況の改善が図られた。越訴では指導者は死罪になり、義民として神社に祭られた。戦後になっても、ストライキは日本では不人気で、社会に許容されな かった。
戦国時代の恒常的な飢饉に対応するために発生した農村共同体の生存戦略と、享保、寛政、天保の三大改革などの歴史的積み重ねは、質素・倹約を日本人に刷り込んだ。
医師は社会の少数派であり、金銭に関わりなく妬みの対象である。大同団結をして利益を主張するとかえって社会の反発を招く。日本医師会はこれまでの失敗 に学んでいない。小選挙区制では選挙結果の振れ幅が大きく、ポピュリズムを強める。日本医師会がこれまでの方針を継続することは自殺行為に等しい。日本医 師会が現在の混乱を脱して未来を切り開くためには、構図を一変させる大戦略が必要である。
法律も日本医師会に大きな変革を迫っている。2008年12月1日、公益法人制度改革三法が施行された。2013年11月30日までに日本医師会は、公 益社団法人か一般社団法人に移行しなければならない[15]。新しい公益社団法人は、不特定多数の利益の増進(特定の個人や団体ではない)に寄与し、会計 を含めて活動が社会から監視でき、公平な参加の道が開かれ、社員は平等の権利を有し、特定の個人の恣意によって支配されないものとして設定されている。現 在の日本医師会は、組織形態、活動内容を大変革させない限り、公益社団法人に移行することはできない。開業医の利益のための活動を残すのならば、一般社団 法人を選択するしかない。
私は、日本医師会が公益法人制度改革の理念を全面的に受け入れること、日本医師会を3つに分割すること(日本医師会三分の計)を提案した[16]。開業 医の利益を代弁する団体、勤務医の利益を代弁する団体、そして、最も重要なものが公益のための医師の団体である。新しい医師の公益法人は、医療の質向上の 努力、すなわち、患者の権利の擁護、医師の適性審査、自律処分、質の評価による医療の底上げなどを担う必要がある。しかし、適性審査や処分制度は、両刃の 剣であり、医療提供体制の脅威にもなりうる[17]。
裁判所が立法、行政から独立しているのは、権力の横暴を防ぐためである。刑事裁判の重い手続きは、基本的人権を守るためである。自律処分では、裁判所と 異なり、処分を下すための手続きの正当性を担保するのは難しい。医師は人権についての実務的知識が乏しい。その分、権力をもった医師は、検察官・裁判官よ り危険である。重い処分が必要な悪質例はこれまでどおり、裁判所に任せるほうが、害が少ないかもしれない。裁判所の判断に問題があるのなら、現場で医療を 担っている保守本流の医師が、現場の実情を伝えて、裁判所の判断を支えるべきである。このような活動を、公平性を担保しつつ、手助けするのも、新しく創設 されるべき医師の公益法人の役割であろう。
日本医師会は、理念からの演繹で自律制度を設計しようとする動きがあることにもっと敏感になるべきである。大衆受けする正義が理念として振りかざされる と、しばしば、社会制度が破壊される。本気で対応しないと、無茶な制度で医療提供体制が脅かされる可能性もある。医師の自律の方向付けが、厚労省と学者の 共同作業であるとすれば、学者の意図に関わらず、自律処分が、処分される立場の医師自身によるものではなく、厚労省と学者がリードするものに変質すること が容易に想像される。
【実情に基づく医療政策】
GMCでは主たる活動とされていないが、医療を適切なものにするためには、実情の正確な把握がなにより重要である。これは医療政策を無理な規範ではな く、実情に基づいて立案させるためである[18]。このために、医療についての情報の収集と提供を医師の公益法人の活動内容に含める必要がある。具体的に は、厚労省の持っているあらゆる情報を研究者が使えるようにしなければならない。
現状では、厚労省の政策の根拠が実情より規範に偏っている。日本の新型インフルエンザへの対応は、規範優先で現実に基づいていなかった。世界の専門家の 間で無意味だとされていた水際作戦を強行した。意味のない停留措置で人権侵害を引き起こし、日本の国際的評価を下げ、国益を損ねた[19]。
実際の作業でも、医療現場のガウンテクニックの原則を無視して、防護服を着たまま複数の飛行機の機内を一日中歩きまわった。参加した看護師の一人は、ガ ウンや手袋の使い方を見て、唖然とした。検疫の指揮を執った担当官に、非常時だから、医療現場の常識と異なっても黙っているように言われたという。彼ら も、水際作戦が役に立たないことを知っていたのではないか。インフルエンザの防止ではなく、義務を果たしたというアリバイ作りが目的だったのではないか。 言い換えれば、現実より規範が医系技官を動かしたように見える。
関西圏での新型インフルエンザの発生で「舞い上がった」担当者たちは、実質的に強制力を持った現実無視の事務連絡を連発し、医療現場を疲弊させた。行政 発の風評被害で、関西圏に大きな経済的被害をもたらした。診療報酬のような数字が決定的意味を持つ場面でも、必ずしも情報を活用していないらしい。診療報 酬がデータではなく「勘と度胸」で改定されたと、ある研究者に揶揄されたことがある。
医療制度と医療提供に関する研究の援助も医師の公益法人の重要な役割である。厚労省の医療行政に関わる研究を、厚労省の援助と影響下に行うことは適切でない。
日本医師会は歴史的には、厚労省を監視する機能を有していた。形骸化していたが、この役割の消滅は、厚労省の問題点の増大につながりかねない。厚労省に 対するチェック・アンド・バランスの役割を継承し、発展させる必要がある。社会に、厚労省の行動とその意味内容を発信することは、医療提供体制を適切に保 つのに重要な役割になる。
情報は大きな力になる。日本特有の医療機器の高価格を是正するのに、売買の実態を世界規模で明らかにできれば、医療機器の値段を下げろと主張するより、 はるかに役立つ。新しい公益法人は政治的主張をせずに、判断材料の提供に徹するべきである。最近の動きは、大きな圧力団体の単独の主張より、さまざまな団 体や個人がそれぞれのやり方で、ばらばらに、あるいは、同時多発的に、行政ではなく政治家に対して働きかける方が有効であることを示している。無理な政治 的主張は反作用を生み、組織の自由度と存立を損ねる。日本医師会が医療事故調査委員会の厚労省案に賛同したことは、現場の医師の反発を生み、日本医師会の 動きを制限し、日本医師会の存立そのものを危うくした。
【新組織に向けて】
2009年8月30日の総選挙による政権交代で、日本医師会の唐澤体制は、政治的影響力を失った。日本医師会の役員は中医協の委員から外された。日本医 師会の現執行部は、公式には、従来の組織形態を実質的に温存したまま、公益社団法人に移行することを表明している。将来展望を欠く無謀な方針であり、社会 と医師の利益を大きく損ねる。無理をして最終段階で移行に失敗すると、2013年11月30日をもって、日本医師会が消滅する可能性もある。2010年4 月に従来の方法で選挙される次期日本医師会長が、公益法人制度改革に対応することになる。日本医師会の改革を目指す医師にとって、次期日本医師会長が、新 しい医師の公益法人設立に向けて、対峙、交渉、あるいは協力すべき相手となる。09年7月、勤務医の団体として、全国医師ユニオンが労働組合として認定さ れた。日本医師会は、開業医の利益団体、日本の医師を代表する公益団体に分割すればよい。新しい組織の定款が改革の表現となる。
日本医師会三分の計に対し、ある知人が開業医と勤務医の二項対立の形になるのではないかとの危惧を示した。しかし、勤務医は従来の日本医師会と対立して いるのであって、開業医と対立しているのではない。私の提案する新たな公益法人ができれば、開業医と勤務医の対立という日本医師会が示唆してきた発想は雲 散霧消する。開業医は自営業者として自らの利益を主張する団体を形成する。これは議会制民主主義では当然のことである。一方で、勤務医は被雇用者であり、 その利益団体は、労働組合的なものになる。しかも、雇用者は開業医ではない。医師の性癖から、勤務医の利益団体はできたとしても、小さなものにとどまる。 開業医の団体と勤務医の団体の規模や性格が異なりすぎて、争いの場が成立せず、二項対立にはなりようがない。
勤務医と開業医の対立という発想が消滅するもう一つの理由は、別の中身のある対立が表面化することによる。人間の営みには国際関係のように必ず対立を伴 う。学会の指導層と現場の医師、大病院と中小病院、私立病院と公立病院、病院経営者と医師など対立軸の候補は多い。中でも、日本の医療における最も重要な 対立軸は、規範を振りかざす厚労省と、実情と科学を根拠にする医師の対立である。日本医師会を大改革することで、この意義深い対立軸を浮き立たせることが できる。
日本医師会が公益法人を目指すことを放棄して、一般社団法人を選択する可能性もある。この場合、勤務医を参加させるための大義名分がなくなり、日本医師 会は開業医の利益団体になるしかない。日本の医療は日本医師会抜きに動き始める。日本医師会がそのまま一般社団法人に移行するのならば、開業医、勤務医に 限らず改革を目指す医師は、自分たちで新たに公益法人を設立しなければならない。定款の作成、医師の結集の手順など準備しておくべきことは多い。
日本医師会に勤務医が本格的に合流して新たな公益法人を作った場合、公益法人制度改革三法に従えば、理事は社員(会員)の選挙で選ばれ、代表理事(会 長)は理事の互選で選ばれる。勤務医と開業医で役員を分け合うことになる。この段階で方針を巡って争えば組織として活動できなくなる。その前に、議論を尽 くして、合意に達しておく必要がある。新しい公益法人が、外部に向かって意見の集約に問題のある政治的主張をしないこと、とくに個別診療報酬に関する主張 をしないこと、自律と情報集配に徹することさえしっかり押さえておけば、対立は生じない。
新しい公益社団法人への医師の結集が挫折した場合、弁護士会型の強制加入団体を法律で作ることもありうるが、制度が重く、変更しにくいものになる。自律という観点からも必ずしも望ましいことではない。ただし、その可能性を排除すべきではない。
【現実的対応を】
日本医師会の指導層の責務は、ソフトランディングで日本医師会を社会と医師の双方にとってメリットがあるような形に移行させることである。現在の状況を、危機ではなく、医療を良くするためのチャンスととらえるべきである。
指導層が行うべきことは何か。まず、これまでの日本医師会の活動を振り返る必要がある。その上で社会全体からみた日本医師会の位置づけを考える。最も重 要なのは徹底した損得勘定である。主義主張を抜きに、日本医師会の取りうる選択肢をすべて並べてみる。その上で、日本医師会にとっての損得を、それぞれの 選択肢ごとに検討しつくす。現在の日本医師会の何を残したいのか、何を残せるのか、それはどのような意味があるのか、残す場所をどこにするのかを冷静に判 断する。
最後に、判断の根拠を示しつつ、慎重な演出で会員の合意を形成しなければならない。
私は、日本医師会の改革が医療再生に不可欠だと確信している[12]。学者の危うさを制御するのに、地に足のついた郡市医師会会員の力が必要である。従 来の対立関係は、認識と対応の幅を広げるための最良の機会を提供する。認識が変われば、対立関係は協力関係に一変する。歴史は過去に事実を残しつつ、未来 に向かって常に動いていく。日本医師会は実在しており、未来への前提であることは間違いない。壊すべき前提になるのか、生かすべき前提になるのかは今後に かかっている。
* 本稿は『日本臨床麻酔学会誌』Vol.30, No.7に掲載されたものです。
<文献>
[11] 小松秀樹:司法と医療 言語論理体系の齟齬 ジュリスト 1346, 2-6, 2007.12.
[12] 小松秀樹:日本医師会の大罪. MRIC by 医療ガバナンス学会 メルマガ臨時 vol. 54, 2007年11月17日. http://medg.jp/mt/2007/11/-vol-54-2.html
[13] 小松秀樹:医療事故調 対立の概要と展望. 医学のあゆみ, 226, 630-635, 2008.
[14] 今村聡: 小松秀樹医師よ、ともに戦おう. 中央公論, 124(1) , 186-193, 2009.年1月号.
[15] 小松秀樹:公益法人制度改革がもたらす日本医師会の終焉. 中央公論, 123(9), 50-59, 2008年9月号.
[16] 小松秀樹:医師会、病院団体、各学会の役員は歴史を動かす覚悟を. 日本医師会三分の計. MRIC by 医療ガバナンス学会 メルマガ臨時 vol. 124, 2008年9.月12日.
http://medg.jp/mt/2008/09/-vol-124.html
[17] 小松秀樹:医師の適性審査と自律処分制度を導入せよ. 中央公論, 124(3), 198-205, 2009年3月号.
[18] 小松秀樹: 「医療再性のための工程表」義解. 月刊/保険診療, 63, 97-103, 2008.
[19] 小松秀樹:新型インフルエンザに厚労省がうまく対応できないわけ. MRIC by 医療ガバナンス学会 メルマガ臨時 vol. 129, 2009年6月5日. http://medg.jp/mt/2009/06/-vol-129.htm
2010年12月11日 MRIC by 医療ガバナンス学会