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歴史認識 東と西

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前稿(「世界を徘徊する『歴史認識』と言う名の妖怪」戦略検討フォーラム、2015,8,28)では、「日本の歴史家を支持する声明」と題する、アメリカの学者を中心とする187人の「日本研究者」が日本の歴史家に宛てた文書の批判的検討を行い、この文書は「アメリカ例外主義」と呼ぶべき偏見に満ちた文書であることを指摘しておいた。
ここで、「アメリカ例外主義」というのは、「アメリカは神様から世界の国々を支配する使命を与えられているから、世界の中で一番上位の国だ」、「だから、アメリカは世界を支配するという特別の権利を与えられており」「相手の国にとってもそれが喜ばれるのが当然」というアメリカ人の思い上がった考え方のことである。
国民性というものは、そう簡単に決めつけるわけにいかないが、近頃のアメリカ社会を観察していると、多くのアメリカ人にこのような考え方が根強く存在していることは否定し難いように感じられる。
但し、筆者が過去半世紀余の間に親しくなったアメリカ人は、大半が法曹関係者と学者だから、圧倒的にユダヤ系が多く、少数のアフリカ系とアイリッシュ系がいるという偏った人種構成だからか、個人的にはこのような「アメリカ例外主義」をそれほど露骨に感じさせられてきたとは言えないように思える。「声明」に名を連ねている187人の中にも何人かユダヤ系がおられるが、彼らのこれまでの印象と、この「声明」の基本的トーンにはどうしてもギャップが感じられて仕方がない。
前稿では、この「声明」に名を連ねている学者の多くがアメリカの大学に所属しているところから、取り敢えずこの「声明」の基本思想の特質をアメリカ人の日本観の特異性から考えてみたが、「声明」に名を連ねた人の中には、カナダ、日本その他に加えて相当数のヨーロッパの大学等に所属する人もおられる。そこで本稿では、筆者が60年余に亘る国際的活動の主要部分を占めているヨーロッパの国々、とくにイギリスとドイツを中心とした西欧の人々の日本に関する歴史認識の特質を検討することとする。
交友関係から見たイギリス人の歴史認識
187人の中で、嘗て最も親しくしてきたのは英国人のロナルド・ド-アさんだが、彼との交流は多分1970年頃からで、忘れもしないのは71年5月にILOの会議でジュネーブを訪れたついでに、当時教えておられたエセックス大学の彼のクラスで「日本の労使関係における法の役割」というタィトルで講義をさせて頂き、日本から持ち帰られた畳敷きの部屋のあるお宅にお邪魔して以来、各地の国際会議などで屢々顔を合わせる仲であった。彼の場合、年齢が五つも違う先輩ということもあり、全く対等の付き合いではなかったが、専門領域の労使関係については対等に議論が出来る人であった(一例をあげると、「日本経済のグローバル化と労使関係の将来」と題した約2時間余にわたる一対一の対談の記録が、残っているが(日本労働研究雑誌444号)、ここでは日本の終身雇用制の評価に関し、どちらかと言うと否定的な筆者と肯定的な彼とほぼ対等の立場で議論が行われている)。
ドーアさんは、ここで改めて述べるまでもなく、外国人の中では戦後の日本研究の専門家としては、パイオニアであると共に第一人者に外ならず、古典的名著とされる『イギリスの工場・日本の工場』初め数々の著作を通じ、日本社会の分析に関するエンサイクロペディストといった存在であり、彼のような優れた研究者が、何故このような無責任な「声明」に名を連ねたのか理解し難いというのが筆者の正直な感想に外ならない。
ドーアさんほど高名ではないが、やはり1960年代の後半から長年に亘って親しく接してきた多数の日本研究者の中でも、極めて実証的で本格的な研究を地道に続けてきたRobert E.Cole(U.C. Berkeley労使関係論)、SusanJ.Pharr(Havard女性問題)やRichard H.Mitchell(Missiouri-St.Louis政治学)といった人々の名がこの「声明」の署名者の中に見当らないのがせめてもの慰めである。
ドーアさんと同じイギリス人で、彼と違って「日本研究者」ではなかったから、当然ながら今回の「声明」には名を連ねることはなかったが、筆者と同じ労使関係研究者で、長年に亘ってより頻繁・密接に仕事をして来た仲間の一人にBob Heppleという異色の人物がいた。彼は1934年に南アフリカで生まれ、学生運動、南ア労働組合会議のリーダーとして反アパルトヘィトの地下運動に携わり、若くしてマンデラの地下運動のための弁護士として活動、1963年に指名手配を受けたため、妻と2人の幼児と共に、ANC(アフリカ民族会議)の地下ルートを通って命からがらイギリスに亡命し(一昨年、この逃避行の一部始終を記述したYoung Man With a Red Tie: A Memoir of Mandela and the Failed Revolution,1960~1963と題する書物を出版し話題を呼んだ)、以来イギリスに定住しケンブリッジ大学で教職に就き、同大学に労働法・労使関係の学際研究大学院を設立、イギリスのこの分野の第一人者とされていた。
筆者が、ベルギーのル―バン大学のRoger Blanpainらと共に結成した比較研究グループの常連として、80年代、90年代に世界各地で頻々に開催したシンポジュゥムやワークショプで討議に加わって貰い、このグループが著した10冊程の共著にも執筆をして貰うという関係であった。
Bobはイギリス人とはいえ、このような異色の経歴の持ち主だからか、筆者以外全員が英米独仏伊白瑞などの西欧出身者の中で、非西欧も西欧も関係なく、互いの国籍などにも関係なく、ひっきりなしに冗談を言いながらながら、談論風発、侃々諤々の会合の中で、彼一人は英国紳士風の上品な物腰を崩すことなく、時にふざけまわる我々を笑顔で見守っているのが常であった(この為筆者は長い間、彼は我々より年長と錯覚していたが、本稿の執筆直前に急逝され、8月26日付けのGuardian紙に長文の追悼記obituaryが掲載され、良き友人の逝去を悲しむと同時に、この記事で始めて筆者より4歳も年下だったことを知って驚いた次第である)。
以上、Bobについてつい長々と書いてしまったが、これは西欧の学者の中でも、非西欧の人間を見下すような視線が全くなく、労働問題の国際レベルにおける東西対立が最も鮮明に浮かび上がった以下のエピソードにおいて、Bobの果たした役割のユニークさによるからである。
西欧発の国際規範の普遍性を疑う
国連の付属機関として1919年に設立されたILO(国際労働機関)は、1994年に創立75年を記念して、世界各国から75人の有識者を選んで労働分野における社会的正義の問題についてのILOの役割に関する論稿の執筆を依頼し、Visions of the Future of Social Justice(邦訳『社会正義の将来展望』)と題する記念論集を出版した。この論集によせられた論稿の多くは、ILOが世界の労働者の福祉のために果たしてきた輝かしい業績を讃えるといったお座なりのものであったが、この中で筆者のものを含むアジアからの3本の論稿が、これまでのILOの役割は必ずしも途上国の労働者の利益の増進に役立って来なかったという趣旨の問題提起を行って注目を集めた。この3つの論稿は、当時のマレーシァ首相のマハティ-ル・ビン・モハムド、インドの女性自営女性協会事務局長エラ・R・バット女史と筆者のものであった。マハテイールは、「西欧諸国の労働組合の扇動」によって途上国の生産性は阻害され経済が打撃を受けたとし、「ILOはその目的を修正すべし」と主張し、バット女史は「インドでは労働者の93%が家内生産、零細企業、請負労働に属し、労働組合とは全く関係がない」とし、インドの労働組合の代表を労働者の代表と認めているILOの三者構成主義の虚偽性を指摘していた。筆者は、バット女史の指摘した三者構成主義と並ぶILOの基本原理とされている加盟国の実情を無視して一律の労働基準を適用しようとする普遍主義の原理の虚偽性を批判しておいた。
Bob Heppleは、前記の筆者ら比較法研究グループの一員であるフランクフルトのJohann Wolfgang Goethe大学のManfred Weiss教授と共に、西欧の学者の中では例外的に、西欧主導の普遍主義と三者構成原理の虚偽性に対し、筆者と同様の疑問を提起していた。このWeiss教授は、ドイツ人の中では群を抜いてグローバルな視点を持って、今でも世界中を飛び回って活動を続けている。
この二人が深くかかわり、筆者も僅かながら貢献したことのあるプロジェクトとして、1990年にネルソン・マンデラが長期の監獄生活から解放された後、新しい国作りに備えての法整備事業の一環として、主要国の労働法のエクスパートを南アに招聘して一連のワークショップを91、92年に開催したことがあった。筆者はこの事業の一環として1991年1月と10月にそれぞれヨハネスブルグとケ-プタウンで一週間づつ20人ほどの現地法曹関係グループに、日本法の講義を行うという貴重な経験をすることが出来た(このグループはただ一名のアフリカ系の弁護士を除き全員白人で、圧倒的多数がオックスブリッジ卒のローヤ―達であった)。
このように筆者はたまたま、イギリス人でもドイツ人でも、西欧の非西欧に対する上から目線で、正義と人権への特有の思いこみによる思考停止に陥っていることのない、素晴らしい仕事仲間=友人に恵まれたと言えるが、多くは国際的に活動している学者や法曹関係者であり、上記のお二人もイギリス人としては例外的な人達だったのかも知れない。
大英帝国のアジア観
改めて言うまでもなく、イギリスは西欧の中でも早くからアメリカ大陸とインドを初めとするアジア各地に侵略、着々と植民地を建設してきた帝国主義の元祖である限り,前稿で指摘したアメリカ例外主義と同様の偏見をイギリス人も共有することは当然だと思える。幸いにしてこの大英帝国のエリート達がどのような目でアジアの国々を見てきたかを、豊富な資料を駆使して考究した東田雅博富山大教授の『大英帝国のアジアイメージ』と題する優れた研究書が、主として1850年代の文献を資料として、ヴィクトリア時代にまで遡って英国人のアジア観を詳細に記述しているので、以下にその一端を紹介することにしょう。
1.1850年代のイギリスでは、日本に関する論文は6編に止まるが、その何れもが「アジアはヨーロッパに比べ明らかに文明において劣る」という前提に立って、「こうした低劣な文明状態を示すアジア人種の中では、日本人は最高の人種であり」、「極めて賢明なので、ヨーロッパの進歩が日本よりも全面的に優越していることをよく認識しており」「政府はともかく、日本人には『変化の準備』が出来ている」としている。
2.この意味で日本はアジアの中では「特異な存在だ」とされ、「他のアジアの国々、特に中国と比較し、極めて優れた文明、社会を持つ国として」描かれる。中国については、「悪臭に満ちた街、服装や住居の色の俗悪さ・けばけばしさ、冷酷な人種、乞食の多さ、上流階級の見栄や贅沢、等々が指摘される」のに対し、「日本人と中国人とは皮膚の色、衣装、習慣において類似性が認められるが、この両人種は、肉体的にも、精神的にも大いに異なる」とされている。
3.日本の上流階級はレベルが高く、侍は「ダンディズム」を示し、有能であり、ジェントルマンである。また、婦人の社会的地位が高く、若い女性は「全般的な美しさ」を示している。
4.このように日本、日本人に対する評価が、贔屓の引き倒しとも思えるほど、中国に比べて極めて高いのは、この時代に日本人がヨーロッパ文明の優秀性を認め、それを熱心に採用しようとしていたのに対し、中国人は(恐らくはその伝統的中華思想に基づいて)頑迷に、ヨーロッパ文明の優秀性を否認するという態度をとっていたことによることが、明らかにされている。
このようなアジア観からみると、大英帝国の後発国に対するものの見方は、結局のところ自分達の優れた文明の尺度、自分達の優れた文明を受け入れようとする対象国の努力の如何という尺度に規定されていることが明らかになって来る。自分達の文明の尺度から学び、これを模倣しようという意図の存否、模倣の姿勢、その進捗度などによって非西欧国に対する評価が決まるということであり、これは大英帝国に限らず、その係累たる他の西欧諸国の人々の途上国に対する評価基準も、多かれ少なかれ似たり寄ったりものになっているということである。
この模倣が成功し、挙句の果てには、本家の西欧文明を凌駕するということにでもなれば、許し難いということになる筈だが、中には例外的に物好きか、度量が広いのか定かでないが、途上国に興味をもってこれに対する研究を専門とするという毛色の変わった西欧人の一部には、鷹揚にこれを賛美する人もいて、こういう奇特な人が「親日家」として、日本社会で持ち上げられることになる。
多かれ少なかれ西欧に対するコンプレックスを抱えている多くの日本人、特に日本のメディアなどは、西欧人の評価に対する関心が過剰であり、否定的評価であればインフェリオティ・コンプレックスを擽られ、褒められればスーペリオリティ・コンプレックスを刺激されて舞い上がるから、Japan as Number Oneなどと言われれば、完全に舞い上がってベストセラーが生まれることになる。
親日家の嫌日家への変節の必然性
日本国、日本人が西欧の基準に基づく指図、勧奨に従っている限り、彼らは熱烈な親日家であるが、一寸言うことを聞かなくなると、嫌日家に変貌したりする。その典型的実例が何と、筆者が戦後の日本研究者の第一人者として最も信頼に値する学者として尊敬してきた他ならぬドーアさんだと言えば、大方の読者はどう思われるだろうか?恐らく大半の方は、ドーアさんに限ってそんな筈はないと思われるだろう。「落語までよく理解されていたドーアさんに限ってそんなことはない」というのが、10人中9人までの反応である。
ところが、昨年11月末に発行された『幻滅 外国人社会学者が見た戦後日本70年』と題する彼の著書に目を通された方はご存じの通り、この本のカバーに付された広告文には「『親日家』から『嫌日家』へ!?」という文字が大文字で記載されている。公告は著者の執筆によるものではなく、出版社が書いたに過ぎないだろうが、ドーアさんの日本に対する幻滅の経過を述べた部分を読んでみれば、幻滅の理由はどうやら小泉内閣以来の「新自由主義化、アメリカ化、階級社会への傾斜」、会社における「従業員主権」から「株主主権」への転換、などの政策転換などとされる、我が国の国のあり方に関する政策転換によるものである。
これは、我が国の終身雇用制の積極面を評価し、株式会社制度に関するアングロサクソン型と独日型を対比させ、後者を肯定的に評価する彼の持論に立脚したものであり、先にふれた筆者とドーアさんの対談の中心的争点でもあったところであるが、これが単なる政策論の対立に止まらず、親日から嫌日への転換につながるという思考様式は、東田教授の提示するヴィクトリア王朝以来の伝統的大英帝国のアジア観そのものに外ならない。
歴史認識の東と西の図式に基づいて考えれば、アメリカ例外主義と共通の上から目線の価値判断によって、アジアの国々を指導するというスタンスに立ち、対象国とその国民がその指導を受け入れる限りは、その国の理解者として振る舞い、指導が受け入れなくなれば途端にこれを忌み嫌うと言う姿勢で対象国と関わるとすれば、これが本人の善意に基づくか、肥大した自己認識の結果としてのarroganceの産物かに関係なく、何れにせよ学問としての客観性とは程遠い、情動的な認識を結果することになりかねない。
ドーアさんの場合は、彼の持論である「従業員主権」の日独型株式会社こそが、「株主主権」のアングロ・アメリカ型の株式会社に対して優位性を持つという長年に亘る主張が、我が国で崩れつつある現状から、日本への失望感を抱かせることになったようだが、その是非はともかく、日独型資本主義の優位性の喪失の予感はあまり表出されているとは言い難い。
加えて、たまたまごく最近唐突に浮上した東芝とフォルクスワーゲンといった日独型資本主義の最も代表的とされる2大企業の相次ぐ醜態は、彼の『幻滅』の予見性を示しているように見えないこともないが、筆者としては、両社の醜態はむしろ「従業員主権」というよりは、大企業・終身雇用・企業別組合という三種の神器に例えられる相互癒着を基本とする日本型経営と、ドイツの場合は同じく大企業と産別組合という特権的労働者の癒着による移民労働者を中心とする非正規労働者を犠牲にするドイツ型労使協調を基本とするドイツ型経営の、形こそ違え共通する労使協調という腐敗菌の温床で花咲いたあだ花の末路と評価さるべきであり、このドーア教祖ご推奨の資本主義は、彼により切って捨ててこられた株主主権を基本とする英米型よりも格段に勝ると言い切るのには。かなりの疑問がのこるところであろう。

以上で、戦後日本研究のリーダーとして長い間君臨してきたドーアさんの「嫌日家」への転向を悼みつつ、イギリス人の日本観と歴史認識の検討を終わり、次稿以降では、ドイツ人の歴史認識の検討を取り上げることする。

ドイツ人の歴史認識については①カール・ヤスパースの「責罪論」に象徴されるような戦争責任の理論的追及という思想史的背景と②ナチスの暴虐に焦点を絞った戦後ドイツの戦後賠償の限定という国際政治の次元におけるトリックという二つの論点を中心として、ドイツと日本の戦争責任の実態を対比しつつ検討するつもりである。

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