Home»連 載»歴史シリーズ»「我が国の歴史を振り返る」(72) 「サンフランシスコ講和条約」締結と主権回復 

「我が国の歴史を振り返る」(72) 「サンフランシスコ講和条約」締結と主権回復 

0
Shares
Pinterest Google+

▼はじめに

 私的なことで恐縮ですが、私は1951(昭和26)年4月8日の生まれです。「サンフランシスコ講和条約」や「日米安全保障条約」の締結は、偶然にも私が生まれた年のできごとでした。当然、当時の状況を覚えているわけはありませんが、歴史を探求し続け、1951年に近づくにつれて、これまでとは違った“愛着”のようなものが沸いている自分に気がつきました。

同じ歳の作家の浅田次郎氏は、「歴史を学ぶことによって、今ある自分を知る」として「自分の『幸・不幸』はいったいどのような経緯をもって自分が背負うことになったのか」、つまり「自分の座標を確認する」ために「歴史を学ぶ」と説いております。

長い旅でしたが、ここまで来て私自身もようやく「自分の座標」を確認出来つつあるような気になっています。ここから後、つまり1951年以降は、私にとりましては、幼少時代を含めて自分の人生そのものであり、「歴史」の範疇を超えるものと考えています。

このことが「サンフランシスコ講和条約」などの締結をもって「我が国の歴史を振り返る」の最後のテーマとする理由の1つでもあります。ご理解いただければ幸甚です。この後は数回にわたり、「我が国の歴史」を総轄しようと考えています。もう少しお付き合い下さい。

▼「米比相互防衛条約」「アンザス条約」締結

第1次日米交渉を終えたダレス一行は、その後、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドを訪問しますが、フィリピンでは賠償放棄の原則に対する不満、オセアニアの2国では、日本の再軍備に対する警戒感から軍備制限条項の挿入と米国による安全の保証を強く求める意見が出されます。

日本の再軍備を実現したい米国は、オーストラリア・ニュージーランド・米国の間で集団安全保障条約(アンザス条約)を締結することを約束することで日本の軍備制限を求める要求を撤回させます。そして実際に、サンフランシスコ講和会議が開催される直前の1951年8月30日にフィリピンと米国の間で「米比相互防衛条約」、9月1日に「アンザス条約」がそれぞれ調印されます。

こうして、トルーマン政権内で構想された太平洋地域の集団安全保障条約は、上記2条約に「日米安全保障条約」を加えた「3本立て」となりますが、背景に、日本の再軍備に対する近隣諸国の不安があったことは否めませんでした。

ダレスの帰国後、国務省は、米英間でそれぞれの条約案の相違点の調整を実施します。調整は手間取りましたが、内容的には米国側が押し切ったような形で共同草案がまとまります。

▼サンフランシスコ講和会議の召集・条約調印

 共同草案をまとめあげた米英は、共同主催国となって、1951(昭和26)年9月4日、サンフランシスコで対日講和会議を開催することを決定、7月20日、共同草案とともに55ヶ国に招請状を発送して8月13日まで各国の意見を集約することをめざします。

しかし、「日中戦争」として日本と戦った中国及び南北朝鮮に対しては発送されませんでしたし、ベトナムも南ベトナムのバオダイ政権に招聘状が送られ、ホーチミン政権は無視されました。

インドは、“中国やソ連と講和条約を締結する道が失われる”として米英共同草案に反対して欠席し、ビルマ、インドネシア、フィリピン、パキスタンなども賠償問題に対する強い不満から欠席します。

ただ、ソ連は、米英の予想に反して出席し、総会において修正案を提案します。それは、①南樺太・千島列島に対するソ連の主権承認、②すべての連合軍の撤退、外国軍基地の不設置、③民主化条項の挿入、④日本の軍備制限(陸軍15万、7.5万トンの海軍、戦闘機200機、原子力兵器の保有禁止など)などを骨子としていました。

講和会議を“交渉の場ではなく、調整の場”と位置付けていた米英側は、あらかじめ修正提案の提出を禁止しており、各国代表の発言も1時間に制限する議事規則を多数決で決定し、ソ連の修正提案を検討する機会を与えませんでした。

こうして、米英共同草案を基調とする講和条約は、9月8日、ソ連・ポーランド・チェコ3国が欠席する中、参加49ヶ国によって調印されました。また同日、「日米安全保障条約」も調印されました。

なお、これまで触れませんでしたが、講和条約の第5条には「日本が主権国として国連憲章第51条に掲げる個別的自衛権または集団的自衛権を有すること、また、日本が集団的安全保障取り決めを自発的に締結できる」と記載されていることを付け加えておきましょう。

さて、ついに達成した「サンフランシスコ講和条約」の署名式で、吉田首相は「この条約は公正にして、史上かつて見ざる寛大なもの」と演説しますが、途中で読み飛ばして全部は読まなかったといわれます。発言は占領軍と調整済みで、「自分が心血を注いで書いた文章であったなら、読み飛ばすはずがない」として岡崎久彦氏は「吉田の占領期最後の屈辱的なパフォーマンスだった」と解説しています。

しかし、それで終わりではありませんでした。前回も述べましたが、占領政策の後遺症は今も続き、多くの日本人は、この時の吉田首相が選択した結果として、精神的混迷の中にもがきつつ生き抜くことを余儀なくされます。その傾向は国防論議において特に顕著でした。

のちに日本は、署名はしたが議会で批准されなかったインドネシアをはじめ、中華民国、インドとの間で個別に講和条約を締結・批准しています。また、ソ連とは1956年、共同宣言を合意し、国交回復しますが、依然として、北方領土問題が未解決のために講和条約は締結されていません。

韓国とは1965年、日韓基本条約を締結し、国交を結びます。また、中華人民共和国との間では、1972年、日中共同宣言で国交を結び、のちに日中平和友好条約を締結して共同宣言の内容に国際法上の拘束力を与えました。いずれも領土や歴史に絡む問題などの争点は残したままでしたので、今日に至るも解決していません。

▼「サンフランシスコ講和条約」総括

改めて「サンフランシスコ体制」の歴史的性格については振り返る必要はないと思いますが、今回、「サンフランシスコ講和条約」締結に至る経緯や条約内容などは、『講座 日本歴史』(歴史学研究会・日本史研究家編集、東京大学出版会)から、“史実と思わしき部分のみ”を参考にしました。

しかし、本書に記載されている歴史の解説から時々垣間見える“史観”は、正直、個人的には受け入れられないものばかりでした。そのはずです。本書の歴史研究家達は、吉田首相から「曲学阿世」と批判された南原総長の“末裔達”なので、吉田首相よりさらにリベラルな論陣を張っています。

この分野もヒエラルキーのトップに君臨する東京大学において、このような書籍に何の疑問を持たずに歴史を学び、その歴史観を刷り込まされた“秀才達”が日本各地に分散し、各界のリーダーになっているのか、と改めて歴史教育の実態とそこで教育された人達に思いが至ることでした。

加えて、歴史研究の“正統”はあちら側にあり、こちら側が「歴史修正主義」あるいは“異端”なのかと、改めて“己の立つ位置”(視座)を考えさせられました。この続きは最後に総括しましょう。

▼主権回復

 1952(昭和27)年4月28日、「サンフランシスコ講和条約」と「日米安全保障条約」が発効し、日本は、6年8カ月に及ぶ連合国の占領から開放され、晴れて主権を回復します。

この歴史的節目の主役となって我が国をけん引した吉田茂首相は、自書『日本を決定した百年』の冒頭で、「日本は太平洋戦争という大失敗を犯したが、全体としては激しい国際政治の荒波のなかを巧みに舵をとってきた。それは日本人のすぐれた『勘』のたまものだ。特に明治の指導者たちは優れた『勘』をもっていた。だから、私はことあるごとに『勘』の必要を説いてきた」として、あたかも「当時の選択は自らの『勘』を働かせた結果である」と言いたげに語っています。

確かに吉田は、「全面講和」を唱える知識人やマスコミからは「反動政治家」「米帝国主義に追随する売国奴」といったレッテルを張られながら、自らの「勘」で「単独講和」を推進しつつ、一方では再軍備制限を選択し、結果として戦後復興や経済発展も成し遂げました。

個人的には、「主権回復直後こそ憲法改正の好機だった。それを実現しなかったのは吉田茂という政治家の本質だ」と考えますが、当時の状況から“時期尚早”との「勘」が働いた結果なのでしょうか。

上記自書には、「日米安保条約の将来はどう思われるか」との質問に対して、吉田が「条約などは一片の紙切れに過ぎない。当時、あれが最善と考えたから条約を結んだ。将来のことは将来の世代が決めるべきことだ」と真剣に答えたとの記述があります。

吉田学校の“生徒達”は、あまりに米軍による保護協定的な性格が強かった日米安全保障条約(旧安保)を、激しい安保闘争の中で強行採決によって、より共同防衛に近い形に改正はしました(1960年)。しかし、憲法の制約があって、依然として「片務条約」(日本側が米国の防衛を担う義務なし)であることには変わりありません。

“条約は一片の紙切れ”といえども、国家の命運がかかっていることは明白です。70年あまり経った現在でも、半ば米国の“配下”にあるような状態を放置したままになっているのはあまりに異常です。現下の周辺情勢が当時の情勢と全く違うことも明白です。憲法が国家の生存のための“足かせ”となるならば、勇気をもって改正に向けて真剣に議論すべきではないでしょうか。

安保改正にさかのぼること5年前の1955年、保守合同で成立した自由民主党は、共産圏に対する防衛力の強化とともに、自主憲法の制定を“党是”として掲げています。以来60年余りが過ぎた現在においても、「勘」を働かせて憲法改正に情熱を傾ける人達が存在する一方、“時期尚早”と足を引っ張る勢力が党内に存在するように見えます。戦後はまだ終わっていないと私は考えます。

「大東亜戦争」総括に向けて

さていよいよ総括に入ります。一般には、「大東亜戦争」は1945(昭和20)年8月14日、「ポツダム宣言」受諾をもって“終戦”となっていますが、これは我が国の解釈であり、現に、終戦記念日あるいは戦勝記念日が各国によって違います。アメリカ・イギリス・フランス・カナダは9月2日、ロシア・中国は9月3日です(ロシアは最近、9月2日に変更しました)。

「戦争とは他の手段をもってする政治の継続」とするクラウゼヴィッツの定義に忠実に従えば、単に“戦闘”を止めた時点をもって“戦争終結”とすることには疑問があります。

クラウゼヴィッツは、“一国家の抵抗力を奪う”ということは、①戦闘力の破壊、②国土の占領、③敵の意思のくじく、ことと解説しています。昭和20年8月時点では、我が国は、戦闘力はまだ相当保有していましたが、武装解除して戦う意思を放棄しました。見た目には、①と③は成立したかのように見えましたが、この時点で完全だったかどうかは、少なくとも連合国側に立てば確証はありませんでした。しかし、②については、沖縄を除き、荒廃したとはいえ国土は未占領のままで、終戦後、連合国の占領によってようやく②が完了します。

クラウゼヴィッツはまた「“敵の意思をくじく”ということは、講和条約締結をもってはじめて成立する」として「講和とともに戦争目的は達成され、戦争の仕事は終わったものとみなされる」としています。

実際に我が国がかかわった戦争の歴史を振り返りますと、日清戦争は「下関条約」、日露戦争は「ポーツマス条約」、第1次世界大戦は「ベルサイユ条約」がそれぞれの“終戦”からさほど間をおかずに締結され、戦争の決着に大きな意味を持ちました。

それに比して、「大東亜戦争」は、終戦後7年弱の占領という歳月を経てようやく講和条約締結まで漕ぎつけました。歴史的には異例です。

これらから、本歴史シリーズにおいては、クラウゼヴィッツの定義に倣い、1951年に講和条約が成立し、我が国の主権が回復した時点まで含めて、「大東亜戦争」の総括を試みようと思います。

なお、「大東亜戦争がいつから始まったか」については各論ありますが、「講和条約までを大東亜戦争とすべき」とする主張を見つけることはできませんでした(実際にあるのかも知れません)。よって歴史の研究として適切かどうかは別として私の独断です。

占領期まで含めて「大東亜戦争」とすることによって、①なぜ占領が7年弱も続いたのか、とか②日米両国の死闘と占領の関係、とか③今日になってもなぜ我が国は占領政策の影響を受けているのか、などについてあぶりだすことが出来、その上で「敗戦とはなにか」「なぜ敗戦したか」などの本質を知るきっかけになると私は考えます。次回以降、詳しく振り返ってみましょう。(以下次号)

Previous post

「我が国の歴史を振り返る」(71) 「サンフランシスコ講和条約」締結への道程 

Next post

米中対立の構図と、「中国のトリセツ」