「我が国の歴史を振り返る」(62) 「日本国憲法」の制定経緯
▼はじめに
正直に申し上げれば、日本史そして世界史の中で「真実らしきこと」を探し出す難儀さと「真実らしい」と確信したことを要約して文章を造りあげる難儀さの両方を味わいながら毎回、悪戦苦闘しております。「歴史の専門家でもないのに、エライことに首を突っ込んだものだ」と自省し、当初は、“事が大きくなる前に断念しよう”とまで考えたことがあります。
しかし、ある時から、押し付けられた歴史教育への反発もあって“真実を求める快感”と“伝える義務感”のようなものを感じ始め、断念することなく回を重ね、戦後の占領政策まで来てしまいました。
本メルマガでも時々引用しております元外交官の岡崎久彦氏は「歴史はその時々の人間と国家が生き抜いてきた努力の積み重ねであり、人間と国家の営みの大きな流れである。その流れの中で戦争も生じれば平和も生じる。その善悪を論じるべきものではない」とあらゆる偏向史観にとらわれず、“史実を忠実に理解する重要性”を説いていますが、全く同感です。
中でも、日本史と世界史に“横串”を入れて、歴史の縦と横の繋がりを重視し、“その時々の営みがなぜそのように行われたのか”を解明していきますと、教えられ、常識になっている歴史とは全く逆の“善悪”が見えてきたりします。
読者の皆様にはそのような真実の歴史の一端を垣間見ていただければありがたい限りです。もうしばらく続けます。お付き合いいただきますよう改めてご理解とお願いを申し上げます。
さて、前回の続きです。マッカーサーは、「WGIP」によって日本人に戦争贖罪意識を培養する一方で、「それだけでは『ポツダム宣言』によって明白にされた、アメリカを主とする連合国が『正義』だったとする戦争観の定着と、トルーマン大統領から指示された『日本が二度とアメリカにとって、世界の平和と安全にとって、脅威とならないようにする』ことを担保するには不十分」と当初から思い込んでいたものと推測します。
その別の手立てこそが、「日本国憲法」の制定をはじめとする日本国の抜本的な改造であり、「東京裁判」だったと考えます。まず、「日本国憲法」の制定を振り返ってみましょう。
▼憲法改正の指示と日本政府の対応
憲法の制定経緯も、振り返りますと魑魅魍魎(ちみもうりょう)としており、にわかには理解できません。GHQ側の意図や証言と日本側の証言に食い違う部分があったり、正確な記録が残っておらず、推測せざるを得ない所もあります。
「日本国憲法」は、昭和21(1946)年11月3日に公布され、翌22(1947)年5月3日から施行されました。
マッカーサーが幣原首相に対して「『大日本帝国憲法』を改正し、民主的な憲法を作れ」と正式に指示したのは、昭和20(1945)年10月11日でしたので、わずかに1年あまりの歳月で憲法が出来上がったことになります。しかも(後述しますが)その原案はGHQによって約1週間でできあがったものでした。
すでに紹介しましたが、明治天皇が憲法起草を命じてから13年、伊藤博文が中心となって起草を開始してから5年の歳月をかけた「大日本帝国憲法」の制定経緯と比較するといかにも拙速だったという印象を持ちます。
さて、憲法改正の必要性については、終戦後まもなく、マスコミや有識者の間で議論されていました。しかし、政府は終戦直後の食糧難等の対策に追われていて憲法どころではなかったというのが現実でした。
しかし、マッカーサーの指示を受けて、10月25日、政府内に「憲法問題調査委員会」を設置し、憲法草案の策定作業を始めます。委員長は国務相の松本烝治(じょうじ)、委員には東大教授宮沢俊義ら、顧問に憲法学の大家・美濃部達吉氏など当代一流の布陣を起用しました。
翌年1月7日、松本は、①天皇が統治権を総攬(そうらん)する大原則は変更なし、②議会の議決権の拡充、③国務大臣は議会が責任を持つ、④国民(臣民)の自由・権利の保護の強化などの4原則を柱とする憲法改正私案を作成し、天皇に上奏します。
一方、1月上旬、トルーマン政府もマッカーサーに対して、天皇を廃止しない場合でも①軍事に対する天皇の権能は失う、②天皇は内閣の助言に基づいてのみ行動しなければならない、など憲法改正の基本方針を伝えます。
2月1日、松本草案を毎日新聞が1面トップで「憲法改正調査会の試案 立憲君主主義を確立」との大見出しでスクープします。この内容は比較的リベラルの“宮沢甲案”とほぼ同等のものだったとのことですが、毎日は「あまりに保守的・現状維持的」と批判し、後追いした他のマスコミも批判的でした。
ちなみに、このスクープについては、色々な思惑が混じり、長い間、話題になっていました。真相は、毎日新聞政治部の西山柳造記者が当委員会事務局の協力者から極秘に草案を借り出したということで、それ以上の詳細は不明ですが、当時は、今ほど情報漏洩が問題にならなかったのでした。
これにより事態は急変します。マッカーサーは、日本側が作成している試案の提出を求め、十分な説明もないままGHQの手に渡ってしまいます。GHQ高官らは「試案があまりに保守的、現状維持的なものに過ぎない」と批判されていることを知り、「旧態依然たるもの」と決めつけてしまいます。
中でも、“天皇大権に手を触れていない”松本草案は、1月1日に「人間宣言」まで強要したマッカーサーの逆鱗に触れたのでした。
その背景には、近く「極東委員会」が開かれることになっており、天皇追訴の方針が打ち出される恐れもあったというGHQ側の事情、つまり、同委員会が行動を起こす前に「自由主義的な憲法改正で天皇存続の流れを固めて起きたかった」というマッカーサーの意図があったのです。
▼「マッカーサー草案」作成指示
幣原内閣への不信を強めたマッカーサーは、2月3日、GHQ民政局長のホイットニーに2月12日までの10日間を期限に憲法草案の作成を命令します。
この際、のちに「マッカーサー3原則」と言われる次の3原則を示します。まず、第1が天皇制についてです。「天皇は国の元首の地位を与えられるが、その職務と権限は、憲法に従って行使され、国民の基本的意思に応えるものでなければならない」としています。
第2が「戦争放棄」です。日本は「紛争解決の手段としての戦争」のみならず「自国の安全保持の手段としての戦争をも放棄する」としています。この原則は、戦争放棄、戦力不保持、交戦権の否定、そして安全保障を「今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる」と徹底したもので、疑念を挟む余地がありませんでした。
なお、この「戦争放棄」について、『マッカーサー回想録』によれば「幣原首相が先に提案した」と自己弁護のような証言が残っています。幣原自身の経歴からして「突飛ではない発言」とされていますが、その真偽のほどは不明のままです。しかし、「日米双方ともに、マッカーサーの証言を信ずる研究者は皆無に等しい」(五百旗頭 真氏、岡崎久彦氏)というのが暗黙の了解のようです。
さらに、岡崎氏は「天皇制維持を定めた憲法を通すために、極東委員会が反対できないような、戦争放棄を含むリベラルな憲法を作らなければならない」とのマッカーサーの意図を幣原首相が理解し、「他言無用を約束した」と解説しています。
他方、「悪質だったのは、マッカーサーがまだ一度も会合を持っていなかった極東委員会を飽くことなく利用したことだ」(西悦夫氏)との指摘もありますが、この後、マッカーサーは、憲法制定をめぐって極東委員会と激しい喧嘩を繰り広げます。そして、予定通りの作戦を遂行し、結局押し切ることになります。
なお、民生局次長(ニューディーラーの)ケーディス大佐は、その真意は不明ですが、「自国の安全保障のための戦争」の部分を「勝者が占領下の敗者の自衛権を否定まで強いるのはいかがなものか、世界の現実はこれを祝福しないだろう」と独断で削除したといわれ、これについて、マッカーサーやホイットニーからはおとがめはなかったとの記録が残っています。つまり、この時点では、自衛権と自衛手段の保持は憲法の法理として担保されていたのでした。
マッカーサー原則の第3が「封建制度の廃止」です。この言葉自体には違和感を持ちますが、貴族とか爵位などの廃止です。第1の天皇制と関連した指針と考えます。
草案作成を命じられた民生局行政部には憲法の専門家はおらず、日本への理解も浅い軍人(中佐から少尉まで)や通訳など20人余りの素人集団でした。憲法学の基礎すら学ぶ余裕はありません。
元自衛官の私は、軍人の階級は世界共通の経験とか資質を有していると認識しています。将官は将官、佐官は佐官、尉官は尉官です。いくら優秀であっても、“昨日まで鉄砲を担いでいた”佐官や尉官の集団がにわかに憲法など作れるわけがありません。
彼らは、不戦条約、米国憲法、フィリピンやソ連を含む他国の憲法、民間団体の私案などから気に入った条文を写し取り、つなぎ合わせていく(いわゆるコピペ)という、“憲法のような国家の基本となる法体系を造るには全くふさわしくない作業”を急ピッチで進めました。
▼「マッカーサー草案」提示と対応
こうして、「マッカーサー草案」が出来上がり、2月13日、ホイットニーから吉田外相と松本国務相に手渡され、「日本の憲法改正案は受け入れられない。総司令部でモデル案を作ったのでこの案に基づき、日本案を至急起草してもらいたい」と告げられます。
「天皇の地位について、元帥は深い考慮をめぐらしているが、この案に基づく憲法改正でないと天皇の一身を保障することはできない」と、脅迫ともとれる発言が付け加えられました。
草案の第1条の天皇は「シンボル」と規定されているなど、二人は、「大日本帝国憲法」の改正ではなく、解体案であること悟り、色を失って顔を見合わせといわれます。
その後、政府は、GHQへ説得を試みますが、「天皇の一身」を担保にされた政府に他の選択肢はありませんでした。ただちに、英文の草案を日本語に翻訳する一方で、一部独自に修正して新憲法草案の完成を急ぎます。
3月2日、「憲法案を(日本語でいいから)提出しろ」とGHQから矢のような催促が届き、閣議にもかけずに提出すると、その場で英訳され、マッカーサー草案と異なる部分を次々に再修正されます。
3月6日、事実上、GHQ製の憲法改正草案要綱を政府案として公表します。これについては、「納得したわけではないが、一日も早く講和条約を締結し、独立、主権を回復するため、新憲法によって民主国家、平和国家たるの“実”を内外に表明する必要があった」と吉田外相は述懐しています。
6月、新憲法案が帝国議会の審議に付されます。最大の争点は、「国体の護持」でしたが、政府は「護持された」で押し通します。こうして、新憲法案は一部修正の上、可決されて、明治天皇の誕生日を祝った「明治節」の11月3日に「日本国憲法」が公布されます。
▼「日本国憲法」制定の狙い
今でも憲法擁護派には「日本人が自主的に作成した」との論陣を張る人達が少なからずおりますが、憲法制定の経緯を素直に振り返れば、日本語では「押し付け」という以外の言葉を探すのは不可能でしょう。
憲法自体は、確かに格調高い文章にはなっています。しかし英文を直訳したこともあって、一般には難解な文章となっていることは、これまで多方面から指摘されています。民生局の当事者達でさえ「“日本語が奇妙である”と認識していた」との証言もあります。
前回、「極東委員会」対応上、マッカーサーが憲法制定を急いだことは紹介しました。それでも、日本も米国も調印している「ハーグ陸戦協定」(1907年改正)に「占領者は絶対的な支障のない限り、占領地の現行法律を順守する」と明記されているにもかかわらず、マッカーサーが「なぜ本協定を無視して、新憲法制定を決断したのか」という疑問は消えません。
これについて、「米国の属国化を狙った憲法だった」とする見方があります。当時は、50年(少なくとも25年)は続くとの見積もっていた占領軍が“自分達が占領を継続するために都合のいい基本法を作った”との指摘です。
占領期間については諸説ありますが、確かに、占領を継続している間は、自衛権とか、(占領軍の出番である)「緊急事態条項」などは必要ないわけですから、憲法の各条文を読む限り、あながち間違っていると言えない面があります。
他方、起草した当事者達は「ほとんどの人が将来を見通していたわけではなく、近視眼的にものを見ていた」とも「国会決議で簡単に改正できる」とも証言しています。
だが現実には、当事者達の意に反して(?)、いつの間にか簡単には改正できないような“仕掛け”が、憲法前文、有名な第9条、そして第96条の“総議員数の3分の2以上の賛成”による国会の発議緊急事態規定などに残ってしまったことは事実でした。
中でも、元自衛官の私はどうしても第9条に関心があります。これについては、次回触れることにしましょう(つづく)