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「我が国の歴史を振り返る」(51) 日米戦争への道程(その4)

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▼はじめに

 ついにこの時が来ました。8月28日の安倍総理の突然の辞任発表です。我が国の歴史を振り返りますと、戦前と戦後、共通の事実があることに気が付きます。(指名の方法は違いますが)内閣総理大臣が短命なことです。

 何かあると“政権を投げ出す”と、これこそが他国に例をみない我が国特有の慣例が出来上がり、何度も繰り返されてきました。その結果として、“国の舵取りがいかに行われたか”とか“他国からどのように見られたか”などについて論ずるまでもないと思います。

 その中で、安倍首相は、戦前戦後を通じて、最長在任期間を記録したばかりでした。発表されたような健康状態にもかかわらず、これまで弱音を一切見せず、最も過酷な仕事をここまで全うされた総理に心より敬意を表したいと思いますし、日本人ならだれしも感謝とねぎらいの気持ちを持って当たり前と考えていました。

 28日、総理記者会見の実況中継を観ていました。「お疲れ様でした」の一言を冒頭に述べた記者は女性記者一人だけで、他はいきなり(レベルが高いとは思えないような)質問に終始しました。それでも総理の対応はとても丁寧でした。

のちに、他局で橋下徹氏がこの事実に噛みついたとのニュースを知り、“同じような印象を持つ人がおられた”と少しほっとしましたが、(突然だったとはいえ)服装や質問態度を含め、正直、改めてマスコミ人の思い上がりや勘違いを感じざるを得ませんでした。

 もし、憲法でいう「表現の自由」とやらがその背景にあり、それが相手に敬意を示したり、ねぎらいの気持ちを持つというような、人間としてとても大事なことより優先するというのであれば、国民の代表を自認するマスコミ人のみならず、私達日本人は、自分達の“ふるまい”が“なぜこうなってしまったのか”について、立ち止まって考え直す時期に来ているのではないでしょうか。

“次の総理大臣がだれになるか”が目下、最大の関心事ですが、次の総理大臣も、豊かな人間性、日本人として誇りと愛国心、さらに政治家として信念を有し、大多数の国民の信頼を得て長くこの職にとどまることが出来るような人物になってほしいと願うばかりです。

▼「対日石油全面禁輸」をめぐる日米の情勢判断

前回、米国の「対日石油全面禁輸」まで振り返りましたが、南部仏印進駐時点では、陸海軍はアメリカのこの措置を全く予期していなかったといわれます。

野村大使から「何かあれば、全面禁輸の断行は躊躇しないだろう」との情報が入っていましたが、武藤ら軍務局は一連の経済圧迫を予期するにとどまったのでした。

そして、南進の拡大が対米英軍事衝突を意味することも知っていたにもかかわらず、軍務局が南部仏印進駐を容認した背景には、「参謀本部がしゃにむにソ連に飛び掛かりそうなのでそれを防ぐのが狙いだった」(武藤の回顧録より)とする参謀本部と陸軍省の情勢判断の差異が影響していました。

陸軍省は「北は希望、南は必然、北をやれば南に必ず火がつく」、つまり、「大東亜共栄圏の建設のため、資源を求めての南方進出は“必然”だが、北方武力行使によるソ連の排除は“実現できれば望ましい”」ぐらいに考えていました。

これに対して、田中ら参謀本部は、対ソ戦遂行のための資源確保を可能にする南方作戦の重要性は認識していました。田中らは、「もし米英が南部仏印に先手を打って確保すれば国防計画は南から崩れていく。しかし、米英はまだ本格的準備ができていない。よって、“自存自衛”のために北方武力行使を中止して南方作戦を実行しよう」と考えていたのです。

他方、アメリカ国内においても、日本の南部仏印進出への対応については意見が分かれます。対日強硬派が「対日圧力をかければ日本が最終的に譲歩する」と判断していたのに対し、グルー駐日大使ら知日派は「日本を追い詰めると開戦に踏み切る可能性がある」と警告していました。

このような中、ルーズベルト大統領は、「対日石油全面禁輸」に踏み切った判断は、「独ソ戦においてソ連が極めて危険な状況にあり、仮にソ連が敗北すれば、ドイツは本格的なイギリス侵攻に向かうだろう。その結果、イギリスに本格的な危機が訪れれば、アメリカはヨーロッパの足掛かりを失う」との危機意識を持ち、日本の対ソ戦開戦を阻止するために、「全面禁輸」という最大限の強硬措置に踏み切ったのでした。

一般には、アメリカの「対日石油全面禁輸」は、日本のさらなる南方進出を抑制するための判断だったとされますが、それ以上に「北方での本格的な対ソ攻撃を阻止」、その延長で「イギリスの崩壊の絶対阻止」があったのでした。

ルーズベルト政権内に、大統領にそのような判断を促した勢力が存在したことが判明するのですが、アメリカの「対日石油全面禁輸」やのちの対日戦決意の目的が究極的には「イギリスの存続のためだった」とは今だから言えるのであって、当時、日本がここまで“深読み”していた気配はなかったようです。

▼日米交渉継続か開戦決定か

こうして、我が国政府と陸海軍にとって、「対米対応」が第一義的な外交問題として浮上し、対ソ戦を優先的に考えることができなくなります。

イギリスやオランダもアメリカに追随します(いわゆる「ABCD包囲網」です)。この結果、石油をはじめ軍需物資輸入の道はほぼ閉ざされ、近衛首相の耳にも開戦の足音がはっきりと聞こえ始めたのでした。

8月4日、近衛は、中国からの撤兵も辞さない覚悟で、ハワイでルーズベルト大統領と首脳会談を決意し、陸海軍の頭越しに野村大使に訓電します。首脳会談の申し出に、ハル長官は冷淡でしたが、ルーズベルト大統領は「アラスカではどうか?」と前向きな姿勢を示し、野村を喜ばせました。

これには裏がありました。8月上旬に米英首脳会談が行われ、対日強硬を求めるチャーチルに対して、ルーズベルトは「私にまかせてほしい。3か月ぐらいは彼ら(日本)を“あやしておける”と思っている」と発言しています。アメリカにとって。この時点の日米交渉は、もはや“開戦準備を完了するまでの時間稼ぎ”となりつつあったのです。

この近衛の日米首脳会談構想に対して、武藤ら陸軍省は現政策の履行を条件に同意し、内心では首脳会談に期待をかけていました。しかし、田中ら参謀本部は、近衛が三国同盟を弱める方向でルーズベルトと妥協することを危惧して強硬に反対します。

武藤らは、「反対すれば近衛が内閣を投げ出す可能性がある。そうすればその責任は陸軍が負うことになる」と田中を説得します。田中は、やむなく「三国同盟を弱める約束をしない」という条件で了解します。

▼「大西洋憲章」発表

日本側から首脳会談の提案がアメリカ側に示された頃、ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相が会談し、8月14日、米英共同宣言として「大西洋憲章」が発表されます。

その概要は、①合衆国と英国の領土拡大意図の否定、②領土変更における関係国の人民の意思の尊重、③政府形態を選択する人民の権利、④自由貿易の拡大・経済協力の発展、⑤恐怖と欠乏からの自由の必要性などに続き、のちの「国際連合」設立の根拠とされた「一般的安全保障のための仕組みの必要性」も謳われています。

ルーズベルトが「この原則が世界各地に適用される」と考えたのに対し、チャーチルは「ナチス・ドイツ占領下ヨーロッパに限定される」、つまり、アジア・アフリカのイギリス帝国の植民地にはこの原則が適用されるのを拒絶していました。

そのルーズベルトも「あくまでドイツに主権を奪われていた東欧白人国家について述べたもので、(アジアの)有色人種のためのものではない」と説明しますが、憲章には日本を名指しはしていないものの、侵略的膨張主義への批判が表明されていました。

チャーチル回顧録によれば、ルーズベルトとは約1千通の交信があったとのことですから、互いの本音をわかった上での憲章だったと考えます。

それにしても、欧州戦線の帰趨が全く不明なこの時期に、巨大な植民地を抱え、ややもすれば自国の“命取り”になるリスクを覚悟し、米国を参入させるために上記の内容を含む憲章の宣言まで漕ぎつけたチャーチルの戦略は「みごと」としか言いようがありません。そして9月には、ソ連もこの共同宣言に加わります。

▼日米首脳会談決裂

8月17日、米英会談を終えたルーズベルトから野村大使に2つの文書が手交されました。1つは「日本政府が武力によって隣接諸国に進出するなら、アメリカは一切に必要な措置をとる」との強い警告文、もう1つは首脳会談提案に対する回答で、「アメリカが従来から主張してきた基本原則に適合するもの以外は一切考慮されない」とする強硬なものでした。

これに対して、近衛は「これまでの行きがかりに捉われず、大所高所から太平洋全般にわたり日米間の重要な問題を討議し、最悪の事態を回避したい」と首脳会談にかける熱意を示します。

近衛の熱意に対して、グルー駐日大使も理解を示し、ワシントンに意見具申をします。また、大統領も乗り気であることが野村大使から伝えられ、政府や陸海軍は首脳会議に実現に向けて、随行の人選まで進めます。

しかし、9月3日、アメリカ政府の回答は「首脳会談の前に、これまでの懸案事項について日米間で一定の合意が必要である」とし、その合意の中には、「日米諒解案」の4原則も含まれていました。野村大使が日本に送付しなかったハル長官の「領土保全」「主権尊重」「内政不干渉」「機会均等」の4原則です。

さらに、ハル長官は、これまでの日米間の懸案事項であった「特定の根本問題」、つまり「中国撤兵問題」「三国同盟問題」「通商無差別原則の問題」も合意が必要と示唆します。

近衛のメッセージに全く触れていなかったこれらの問題まで「すべて合意が必要」とする米側要求について、首脳会談の前に妥協することは困難なことが明白になり、事実上、日米首脳会談の早期開催の見通しは立たなくなってしまいます。この段階で、近衛の企図は“水の泡”に帰してしまったのです。

のちの真珠湾攻撃の際の外務省の不手際が問題になりますが、「日米諒解案」の段階から米国の真意を伝えなかったことの方がよほど“罪が重い”と個人的には考えます。

▼交渉継続か開戦決意か

この回答を受けて、日本政府と陸海軍は「米英蘭から対日禁輸を受けた場合は、自存自衛のために南方武力行使に踏み切る」とした「対南方施策要領」の見直しを迫られますが、この場においても、陸軍省と参謀本部、海軍の間には意見の相違が残ります。

武藤ら陸軍省は慎重で、「対米戦の主力は海軍になるので、南方戦は海軍の主導によらなければならない」と、対米英戦は「海軍の決意次第」との反応を示します。

石油全面禁輸によって窮地に陥った海軍は「帝国国策方針」を作成し、8月16日、陸軍側に提示します。その内容は「10月中旬を目途に戦争準備と外交を並進させ、10月中旬に至っても外交的妥協が得られない場合は実力行使の措置をとる」というものでした。

これに対して、田中ら参謀本部は、「即時対米開戦決意のもとに作戦準備をすべき」と強硬論を主張します。背景に、海軍と違い、陸軍には「国家レベルの開戦決意がなければ戦争準備は困難」との認識がありますが、田中の強硬論には、“対米戦争の決意そのものを重視する”意図があったのでした。三国同盟破棄のような外交的妥協の可能性はほぼゼロと判断し、「戦争が主で、外交が従」という立場だったのです。

これによって、参謀本部は「即時戦争決意」を盛り込んだ「帝国国策遂行要領」を作成し、杉山参謀総長の同意を得て陸軍省に提示します。武藤ら陸軍省は、できるかぎり外交の余地を残して、あくまで日米交渉によって事態の打開を図ろうと難色を示した結果、武藤と田中が会談し、「9月下旬に至っても要求が貫徹しない場合はただちに対米英蘭開戦を決意する」と双方の妥協案で修正します。

早期の開戦決意について、田中は、来春以降の北方武力行使の可能性を捨てなかったようで、その執着心は半端でありませんでしたが、強硬論の田中でさえも、“できれば対米戦は回避したい”と考えつつ、“一定時期まで外交的妥協ができなければ対米戦を決意しなければならない”との立場でした。

陸海軍局長会議で海軍の意思を確認しますが、海軍の態度はまだ定まっていなかったようです。調整の結果、開戦決意を「9月下旬」から「10月上旬」と修正し、「帝国国策遂行要領」陸海軍案が完成します。これでようやく、第48話で紹介しました9月6日の御前会議に歴史の針が戻りました。

長々と振り返りましたが、ついには「日米戦争」に至る我が国の情勢判断は、戦後、「的確さを欠いた戦局洞察」と批判される代表例と考えます。外務省の不手際、陸海軍そして陸軍内の陸軍省と参謀本部の対立、しかも軍務局長や作戦部長クラスに実質的判断をゆだねたこと、さらには、米国側の“したたかな戦略”を見抜けなかったことなど、振り返れば、確かに“失敗”の連続でした。

しかし、戦後流布されたように、我が国が一方的に「日米戦争」を望み、その“階段を登っていった”というのは明らかに事実と反します。次回もう少し追ってみましょう。(以下次号)

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