「我が国の歴史を振り返る」(44) 危機迫る“欧州情勢”と「第2次世界大戦」勃発
▼はじめに
現役時代に戦史研究の一つとして学んだ記憶もあって、いきなり「ノモンハン事件」に入るつもりでしたが、今まで目を通すことがなかった『ノモンハンの夏』(半藤一利著)にはどのように記載されているかを知りたくなり、急遽読破しました。
そこでまず、本書の率直な印象を“正直に”述べてみたいと思います。著者は、さすがに事件に関連する書籍をよく調べ、事件の背景や事件の細部まで詳しく、しかもわかりやすく書いておられます。特に、背景にあるスターリンの対日政策の考えや日本政府が三国同盟をめぐって大議論する様子などは全くそのとおりと思いますので、本メルマガでもその一部を引用させていただいております。
ただ、(元自衛官の立場の)私がどうしても違和感を持つのは、著者は、執筆前から陸軍、特に関東軍を“悪玉”と決めつけるあまり、関東軍が取ったすべての作戦や戦闘を否定的にみることに“専念”しているように見えることです(真意は違うのかも知れませんが)。
歴史資料などは見方によって如何様にも使えます。しかもすべての資料は“後出し”です。情報もそうです。相対する敵と味方の“すべての情報が判明した後”に、「日本軍の行動は適切だったか?」とか「こうすべきだった」などの評価は全く意味がありません。戦場では、敵の情報は簡単にわからないもので、それが“戦場の実相”だからです。
また、戦場においては、我の損害を知るのは簡単ですが、敵の損害を知るのは極めて困難です。これも“戦場の常識”です。今は衛星やドローンなどの監視手段がありますが、当時は、目の前で撃破した戦車や航空機数などはすぐにカウントできても、戦場の後方地域に放たれた砲弾による損耗などは簡単にはわかりません。
よって、“相対している敵の攻撃衝力(押し出す力)が弱くなった”などの「事象」により彼我の相対的な損害(残存戦力)を判定するしかなかったのです。
しかし、敵側に増援兵力があれば、攻撃衝力そのものは変わりません。後に触れますが、8月大攻勢時のソ連兵力は関東軍の4~5倍ありました。この圧倒的な戦力によって関東軍を殲滅したかと思いきや、関東軍はかなり敢闘しました。その結果、事件全体のソ連・蒙古軍の総損耗は、関東軍の約1万9800人よりも多い約2万4500人だったことがソ連崩壊後に明らかになっています。
当然、当時からスターリンはソ連軍の損耗を知っています。質・量ともに圧倒的に勝るソ連軍にこれほどの損耗を与えた日本軍に対する恐怖心が蘇り、「日本が本格的な対ソ戦は考えていない」と知るや、欧州正面に集中するための対日停戦協定締結を決断するに至ったものと推測します。
細部は本文で触れますが、確かに、陸軍中央と関東軍の確執は目に余るものがあります。この源は、明治初期プロシア参謀のメッケルによって教えられた部隊運用における独断専行(予測しなかった状況に直面した場合、第1線指揮官の責任において自主的に部隊を運用する)との教えにあります。
「ノモンハン事件」1年前の「張鼓峰事件」の経験から、関東軍は「国境線が不明確な地域では、防衛司令官は自主的に国境線を認定し、第1線部隊に明示する」旨の「国境紛争処理要綱」を指示していました。これも批判がありますが、ソ満国境防衛の任務を有する関東軍としては、国境線が不明確な現地の状況から、適切な処理要綱だったのではないでしょうか。
日清・日露戦争、それに満州事変や支那事変に比して、「ノモンハン事件」は、日本軍が初めて経験した“本格的な近代戦”でした。今様の言葉で言えば、“技術奇襲”を受けたのでした。
このような情勢下でもあらんかぎりの戦力を駆使して国境線を死守しようとした関東軍の奮闘、中でも、圧倒的な量と質を誇るソ連軍に対して、自らの命を懸けて果敢に立ち向かって任務を遂行し、そして散って逝った約2万人の将兵達に、日露戦争時の旅順攻撃と同じような“軍人魂”を感じ、私は涙が流れます。
高名な著者には大変失礼ながら、『ノモンハンの夏』の中で、関東軍や散って逝った将兵に関する、あの切り捨てたような描写はいったいどこから来るのか、という素朴な疑問が沸き上がります。関東軍や将兵を散々こき下ろし、最後に、「日本軍よりソ連軍の損耗が多かった」との“事実”をわずか数行の紹介で済ましていることにも“甚だしい違和感”を感じます。
歴史や軍事を知らない読者はこの本から何を学び、何を理解するのでしょうか。戦前の日本人の考えや行動が正しく伝わるのでしょうか。(無理にお勧めするわけではありませんが)未読の方にはぜひこの“違和感”を味わっていただきたいと願っております。
長くなりました。「ノモンハン事件は欧州情勢を抜きにして語ることができない」ことだけは半藤氏と一致します。まず、その付近から本論に入りましょう。
▼危機迫る“欧州情勢”
我が国が「支那事変」の泥沼に陥り、身動きが取れない状況になっていた頃、欧州情勢も再び戦争の危機が迫っていました。欧州においては、第1次世界大戦同様、第2次世界大戦でも、はじめは“些細な動き”がやがて大戦に発展していきます。
ナチス・ドイツが1935年に「ヴェルサイユ体制」を破棄して再軍備を宣言し、37年に、非武装地帯と定められていたラインラント進駐を断行したことなどは前回触れましたが、38年には、「サン=ジェルマン条約」(第1次世界大戦後の1919年、連合国とオーストリアの間で結ばれた条約)によって禁止されていたオーストリアとの併合を実現します。ヒトラーが“ドイツの生存圏”主張し、次々にそれを実行していくのです。
この間、英仏は、欧州に圧力を強めつつあったソ連・共産主義の脅威に対してドイツが矢面になって対抗してくれることを期待して、有名な“宥和政策”をとることに終始します。
まさに、敗戦国ドイツに広大な領土割譲と多額な賠償金を背負わせた「ヴェルサイユ体制」がソ連・共産主義の出現とヒトラーの巧みな戦略の前にもろくも崩れ去ろうとしていたのです。
第2次世界大戦までの道程を考える時、必ずと言っていいほど、イギリスのネヴィル・チェンバレン首相が「宥和主義者」として“ やり玉”にあがりますが、彼は彼なりに欧州の平和を真剣に考え、包括的な安全保障を実現しようとしていたと考えます。当然と言えば当然です。欧州の人々は第一次世界大戦の経験から極端に戦争を嫌っていましたし、当時のイギリスはドイツに対していかなる脅威も感じていなかったのです。
1938年、ナチス・ドイツに脅威を感じたチェコスロバキアが動員します。当時のチェコ陸軍は43個師団、そのうち35個師団が近代兵器によって高度に機械化されていました。これに対して、ドイツ軍は歩兵が23個師団、機甲化・騎兵など5個師団、しかもその大部分は訓練課程を修了していない兵士達からなり、予備兵の中にも使い者になるものがほとんどいない状態でした。つまり、ドイツにはチェコ戦を戦う能力がないのは明らかで、チェコの動員がヒトラーの攻勢を踏み留ませる結果となりました。
このチェコの強硬姿勢とヒトラーの自制という構図は、全く逆のメッセージを国際社会に与えることになります。戦争の発生を回避するために、チェンバレンはあらゆる外交ルートを通じて、ドイツを懐柔するとともにチェコに柔軟姿勢をとるよう求めます。
具体的には、懲罰的にドイツからとりあげ、チェコスロバキアに与えたとして「ヴェルサイユ体制」の“不正の象徴”といわれたズデーテン地方をドイツに戻すようチェコを脅迫するのです。
その背景には、第1次世界大戦の戦後処理を巡って、ドイツに対するイギリスの同情のようなものがあったともいわれますが、フランスは、ドイツへの同情よりも新たな戦争が起こり、再び戦争によって国土が蹂躙される恐怖が上回ったのでした。
当時のフランスは、70師団以上を動員できる能力をあり、ドイツを恐れることはなかったのですが、第1次世界大戦の戦いの失敗や成年人口の半数が死傷した戦争の記憶がフランスを臆病にさせたのでした。
チェコは、英仏の圧力によって、軍事的優位にあるにもかかわらずズデーテン地方の「自治案」を呑みます。しかし、ヒトラーは、チェンバレンに対して「自治案では問題にならない。直ちに占領し、割譲しなければならない」と要求したのです。
チェンバレンがこの時点でヒトラーの邪悪さを見抜き、英仏がチェコ側に立って軍事行動に出れば、ドイツは一撃のもとに粉砕され、第2次世界大戦は起こらなかったに違いありません。
しかし、チェンバレンはさらなる“妥協の道”を探り始めます。チェコ、フランス、イギリスが動員を始める一方で、こともあろうに、イタリアのムッソリーニに仲介を求め、「ミュンヘン会議」(1938年9月)を開催します。ここで、「これ以上領土要求をしない」との約束を交わす代償としてヒトラーが望むすべてを与え、会議への参加を許されなかった哀れなチェコに与えるべき“妥協”を容赦なく取り上げてしまいます。
この結果、ヒトラーは、ズデーテン地方を割譲しますが、英仏の権威低下を目前にして、ポーランドとハンガリーがドイツにすり寄る姿勢を見せ、ハイエナのようにチェコから領土をかすめ取ろうとします。こうして、1939年3月、ヒトラーは、ポーランドとハンガリーと組んでチェコを解体させ、35個師団余りの敵兵力を消滅させたばかりか、チェコの重工業を手に入れることによってドイツ軍の装備を飛躍的に向上させたのです。
フランス首相のエドゥアール・ダラディエは、「ミュンヘン会議」を終え、暗澹たる気分で帰国の途につくと、(戦争を回避したとして)国民の思いがけない熱狂的な歓迎を受けます。ダラディエは、「愚か者どもめ、自分達が何を歓呼しているかも知らないで」とつぶやいたと伝わっています。それから1年も経たないうちにパリは陥落します。
▼第2次世界大戦勃発
英仏が自らの手で同盟国を抹殺して差し出す様子を見て、「英仏が頼りにならない」と最も失望したのはスターリンでした。英仏と同盟交渉を進めながら、ナチス・ドイツとも秘密交渉を開始します。ヒトラーは、我が国との同盟交渉もそうでしたが、“利益になる条約なら誰とでも結ぶ意思”を持っていました。
他方、チェンバレンは、チェコの消滅を機に突然、“対独強硬路線”に転換します(今日でもその理由が不明といわれています)。39年3月末、ヒトラーは、ポーランドにダンツィヒ(現グダニスク:旧ドイツの飛び地)回廊を要求しますと、イギリスは、ポーランドと同盟条約を結び、ポーランド防衛の意志を示します。
当時のポーランドもまた、ヒトラーの犠牲になるような小国でなく、領土的野心もある大国でした。ヒトラーは対ソ連戦略のために真剣にポーランドと同盟を結ぶ用意があり、ダンツィヒという両国の懸念を処理しようとしていただけとわれます。他方、ポーランドは、ドイツともソ連とも同盟を結ぶ意思がなく、戦意も旺盛、ソ連の自国通過を含むソ連・英仏と対独共同行動を拒否し、その構想を頓挫させていました。
このポーランドがイギリスと同盟を結んだことは、ポーランドの利害を別にするドイツとソ連両国の利益を瞬時に一致させます。1939年8月、ソ連とドイツは「不可侵条約」を発表し、その付帯条項によってポーランドを両国で分割しようとします。これに対して、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、第2次世界大戦が勃発するのです。
▼「欧州情勢は複雑怪奇!」
前回、我が国が三国同盟の締結に向けて閣内が分裂していたことを取り上げましたが、欧州情勢が変転し、ついに「独ソ不可侵条約」が締結されるや、平沼内閣は、三国同盟交渉の打ち切りを決定し、「欧州情勢は複雑怪奇」との明言を残して総辞職してしまいます。
ヒトラーやスターリンのしたたかな戦略やチェンバレンの君子豹変など、欧州諸国の“機微な動き”を地球の反対側からウオッチできるわけがありません。のちには、現地で勤務していた外交官や武官らも判断を間違い、我が国の命運を狂わすことになります。
平沼首相の後継には、元陸軍大将で予備役に編集されていた阿部信行首相が誕生します。阿部首相は、「ドイツとの軍事同盟締結は英米との対立激化を招く」として大戦への不介入方針を掲げます。しかし、陸軍などの反対があって翌1940年(昭和15)年1月には首相を辞任してします。
このようは欧州情勢を横目でにらみながら、少しだけ時代をさかのぼりつつ、次回以降、「ノモンハン事件」に至るソ満国境問題の背景と事件の概要を振り返りたいと思います。(以下次号)