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ポスト・コロナの組織運営

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いまから四半世紀以上も前になるが、1992年9月、私が当時社長を務めていた(株)日本総合研究所でノーベル化学賞のブリュッセル自由大学教授イリヤ・プリゴジン博士を招聘してシンポジウムを開催したことがある。その翌日、昼食をはさんで半日かけて博士と親しく懇談する機会があった。当方の素朴な質問にもいちいち丁寧に答えてくださった(その質疑はシンポジウムの記録『生命論パラダイムの時代』(ダイヤモンド社・1993刊、第三文明社・1998年刊)の巻末に収録されている)。

 博士は予ねて「自然科学と人文科学、社会科学を橋渡しすることに、自然科学者として深い満足を覚える」と言っておられることに乗じて「博士が解明された「散逸構造論」を「企業組織論」に適用するならどういう点に留意すべきか」という当方の質問に対し、博士は「散逸構造理論よりも非線形複雑系の考え方の方が組織運営には参考になるのではないか」と遠くを見る眼差しで概略つぎのような話をされた。

(一)組織運営における<ゆらぎ>

「組織においては何よりも<ゆらぎ>が発生し得る状況を確保することが大事」

「あまりにも厳格で硬直的なヒエラルキーが存在していると<ゆらぎ>の生成は不可能になってしまう」

「何が<可能なゆらぎ>であり<何が有望なゆらぎ>かを見定める力をもつ<有望な人材>をどれだけ確保できるかが最も重要な課題」

「組織成員が豊かで自由な未来に関する<魅力的な理想>を見出したとき、それがシステムの奥深くにまで急速に侵入する<有望なゆらぎ>となる」、

(二)組織運営におけるイマジネーション

「ビジョンやイマジネーションを実現するためにはコヒーレンス(統合性、統一性、結束性)の高い組織でなければならない」

「イマジネーションを得るためには乱雑性と秩序性の中間的な状態が必要。あまりに大きすぎずまたあまりに小さすぎない緊張のなかに人間を置くとき最もイマジネーションが発揮される」

「イマジネーションだけはプログラムできない。そのためには多くの機会を与える以外に方法はない。直接には関連のない分野の間でお互いに交流をすることでイマジネーションを向上させることができる」、

(三)組織運営における集団力学

「われわれの周りに存在するシステムはカオス的なダイナミクスを含んでいる。システムはスケールが大きくなると新しい性質を獲得する。小さなシステムはそれ固有のダイナミクスをもっており、大きなシステムは小さなシステムへと還元することはできない性質をもっている。そこでは集団を扱う力学が必要になる」

「個々の対象に全体のシステムが反映されるのであり、全体のシステムに個々の対象が反映されるのではない」

「個は場の表現であり、場は共鳴を生じ、共鳴が生命を生みだす」

「複雑性と言うものが生物あるいは生命に新しい性質を生みだす」、

(四)これからの組織運営

「これからは複雑性や複雑システムに関するモデル化の研究が極めて重要になる」

「西洋の科学は主体と客体の相違や対照を強調してきた伝統があるがいま求められているのはその中間の道である」

「2000年来の東洋思想と今日の現代科学をわれわれは統合しなければならない」

「いま科学は日本の伝統的な自然観に近づいてきているのに日本では科学があまりにも日本の文明から隔離されている」、

などである。

博士の諸著作も参照しながら、ポスト・コロナの「組織運営」という観点からこれをまとめれば次のようになる。

(1)企業組織は、それを構成する成員間、およびその成員と組織全体との間、さらには広く一般社会との間の<ゆらぎ>を通しての自己組織化というバイオ・ホロニックな相互作用関係であって、それ自体つねに生成変化する開かれた動的過程としてのみ存在する。

(2)自己生成した結果を利用して再び自己を生成していく自己触媒的自励発展性、自己言及的イマジネーションの働き、それによる認知フィードバック的進化がその特徴である。

(3)そこには超越的規範も全体を統べる司令塔も存在しない。全体を視野に収めた局所的振舞が自律的・分散的・並行的・非線形的に相互作用し合うことで全体が共振的・相転移的に自己秩序化するプロセスがあるだけである。

(4)その統一性・発展性はエネルギーの備給とエントロピーの散逸がちょうど釣り合う、すなわち創発特性と秩序化機構がせめぎ合う中間の動的非平衡状態においてのみ維持される。その中間の場の活性に自らも何ほどか寄与し得ていることを体認できるとき組織成員はそこに等しく悦びを覚える。

このような「組織運営」が可能なためには、「非線形複雑系」の振舞いを自ら担い、「サテライト分散型ネットワーク」全体をあたかも統合的生命体のごとく結束せしめる役割・機能がそこになくてはならない。それは、 

<サテライト的に分散配置された個々(部分)の自己触媒的自励発展性を活かしつつ、つまり、個々(部分)同士の自律的・分散的・並行的・非線形的相互作用をネットワークしつつ、同時に、創発特性と秩序化機構がせめぎあう中間の非平衡状態に組織を把持してその全体をバイオ・ホロニックな動的過程へと編成し直す役割・機能>である。

ここにあるのは、単に成果・効率だけを問う「機械論的要素還元主義」とは対極にある「生命論的相互生成主義」発想である。「機械論的要素還元主義」の特徴は<全体は部分要素に還元可能であり、その部分要素を組み立て直せば元の全体を復元できる>とするところにあるが、これは規格品の機械的大量生産工程などでは適合的であっても、生きた人間のバイオ・ホロニックな集団現象である企業経営ではその通用局面は限定される。それとは逆にここで求められているのは「生命論的相互生成主義」の発想である。<すべてはすべてとつながっており、互いは相互生成し合って一つである>とする包括的世界理解である。この世界理解に立脚してはじめて「バイオ・ホロニックな動的過程へと編成替え」という内実を備えた「組織運営」が可能になる。そのとき「組織」は「サテライト分散型リゾーム状ネットワーク」へと進化発展する。

「リゾーム(=根茎)」とは、(根茎が互いに生命養分を備給し合いながらその結節場から新たな生命を不断に産出するように)互いがネットワークの網目同士として互いの位置価を確認し合いながら、知識・情報を交流・融通させつつ、その繋ぎ目から不断に新たな知識・情報を産出し、それによってネットワーク全体をあたかも生きた統合体のごとく共鳴・共振的に作動させる生命的役割・機能である。そこでの課題は「サテライト分散」した部分(個人)同士を互いにどう統合的に結束せしめるかであるが、それにはこれまでの組織論とは次元を異にする新たな発想が求められる。なかでも大事なのが、その「リゾーム」役割・機能を担うに相応しい「人間力」を如何に育成するかである。「人間力」とはそれぞれの「専門性」に加えて「知力+倫理力+共感力」などの人間的資質の総合力である。その「人間力」が十全に発現できていると自認できたときネットワーク・メンバー各人はそこに悦びを覚えるであろう。言いかえれば、人はその悦び体験を求めて「サテライト分散型リゾーム状ネットワーク」存在へと自らを進んで自己投企するのである。そこにおいて目指されるのは、要するに「人間力経営」である。その見地からするなら、コロナ禍は企業にとって「人間力経営」の本源へと還帰するチャンスと言えるかもしれない。

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