「我が国の歴史を振り返る」(27) 20世紀を迎え、様変わりした国際社会
▼はじめに
ようやく「明治時代」を終えようとする所まで来ました。昨今の新型ウイルスの喧騒もあって、多くの人の記憶から消え去っていると思いますが、昨年の5月25日~28日、令和時代の最初の国賓として米国のトランプ大統領をお迎えし、国中が沸騰しました。
宮中晩さん会の席上の天皇陛下のお言葉にもありましたように、日米関係は、ぺリ―が来航し「日米和親条約」を締結して以来、昨年は165年の節目の年でした。しかし、実質的に両国が“互いに国の命運を左右する相手”と意識し始めたのは、「日露戦争」において日本がロシアに勝利してからでした。
今回は、この後の歴史をより的確に振り返るために、明治時代の終盤、20世紀を迎えた国際社会がどのように様変わりしたかについて総括しておこうと思います。
元外交官の岡崎久彦氏は「日清・日露というのは日本民族の興隆期だった。国が伸びている時は人間の意欲が溢れる。そういう人がその国を担うようになった時に国の最盛期になる。日露戦争の時、20歳ぐらいの人がその後の日本の文化、科学、政治など全部担っている。日本の歴史にとって一種の夢のような時代があった」と当時の我が国の“状態”への感想を述べています。
しかし、個人的にはこの考えに少なからず違和感があります。文化や科学についてはそのような側面があるのかも知れませんが、政治家や軍人は違います。日清・日露戦争は明治維新や西南戦争の経験者が国の舵取りをしましたが、その後は逐次、世代が交代します。のちに同じ岡崎氏が「昭和初期には人材がいなかった」と嘆くように、(理由は不明ですが)「日清・日露の経験者の中から“優れた為政者”が育った」とはとても思えないのです。
そして実際の歴史は、「明治」から「大正」そして「激動の昭和」へと、最盛期を迎えるという“夢”から益々乖離し、振り返りたくもない“厳しい現実”に変容して行きます。
本歴史シリーズの目的は、「我が国の歴史から何を学ぶか」にありますが、ようやく“助走”を終えて、これからがクライマックスであると考えます。“厳しい現実”を選択した(せざるを得なかった)背景や要因にこそ、“未来に活かす”様々な「教訓」や「課題」があると考えるからです。
特に、20世紀に入り、我が国が欧米1等国と同列の文明国となって以降こそ、流動化する「日本の動き」と「世界の動き」を連動して考察しないと「歴史を変えた大事な要因」を見落としてしまい、その結果として、「歴史の見方」が大きく変わってしまいます。このような認識のもとに、これまで以上に日本と世界の歴史を織り交ぜて慎重に言葉を選び、時には大胆に振り返ってみようと思います。
▼「日本人の精神的支柱」を諸外国に紹介した新渡戸稲造
さて、本シリーズの17話で「明治時代の『国民精神』を育てたもの」を取り上げましたが、その続編です。明治維新以降、ようやく諸外国と交流して相互理解に努めましたが、外国人に「日本の精神」を理解してもらうことは困難を極めました。
その中で、「武士道」という「日本人の精神的支柱」を詳しく紹介し、明治時代の「国民精神」を国外に普及した書籍の筆頭に、新渡戸稲造の『武士道』(1900(明治33)年初版発刊)が挙げられます。
新渡戸は、ベルギーの法学者に「日本の学校に宗教教育がない。どうして道徳教育を授けるのか」との指摘に愕然としながらも、「日本の道徳の教えは学校で習ったものではなく、日本人の善悪や正義の観念を形成している要素は『武士道』である。『武士道』は武士階級から発生したが、日本人全体の道徳律の基準となり、その精神を表す『大和魂』は、日本人の民族精神を象徴する言葉となった」として『武士道』をまとめました。
『武士道』は、文明開化の中で、ややもすると埋没しがちな日本人の伝統的精神を体系的かつ総括的にまとめた唯一の思想書だったといわれています。
実は、すでに紹介しました福沢諭吉の『学問のすすめ』もまた、武士道精神を国民全体の道徳律に具現化し、近代社会で国民が持つべき価値観として明示した思想書であったと評価されています。表現こそ違いますが、「武士道」という共通の思想をベースにしていることを付け加えておきましょう。
新渡戸稲造の『武士道』は「日英同盟」成立の原動力となったと言われますし、セオドア・ルーズベルト大統領も『武士道』の愛読者でした。数10冊買い求め、子弟に配り、兵学校や士官学校にも推薦したようです。
▼そして「和魂洋才」へ
こうして、「洋才」として西洋から学問や知識を学びながらも、「大和魂」「武士道」「独立自尊の精神」など日本古来の精神を大切にするとの考えが、やがては、有名な「和魂洋才」として明治時代の「国民精神」を形成して行きます。
この「和魂洋才」を強く提唱したのは、和洋の学芸に精通していた森鴎外だったといわれます。同じ頃、ドイツから発祥して欧米諸国に拡大していく「黄禍論」(黄色人種の興隆は欧州文明の運命に関わる大問題なので、欧州が一致して対抗すべきとする思想)に対抗するような形で、「和魂洋才」は“日本独自の精神”として昭和時代まで盛んに用いられるようになります。
実は、その後の歴史を振り返りますと、日本人の「武士道」精神や「和魂洋才」の考えは、国民精神の涵養には最適としても、優れた国家の為政者を輩出するという観点に立つと、逆にマイナスになったのではないかと思わざるを得ない所があります。
細部はのちほど触れますが、「大東亜戦争」が勃発する1941〔昭和6〕年秋頃の日本は、「責任ある権力の座にあるすべての人々―文官も軍人も、さらには穏健派といわれる人たちでさえ、あまねく熱狂な国粋主義者であり、国家の考え方の強烈な支持者だった」(ジェームズ・B・ウッド氏(米国人))と見られていたようで、この「和魂洋才」の“副作用が表面化した“と考えざるを得ないのです。
あくまで個人的な考えですが、我が国の為政者達は、ルーズベルト大統領のように、西洋の「騎士道」のような“異質文化”ももっと学び、彼らの「才」のみならず「魂」も理解すべきだったと思うのです。
▼異質で強大な“米国”の登場
西洋の代表がまさに米国であり、上記の岡崎氏は「20世紀とは、米国という、旧世界とは異質でかつ強大な国家が突然、国際政治に登場し、やがては米国の独り勝ちに終わる百年だった」と指摘していますが、まさに20世紀に入ると世界史の主役が欧州列国から米国に変わります。
その米国は、自らの文明観として「マニフェスト・デスティニー」(明白なる使命)を保持し、「文明の西漸説」(文明は古代ギリシア・ローマからイギリスに移り、アメリカ大陸を経て西に向かい、アジア大陸へと地球を一周する)を信奉して「西への衝動」にかられます。
この文明観が米国の膨張主義・帝国主義を正当化する根拠となって、1890(明治23)年に北米大陸を制覇した後、欧州列国と呼応するように1898(明治31)年にハワイを併合、1902(明治35)年にはフィリピンを植民地化し、アジア大陸に迫ってきました。
そして、日露戦争までは親日だった米国世論は、「ポーツマス条約」の交渉過程で反日に転じます。様々な原因がありますが、最大の原因として、「極東の“力”の実態がロシアから日本に移った」ことにあったのは明白です。米国が「日本の勢力が大陸にどんどん拡張するのを支持しない」のは当然の流れだったのです。
そのような時、鉄道王ハリマンが南満州鉄道の共同経営を提案します(1905(明治38)年)。ハリマンは世界一周交通路を一手に握る壮大な夢を持っていましたが、提案は日本にとって有利な条件だったため、伊藤博文や井上馨らの元老、桂首相や山県も同意し、協定の署名寸前まで話は進みました。
これを「ポーツマス条約」締結交渉から帰国した小村寿太郎が「満州を日本の勢力範囲におくことが我が国の国策であるべき」と一歩も譲らず、ハリマン案を「南満州鉄道を横取りする策だ」と破棄させます。このため、小村は、“南満鉄鉄道の譲渡がまだ清国の了承を得ていない”ことを逆用し、病を押して自ら北京に赴き、「満州善後条約」(同年12月)に「満鉄鉄道については、日清以外の関与すべからず」の一項を挿入させ、米国の参加を封じたのでした。
ペリー以来の弱小日本の苦難の経験を知っている世代と日露戦争を経て帝国主義的な情熱に燃えている世代の違いか、この決断は“歴史の岐路”となります。「歴史にifはない」ですが、「共同経営が後の日米衝突を回避できたのでは」と何とも悔やまれます。
やがて、欧州で発生した「黄禍論」の一つの姿として、北アメリカ本土、特にカリフォルニアで移民問題が発生します。移住した日本人農民が勤勉有能で土地所有者となるにつれ、「排日土地法」が次々に決定されるのです。親日派のルーズベルト大統領は日本に同情的でしたが、合衆国憲法により、大統領が州議会の動きを阻止できないという米国の“異質”な一面が現れたのでした。
▼我が国の「元老制度」について
ハリマン提案の顛末をもう少し振り返ります。大多数の元老達が一外相の“暴走”を止めることが出来なかったのは不思議なのですが、翌1906年5月、伊藤博文が反撃に出ます。山県有朋、大山巌、松方正義などの各元老、準元老格の桂太郎、山本権兵衛、それに主要閣僚、児玉源太郎参謀総長らを集めて「満州問題に関する協議会」という歴史的な会議を主催します。
その席で伊藤は、「満州における軍政が続けば、米英の対日不信感が増大するばかりか、ロシアも極東の軍事力を強化し、日本は清国の怨恨の的となるだろう」と陸軍による軍政統治の願望に反対しました。矢面になった児玉の抗弁に対して「一番心配なのは、米国の世論が強大なことだ。米国は世論が動けば、世論に合った政策をとる」とまさに米国の“異質さ”を見抜き、ついには軍政実現を退けたのです。
「元老」は憲法や法律に規定がある身分でなく官職でもありません。天皇から名指しの勅を賜って天皇を補佐する役でした。伊藤は元老としてみごとに日本の“舵取り役”を果たしたのですが、やがて、伊藤のように、軍部や国民世論に抵抗してそれをねじ伏せるだけの行動力と破壊力を持つ人がいなくなります。
再び「if」ですが、「我が国自体も“異質さ”が増した昭和時代に、伊藤博文のような“強い元老”がいたなら、違った歴史になったかも知れない」と考えてしまい、こちらもとても残念です。
見方を変えれば、大日本帝国憲法の起草者・伊藤博文だからこそ、立憲君主制の本質や憲法の限界を熟知しており、それ故、強力な舵取りが出来たとも言えるのはないでしょうか。
「日露戦争」後の日露両国は、まるで「大東亜戦争」後の日米同盟と同じように蜜月関係になります。次号で詳しく振り返ってみましょう。(以下次号)