「我が国の歴史を振り返る」(6)「治安維持」のための江戸時代の諸制度
▼はじめに(信長・秀吉・家康の外交・防衛の総括)
信長・秀吉・家康の外交・防衛を総括しますと、信長の「抑止」、秀吉の「積極防衛」(戦略攻勢)、そして「鎖国」は「専守防衛」と共通点があることから、「国防」という観点に立てば、我が国は、戦後時代から江戸時代にかけて、現代にも通ずる“3形態”を経験してしまいました。その結果として、「植民地化防止」という目的を達成したのでした。
「歴史にif」の視点で振り返りますと、①信長が出現する前の戦国時代に欧州人が我が国に到着していたら、②秀吉が弱腰だったら、そして③家康が欧州人に寛容で「鎖国」政策を採用しなかったら・・・それ以降の我が国の歴史が大きく変わったことは容易に想像できるのではないでしょうか。
時代そして洋の東西を問わず、「国防」の成否は、その時々の情勢を的確に判断し、最適な選択肢を選ぶ“決断力”がある為政者が存在するかどうかにかかっていると考えます。我が国は、この時代にその“手本”となるような3偉人を輩出したのでした。
ついでながら、「鎖国」か「海禁政策」かについても触れておきましょう。「鎖国」という言葉自体は、ドイツの医師ケンペルの著書『日本誌』で使用された用語を蘭学者・志筑忠雄が「鎖国」と訳したことで広まり、一般に普及したのは明治時代以降とされています。
しかし、近年では「海禁政策」と呼ばれ、「“国境を閉ざして一切外国と関わらない”イメージの『鎖国』はなかった」との見方が主流になっているようです。
確かに、「長崎口」(いわゆる「出島」)経由でオランダと細々と交易していた以外にも「対馬口」「薩摩口」「蝦夷口」の「四口(よんくち)」の対外貿易窓口が存在し、幕府は、対馬藩や松前藩などがそれぞれの相手と交易することを“特例”として認めていました。
このような事実から、「鎖国」というより「海禁政策」あるいは「幕府による『貿易管理』」と解釈すべきと言うのですが、本シリーズでは、このような解釈があることを承知の上で、なじみのある「鎖国」という呼称を引き続き使用します。
▼江戸時代の“憲法”:「武家諸法度」
とにもかくにも、1世紀あまり続いた戦国時代、そして天下統一のための一連の戦いの後、「島原の乱」など治安を揺るがす大事件を平定し、「鎖国」によってキリスト教徒や欧州勢力を追放して、ようやく「平和で穏やかな世の中」を手にしたのが江戸時代初期でした。
徳川政権も盤石になり、その最優先政策が“いかにして平和な世の中を長続きするか”、つまり「国内の治安維持」にありました。そのような“安定・内向き志向”は当時の人々の最大の願いであったと思われます。
徳川幕府は、“二度と戦乱の世に戻らないため”に様々な「仕組み」を考案しましたが、まず、江戸時代の“憲法”と言っても過言でない、13条からなる「武家諸法度」を発令し、諸大名に厳しい統制を課しました(1615年)。
具体的には、城の無断修築の禁止(一国一城に限定)、500石以上の船の製造禁止、私闘の禁止、大名間の婚姻の許可制などまで細かく規定したのです。そして最後の第13条では、現代の言葉で言えば「コンプライアンス」、つまり幕府が定めた法令の遵守を規定し、これに違反する大名は、「領地の没収」や「お家とりつぶし」など厳しく処分しようとしました。
「武家諸法度」の第1条にはまた「武芸や学問をたしなむこと」と明記されています。これに基づき、各藩は、藩を運営するための優秀な人材の育成に精を出しました。藩校をつくり(全国で255校を数えました)武士の師弟などを教育したばかりか、寺子屋をつくり、藩民を等しく教育しました。この結果、江戸時代の識字率は当時世界最高水準だったことに加え、のちに「明治以降における日本の技術発展の基礎は江戸時代に作られていた」と解説されるように、“物づくり技術”も発達しました。
▼世界に例を見ない「参勤交代」
有名な「参勤交代」も「武家諸法度」の第2条に明記されています。「参勤交代」の表向きの狙いは、江戸に何かあった時にはせ参じて来る、言い換えれば、「戦略機動訓練」を平時から実施することにありました。
しかし実際には、“謀反防止”の「治安維持政策」でした。各大名に対して、江戸に屋敷を与えて“人質”として奥方や跡継ぎを住むことを義務づけ、大名毎、西と東にわけて1年おき(江戸近郊は半年に1度、対馬藩は3年に1度、松前藩は6年に1度)に領地と江戸を往復させました。万が一どこかで謀反が起きたとしても、大名の半分は江戸に所在していますので迅速な対処が可能だったのです。また、一度に大量の物資を運ぶことへの警戒処置として、牛車や荷車の使用も禁止しました。
このようなダイナミックな“従属制度”は世界に例がなく、実に260年も続きます。各大名は江戸と地元で二重に費用がかかるし、往復に出費がかさみます。その上幕府は、江戸城の整備や江戸の建設などを分担させ、財政を圧迫したのです。
一方、「参勤交代」は、5街道を含むインフラの整備、宿場町の発達、さらに流通ネットワークの充実など、国内の経済発展のためのプラス効果もありました。
▼ “世界最強”の資本主義国だった!
学校では、江戸時代について「封建制のもと士農工商の階級、つまり搾取と被搾取階級があり、経済的に停滞していた」と教えられた記憶があります。
個人的な体験を付け加えますと、私は、高校時代は「日本史」が大嫌いでした。当時は日教組など先生方の組合活動全盛の時代で、母校の職員室には「○○打倒!」とか「△△粉砕!」のようなスローガンがあたり一面の壁に貼られていました。不幸にも、我がクラスの「日本史」担当は、組合活動のリーダー格のような教師だったのです。
授業は暗く陰険で、徹頭徹尾、我が国の歴史の否定でした。私はまだ善悪の判断などできない年齢でしたが、本能的に「おかしい?」と気づきました。以来、「日本史」が大嫌いになりましたが、この教師が“反面教師”となり、「いつか日本史をしっかり学ぼう」と心に誓ったのでした。
それから20年以上の歳月が流れた40歳半ばを過ぎた頃、第1話で紹介したようなきっかけでこの誓いを思い出し、折に触れて歴史書をあさり、学び続けています。今になってみれば、こうして歴史シリーズを発刊できるのもこの教師のお陰と感謝しています。
話を元に戻しましょう。実際には、支配側にあった武士達は、今様の言葉で言えば「民(たみ)ファースト」の精神で、自らは清貧でストイックな生活をしていたようですし、経済的にも貨幣経済や流通ネットワークが発達し、「当時の我が国は“世界最強の資本主義国”だった」と唱えている専門家もおります。
反面、江戸時代の各藩は、半ば独立していた「国」だったにもかかわらず、「武家諸法度」によって領土争いなども禁止されていたので、隣接国に“備える”必要がなくなりました。その結果、軍事技術の発達や兵法の研究がほとんどなされないまま時が過ぎてしまい、廃れてしまいました。
この時代の歴史に残る“争い”の代表は、歌舞伎などでも演じられて有名になった『忠臣蔵』の基になる「赤穂事件」だったようですから、本当に平穏な時代が続いたのでした。
▼「江戸時代」に出来上がった「日本の文明」
このように、江戸時代だけを考えれば、太平の世が続き、人々は幸せだったと言えるでしょうが、「鎖国は日本人のアジア雄飛を阻み、大東亜戦争の遠因となった」(渡部昇一氏)のような評価があります。
一方、「明治以降の和魂洋才の源は、16世紀のキリスト教禁止から鎖国にいたる外部遮断にあった」(歴史学者トインビー)との指摘もあります。“世界”を認識しながらも交流を閉じ、西欧や周辺国と峻別して“独自性”を優先する「日本の文明」とも言うべき、我が国特有の思想や行動様式は、江戸時代の特異な環境下で出来上がったものでした。
我が国が200年以上の“太平の世”をむさぼっていた17世紀から19世紀にかけて、欧州では「宗教改革」から「宗教戦争」、そして封建的な「絶対王政」の時代を経て、自由や平等を求める「啓蒙思想」が興りました。次回、振り返ってみましょう。