理研を全面支援したデンマークの科学者
正月でも有り香港を離れ、日本を支援したデンマーク人について書いてみたい。
年末の日経新聞の理化学研究所100周年の記事の中に国の関与が強すぎて今や活力がなくなった理研についての記事があった。「科学者の楽園今は昔」という題で約3000人の研究者を抱える理化学研究所が2017年で設立100年を迎えた。かつて「科学者の自由な楽園」と呼ばれたが最近は国主導の研究が中心で1917年の面影はない。理研は日本を代表する研究機関だ。発足は三共の初代社長の高峰譲吉が提唱した「国民科学研究所」がきっかけだ。
財界の渋沢栄一や当時の首相大隈重信らが賛同し1917年に設立された。のちにノーベル物理学賞を受賞する朝永振一郎はこのころ理研にいて「科学者の自由な楽園」と例え理研の代名詞となった。しかし敗戦によって最盛期63社もあった企業グループ理研コンツェルンは解体された.すなわち自前で研究費を調達する道が塞がれたこととなる。日本の敗戦後1958年に科学技術庁所管の特殊法人となり国主導の研究所として再出発した。その後筑波、横浜、神戸などにも拠点が広がり。スーパーコンピューター京の開発などに貢献した。
理研は16年に「特定国立研究開発法人」に指定されたが、文部科学省の役人の不作為もあり予算も各法人の運営費交付金も増えず国の関与だけが一段と強まっている。
このような環境下でどうすれば理研がかつての自由度を取り戻せるかというのがこの記事の主題だが政府の方針にそぐわない研究は必然的に手がけにくくなる。個人の発想に基づく研究は減り(社会に役立つ研究を)求められ数年で成果を生み出すテーマに流されやすくなる。このような時期にSTAPのような不正な研究も出てしまった。
国の科学技術予算は横ばいで各法人の運営費交付金も増えない中で国の関与だけが強まりつつある。と解説している。この記者の見方は卓見だが,現在の研究者の中には現状に満足している人も不満な人もいるであろう。実際の研究者としてはどのように考えているのか一般読者としても興味のあるところだ。何れにしても理研の経営の舵取りは日本の科学技術の将来性も左右するので注目に値する。
筆者が関係している日本デンマーク協会は今年日本・デンマーク修好条約締結150周年なのでいろいろな催事を行った。それにしても江戸幕府の最後の段階でよくぞデンマークと友好条約を結んだものと感心する。一般的に欧州大陸ではドイツとフランスが何世代にもわたって戦争を繰り返し、この両国が欧州大陸を支配していたとみられている。現在の北欧諸国は両国の支配下にあったわけだが、現状では世界で最も進んだ福祉国家となっている。
上記両国のほかロシアなど強国に侵略されたFinlandなどもあるが、pulp産業くらいしかなかった国が日本同様第二次世界大戦の敗戦国となり、賠償を梃子にNokiaをはじめ世界的企業を育成し、高度産業国となった例もある。Denmark, Norway, Sweden等何れもナチスに占領され敗戦国となった。我々は同じ敗戦国同士で学ぶことも多いが、Denmarkの場合Royal Copenhagenに代表されるような陶器とか、家具・照明器具、tableware,装飾品(レゴなど)等デンマークのデザインは世界を魅了している,更に国連ビル等もデンマーク人のdesignによるものだ。
昨年11月にCopenhagen大学の長島要一先生(デンマークでの生活が殆どで日本には久しぶりの帰国)に大正15年(1926年)と1937年のデンマーク人の日本訪問についてお話頂いた。この日本訪問は日本にいろいろな意味での刺激をもたらした。1926年のデンマーク人については「大正15年のヒコーキー野郎―デンマーク人による飛行新記録とアジア見聞録」と言う本があるとのことだ。一般的には欧州の敗戦国デンマークが日本軍の強化のため飛行機を日本に飛ばしたとは考えられないが、そこには深い戦略があったと考えられる。古いプロペラ機だが欧州からシベリアを超えて日本に向かった事は何となくロマンを感じる。1937年のニールス・ボーアについても「ニールス・ボーアは日本で何を見たかー量子力学の巨人、1937年の講演旅行」(2013年平凡社)で詳細を知ることができる。
ボーアは量子力学の確立に貢献し1922年にノーベル物理学賞を受賞している。アインシュタインなどと論争したが理研の、日本では原子核物理学の父と言われる、仁科芳雄博士をsupportし理研の名を世界的に有名にした。余談だが1937年訪日時、日比谷公園、日光、仙台、東北大、京都、奈良、雲仙などをcolor写真でとっており、最近の技術で復元されている。何れにしても、この当時デンマーク人が東洋の新興国に手をさしのべた事は特筆に値すると思う。