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3.11から5年、教訓をどう生かすか 被災地は人口減少・高齢化で心のケアも

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日本のみならず世界中を震撼させた3.11の東日本大震災、原発事故から5年がたった。5年は間違いなく、1つの節目だ。被災地の人たちにとっては、先が見通せないまま、厳しい試練の日はこれからもまだまだ続く。

私自身、ジャーナリストという立場もあり、これまで福島や宮城、岩手の3県の被災地の現場には本当に数多く足を運び、いろいろな方々に出会った。逆境を切り開こうとがんばっておられる人たちをさまざまな形で支援するのが私たちの大きな役目だと実感した。しかし同時に、大震災や原発事故時の対応から何を学び教訓とするか、特に今後いつ起きるかわからない首都直下型大地震や南海トラフに備えた災害対応で、今回の教訓を踏まえて「想定外」などとエクスキューズしないで済むような取り組みが重要だ、と痛感した。
そこで、今回は3.11から5年の節目に、何を教訓とするか、その教訓が生かされているのかなどに関して、コラムをお届けしたい。

マハティール元首相「日本だから、ここまで復興できた」メッセージ、率直にうれしい

その前に、世界の人たちが日本の復旧から復興、さらに創造的な復興への取り組みをどう見ているか関心があったので、いろいろな意見やコメントなどをチェックした。その中で、日本経済新聞の3月11日付の朝刊「大震災から5年」企画の「世界 見守る」というコーナーで、マハティール・ビン・モハマド・マレーシア元首相がインタビューに答える形で日本向けに発信したメッセージが、私たちにすごく元気を与えてくれる、という意味で、よかったので、ぜひご紹介したい。

「日本の復興は完全ではない。だが、日本だから、ここまで復興できたのだ。他の国ならば、国民は、より感情的になり、さまざまな問題が生じただろう。日本は自然災害や人的災害を克服する能力を世界に示した」
「痛ましい災害を通じて、日本は多くの教訓を得た。将来の災害に備えて、海辺の住宅を高台に移すなどの対策を進めた。生き残りのノウハウを蓄積し、災害予知の精神も高まっている。他の国が持たない強みで、新たなビジネスの機会を開くかもしれない」

「日本人の価値の一つは『恥を知る』ことだ。人前に出して恥ずかしいものを作ることをよしとしない。それが世界に誇る数々の製品の開発につながった。私たちは『ルック・イースト』政策を通じて日本から多くを学んだ。日本の若者は、外国に影響を受け過ぎだ。もっと日本に誇りを持つべきだ」と。

外国からの激励メッセージとは別に、被災地ではまだ厳しい現実が続く

マハティール元首相のメッセージのうち「日本だからこそ、ここまで復興できた」という部分は、日本をよく知っている人の発言だけに重みがあるが、率直に言ってうれしい評価だ。確かに、大震災などに遭遇した過去の海外での事例でも、暴徒化した群衆が略奪や暴行などに走り、人間のいやらしさ、むごたらしさを見せつける場面が映像で映し出されることもあった。そういった点で、マハティール元首相などから見れば、日本は、厳しい現実を運命と受け止め、互いに協力・協調しあって、しかも秩序だって復旧・復興に取り組む姿は、不思議な国民性だ、という評価になるのかもしれない。

しかし、その外部評価とは別に、被災地の現実は厳しい。私が歩いた三陸海岸沿いの岩手県下閉伊郡山田町や同じ岩手県上閉伊郡大槌町、宮城県本吉郡南三陸町では津波で流された町の中心部の土地かさ上げ工事、高台の宅地造成などが5年たった今も続いている。

岩手・山田町の佐藤町長  「がれき処理に2年間費やし復興取り組み遅れたのが反省」

そこで、今後の教訓になる問題を山田町の事例にあてはめて考えてみよう。山田町の行政庁舎がある中心部は、土地かさ上げ工事のためダンプカーなどトラックの数ばかりが目につき、人の姿はまばらだった。仮設の商店街も、人かげが少ない。大震災前に、中心部に住んでいた人たちが避難を余儀なくされ、高台の仮設住宅などに移り住んでいるため、やむを得ないにしても、本当に人の動きが少ない。復興工事が終わっても、いったいどれぐらいの人たちが戻ってくるのか定かでない状況だ。

運よく出会えた山田町の佐藤信逸町長は当時のことを述懐する。「最初の2年間は、行方不明者の捜索とともに災害がれき処理、応急仮設住宅の建設に追われ、困難を極めた。とくにがれき処理は、町の予算739億円の半分近い300億円をつぎ込まざるを得なかった。町の復興基本計画の作成、それにもとづく津波災害から町や住民を守るための土地かさ上げ工事などに本格的に取り組んだのが3年目からだ。すべてが初体験で、対応が遅すぎたが、行政サイドに災害対応のノウハウが十分になかったことも反省材料だ」という。

「私権制限してまで公共用地提供を求めることが可能か事前に調整が必要」

佐藤町長によると、復旧から復興に至る問題で今後につなげる教訓は、数多くある。中でも、住民の人たちを高台の仮設住宅に避難させるにあたって、高台の用地確保のための買い取り交渉が難航した。先祖伝来の土地を売り渡すにあたって住民側には躊躇があるのと高く買い上げてほしいとの意向が強いためだ。町の中心部でのかさ上げ工事に伴う土地の買い取り交渉も同じく困難を極めた。地権者が津波災害で死亡、もしくは行方不明で交渉が宙に浮くケースもあった。決定的なのは、私権制限してまで公共用地に提供を求めることが憲法に抵触してしまうため、復興工事が進まなかったことだ。「私」の権利を「公」の論理で押し切れないことだ、という。

結論的には、山田町は、基幹インフラの再構築を軸に、2021年までの町の復興基本計画を粛々と進めているが、災害復興公営住宅に関しては、町が主導して作るにしても、人口の高齢化で入居後に介護が必要で移転したり、あるいは亡くなられたりすると空き家になるリスクもあるため、自治体にとって維持費用の負担などで新たな悩みが出る。
そこで、山田町は佐藤町長の発案で、「山田型復興住宅」をめざした。要は、住民が自主判断で住宅再建を行えるように、町が被災者向けの住宅再建支援制度を充実させ、被災者生活支援や住宅再建支援などを含めた補助金を最大560万円分、補助する仕組みだ。佐藤町長は「被災者の方々にとっては持家になる。自治体にとっても公営住宅で用地買収から四苦八苦することもなくなる。長い目でみればプラスだ」という。

宮城県南三陸町の佐藤町長 「人口減少が誤算、インフレ整備しても人口戻らず」

復興に取り組む被災地自治体の大きな悩みは、5年の長い歳月の中で、次から次へと変化して、新たな行政課題として、悩みが登場してくる。宮城県本吉郡南三陸町もその1つだ。町の中心部にあった町の行政庁舎が押し寄せた津波で鉄骨だけの無残な姿に変り果て、職員43人が逃げ遅れて犠牲になった町だが、私自身、過去3回、定点観測のような形で訪問したが、5年たっても際立った復興に至っていない。

最近、NHK―TVの3.11特集番組で、佐藤仁町長がインタビューに答えて、5年目時点での教訓を語っていたので、そのいくつかを紹介させていただこう。
佐藤町長は「1万7000人いた町の人口がいま、29%も減少してしまったうえに、その回復のめどがついていないことが最大の誤算だ。昔ならば、漁港などのインフラを復旧すれば、自然と人口が戻ってきた。そこで今回も、私たちは基幹産業の漁業の立て直しが基本だと折立漁港の復興に手を付けたが、肝心の漁業者はピーク時に比べ3分の1に減ってしまった。水産加工場も同じだ」述べている。要は、復興資金などを使って、インフラ整備をどんどん進めたが、人口減少に歯止めがかからず、下手をすると町の存立基盤が崩れかねないのだ。

復興の長期化でハードのインフラ整備よりも避難民の心のケアなどソフト対策必要

問題はまだまだある。とくに、被災地を回って、よく耳にしたのは、人口減少で親しかった人たちがバラバラに離散したことに伴うさまざまな問題で、とくに被災して避難した仮設住宅生活では周囲とのコミュニケーションがうまくいかない高齢者の人たちの孤独死や買い物など日常生活の不自由さからくるストレスで心の病気に陥るケースが予想以上に大きな広がりとなっている。いわば心のケアが必要な人たちが急増しているのだ。

復興資金調達のための復興増税などで総額26兆円の資金が、これまで5年間で道路や港湾、鉄道、さらに仮設住宅、災害復興公営住宅の建設など、ハードインフラの再構築に最優先に使われてきた。それは、それで必要なことだったが、南三陸町のケースを見るまでもなく、町の基幹産業の漁業復興のために折立港の港湾設備などのインフラに手をつけても、肝心の漁業者が戻ってこないため、ハードインフラが生きなかったのだ。南三陸町と同じ条件にある山田町でも養殖漁業の復興に行政がエネルギーを費やしたが、避難した人たちがまた故郷に戻ってくるには商店街や学校などさまざまな生活基盤が確保されていることを望むのに、それがままならないため、一種の悪循環に陥っているのだ。

今後の首都直下型・南海トラフ地震対策につなげるには教訓をどう生かすかがカギ

これらはほんの一例の話だ。5年たったいま、被災地は、政府の言うような復旧から復興、さらに創造的復興に至る復興プランの筋書き通りに行っていない現実がある。最大の問題は、人口減少になかなか歯止めがかからないこと、また被災地にとどまった人口のうちで高齢化が急速に進み、しかも心のケアが必要な人たちが急速に増えてきたことだ。これらの教訓を今後の大災害にどう生かすか、という問題が大きく横たわっている。

今後の大災害は、すでに言われている首都直下型大地震や南海トラフ地震にとどまらず、かつての阪神淡路大震災のような「想定外」の地震もあり得る。
東日本大震災と阪神淡路大震災は質的に異なるのは言うまでもない。前者は、東京電力の原発事故という原子力災害も加わったが、基本的には、沿岸部への津波による災害で、もし同じような大災害が太平洋岸の東海地区や四国、九州沿岸部に起きた場合、今回の東日本大震災の教訓をどう生かすかだ。
後者の場合、すでにおわかりのように人口集中した大都市での災害が首都直下型地震という形で起きた場合、阪神淡路大震災時の教訓をどう生かすかだ。

ネガティブな話ばかりでない、日本をガラッと変える新しく、かつ成熟社会づくりも

ネガティブな話ばかりしてしまったが、大震災をきっかけに、日本をガラッと新しく、しかも成熟国家に見合う都市づくり、町づくり、あるいは地域づくりのモデル事例にすることも必要だ。同時に、これまでにない発想の産業や企業を輩出あるいは誕生する枠組みづくりももちろん重要だ。
大事なことは、状況に流されないで、阪神淡路大震災や東日本大震災の教訓をこの際、整理して、問題や課題を抽出し、もし同じレベルの大震災が起きた場合に備えて、どう対応するかのプログラムづくりが重要だと思う。

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