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終わりの始まり(1):EU難民問題の行方

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前回に紹介したマンガ(劇画)として描かれた17世紀の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの話は、フィクション(虚構)ではあるが、かなりの程度、確認された史実に即している。その一部分だけ種明かしをすると、物語は戦争、悪疫、天災、飢饉などが次々と襲ってきた17世紀「危機の時代」を、画家とその家族がいかに生き延びるかという話が描かれている。画家が生まれ育ったロレーヌは、この時代、30年戦争などの戦場となり、画家を含む住民たちは、そのたびに少しでも安全な場所へと避難を迫られた。マンガにも画家の一家が逃げ惑う光景が出てくる。言い換えると、この時代、ロレーヌの民は君主も含めて、現代の難民のような状況に追い込まれることが稀ではなかった。

実際、ロレーヌ公自身が亡命している。町が軍隊の侵攻で襲われ、略奪、暴行、火災などで脅かされることは、しばしば起きた。それらの光景はこのブログでもたびたび記したジャック・カロの『戦争の惨禍』に描かれている。住民の多くを占める農民などは逃げる場所さえなかった。少しでも安全な地へ避難するには、それなりの資金や伝手が必要だった。今日の移民、難民が多額の金をブローカーにとられながらも、少しでも安全な地へ逃れたいと思うのと同じである。ラ・トゥール一のように、裕福な家族は馬車を雇ったりして、公国の公都ナンシーの隠れ家などへなんとか避難した。しかし、その道は今日と異なり、山道といってよい難路であり、追いはぎ、強盗などが頻繁に出没した。ブログにもその光景を描いた資料(時代小説)を紹介したこともある。この時代のロレーヌの状況は現在のシリアや北アフリカとあまり変わらないともいえる。ラ・トゥールが護身用にピストルを自宅に所有していたことは記録に残っている。画家の自宅に徴税吏が来た時の光景がほうふつとする。

写真の力が訴えるもの
一枚の写真が閉塞した問題状況を切り開く力となることは、これまでの歴史の過程でも時々あった。東や南から押し寄せる難民に門戸を閉ざしていたEU諸国が、大きな衝撃を受けた写真が、メディアで話題になっている。

シリア難民の父親(家族で唯一の生存者)が、溺死して波打ち際に横たわっている光景、そして幼い息子の遺体を抱いて、トルコの海岸に立ちつくしている写真は多くのメディアのトップに掲げられた。さらに、9月4日のEU諸国の新聞やTVは、ハンガリーの小さな鉄道駅Bicskeで幼児を抱き抱えた妻と夫が鉄道線路に横たわり、それを引き離して送還しようとする警官に抵抗する迫真力を持った写真が掲載されたり、TV報道された。
これまで増え続ける難民に、頑なな対応を維持していたEU諸国も衝撃を受けたのだろう。人道的視点から態度を軟化し、難民受け入れ人数を増やす方向に動き出した。EU本部は、今週、難民受け入れ数をわずか2ヶ月の間に4倍に増やすことで各国との協議を始める予定だ。ドイツとフランスはなんとか協調できるようだ。そして、受け入れに抵抗していたイギリスも仕方なく方向を修正する。しかし、受け入れる数はドイツが際立って大きく、他は依然として付き合い程度という感がある。他の東欧諸国は国力もなく、最近までは移民の送り出し国だった。引き受ける態度を示していない。

今年、移民、難民の最前線、ギリシャ諸島からブダペストへの移動者数は、35万人に達した。彼らは生存のために、少しでも可能性の高い地域を求めてさらに移動する。IT技術の発達で、彼らは自分たちがいかなる状況に置かれており、どこへ行けば受け入れられるかを探索している。地中海をブローカーのボロ船で渡ることが危険であることが分かってくると、陸路を選択する難民、移民が増加する。まさに、グローバル・マイグレーションの本格化である。

鍵を握るドイツ
難民・移民の目指す先として、格段に突出しているのは、受け入れに寛容とみられるドイツである。すでに多くの難民がミュンヘンなどドイツ南部へ到着し、市民から歓迎される光景が報道された。 このドイツの寛容さを支えているのが、人道主義的観点から難民受け入れに対応するメルケル首相の指導力だ。そのメルケル首相でさえ、9月5日の週末は「息を呑むようだった」と述べたほどだった。

The Economist 誌(September 5th,-11th, 2015)は「勇敢なメルケル」Merkel the bold と強く賞賛している。すでに彼女の評伝は多数刊行されているが、際立つのはその目立たないが、果敢な決断力だ。ドイツは過去の歴史のこともあり、EUでは突出した経済力を擁しながらも、メルケル首相はできうるかぎり、他国との協調を図り、目立たないように行動しているといわれる。かの「鉄の女サッチャー首相」と比較しても、堅実で地味に、しかし、驚くほど巧みに行動してきた。東ドイツでの忍耐を強いられた日々の経験が生きているのだろうか。首相就任以来の彼女の服装は、もうおなじみのものとなった。

メルケル首相はシェンゲン協定(パスポート・フリー・ゾーン)諸国も庇護申請者の受け入れをしないと破綻するとしている。しかし、ハンガリーなど、中・東欧には受け入れ反対の国が多い。確かに8月だけでもハンガリーには5万人が流入している。難民は最初に庇護申請をした国に留まるべきだとするダブリンIIIルールは機能しなくなっている。

厳しい試練
過去数年間、ヨーロッパはシリアや北アフリカの問題をほとんど真正面からとらえることを避けてきた。シリアの破綻はアメリカがイラクに侵入した結果だと考えてきた。リビヤはカダフィを追い出したことで終わったと思っていたかもしれない。

ヨーロッパの主要国は、緊縮財政、不況、そして決して解決できないユーロ危機に頭を悩ませてきた。シリアのアサドの暴政あるいはISの犠牲者である難民についても、周辺的問題としてきた。しかし、いまやその周辺問題がE、Uの基盤、結束を揺るがし、分裂させかねないところにまでなっている。

近年、EU は中心的結束力を失い、空洞化している。唯一安定し、実質的基盤を維持しているドイツは、EUの崩れそうな土台を懸命に支える役割を負わされている。ベルリンは今年80万人近い庇護申請者を事務処理しなければならないかもしれない。フランス、イギリスなどの加盟国が及び腰であったことが、ドイツの負担を大きくした。

さらに、ハンガリーの首相ヴィクター・オルバンが175kmのレーザーワイヤーの壁を国境に張り巡らそうとしていることだ。さらにスロヴァキア政府はイスラムでない難民だけを受け入れ審査の対象にするとしている。旧共産圏の国々が誤った路線をとりつつある。自国がEU加盟を果たせば、後はシャットアウトするというのも、拙速な感じがする。新しい移民・難民システムの再構築の中で、考えてほしい。

元来、同じような発展段階、体制にない国々をEUの傘下に入れることは、いずれ自らの存立を脅かすことは、ほぼ予測されたことだ。難民、移民はいまやEUの域内外から基軸国を目指し押し寄せてくる。しかし、状況をグローバルな視点で見渡すと、EUだけでこの問題を解決することは、ほとんど不可能だ。すでに、オーストリラリアやスエーデン、、そしてアメリカが一定数の受け入れを表明している。厳しい人口減少に直面している日本は、相変わらず沈黙しているだけだ。いくら国際協力を標榜しても、苦難の時に手を差しのべてくれない国には信頼は生まれない。

EUの領域に限っても、加盟国の協調なしには、もはや解決の道はない。必要とされるのは、グローバルな視点に立って、EU全域に適用しうるよく考えられたシステムを再構築することだ。メルケル首相はまた働かねばならないだろう。そのためにも、移行措置となる最初の割り当てだけは、各国は受け入れるべきだろう。時間の浪費は事態の悪化をもたらし、解決を不可能にし、域内諸国の分裂を深めるばかりだ。それ以上に火急の急務は、難民の流れ出るシリアの内戦の停止など、火元の消火活動だ。燃えさかる火災を放置したままで、難民問題の解決は考えられない。

References

Financial Times September 4th 2015
The Wall Street Journal, September 8th 2015

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