終わりの始まり:EU難民問題の行方(23)
2016年6月10日
シリア内戦に関わる各利害グループの支配地域(2016年5月16日現在)地中海(西)側の青色で塗られた地域はシリア政府支配、東側上部の赤色部分はISIS支配、緑色部分はクルド勢力地域と推定。クリックで拡大。
‘Never-ending horror’ The Economist June 4th 2016
中東屈指のシリア、パルミラ遺跡が奪還され、シリア国旗がはためく映像の光景を見て、この地の未来に小さな光が見えた気がした。あのタリバンがバーミヤンの巨大な石窟像を無残にも破壊した衝撃の瞬間は、脳膜から未だに消え去っていない。筆者はパルミラの地を訪れたことはない。しかし、イギリス、ケンブリッジに滞在していた折、友人となった中東遺跡保存を仕事とし、バグダッドなどの博物館再生に従事していた考古学者からかなりのレクチュアを受け、多くの啓発を受けた。ちなみに彼は日本の三笠宮崇仁親王(オリエント研究者でもあり、その国際的発展に大きく寄与された)、そしてオリエント学者へ多大な尊敬の念を抱いていたことを憶えている。家にはボール箱やむき出しの遺跡の断片、ほとんど石のかけらとしかみえない石像の一部などが所狭しと置かれてあった。あの華麗な「アフガンの輝き」とは異なる、東西文化交流の道に展開する壮大な遺跡群の存在を知り、驚き、圧倒された。パルミラ Palmyraは、シリア中央部のホムス県タドモル(アラビア語タドムル、Tadmor)にあるローマ帝国支配当時の都市遺跡でシリアを代表する遺跡の1つである。1980年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。ローマ様式の建造物が多数残っており、ローマ式の円形劇場や、浴場、四面門が代表的建造物だ。残念ながら映像だけで、自分の目で見る機会は逸してしまった。
現実に立ち返ると、シリアの実態は映像で見る限り、目を覆うばかりの荒廃状況だ。EUとトルコの難民に関する大筋の合意が成立したことで、確かにギリシャなどへ流れ込む難民、移民の数は減少したが、アフリカなどからイタリアなどを目指す「地中海ルート」が復活し、ボート転覆などの痛ましい海難事故が、すでに多数の犠牲者を出している。他方、シリアなどの中東難民は、隣国トルコや国内で、終わりの見えない内戦の行く末を見つめながら苦難の日々を過ごしている。シリア、アフガニスタンあるいはトルコでは、連日のように爆弾テロなどのニュースが報じられている。
難民問題への対策は、送り出し国、受け入れ国、移動の経路など、それぞれの次元で対応が異なるが、最重要な政策は難民が発生する源において、その原因を絶つことにある。シリアの内戦は今年で6年目に入る。さらに悪化する兆しは見えないが、戦争自体は絶えることなく続いている。本来、今年2月27日をもって休戦の段階に入るはずであった。依然として爆撃、砲撃を続けている政府軍およびロシア空軍は、対象を過激派 extremists に限定しているとしながらも、一般市民などが死傷する被害が絶えない。
正義を見極める困難さ
状況は第三者の介入をほとんど拒むような、複雑な内戦状態であり、外交経路での休戦、停戦への努力も入る余地がなくなっているといわれる。反体制派の交渉代表が、休戦の話し合いは「失敗した」と述べている。当初の見通しとは大きく異なり、アサド政権は息を吹き返し、廃墟と化したシリアで 、あたかも自ら王冠を戴いているかにみえる(The Economist June 4th 2016)。この状況で、どのグループが正義の保持者かを見極めることは、かなり難しくなった。
アラブ世界を代表するといわれる詩人アドニス Adonis は、今はパリに亡命しているが、2011年以来、シリア内戦について積極的に関与してきた。ノーベル文学賞候補にもあげられてきた著名人だ。多くの人々は、彼の詩人として、さらにアサド家と宗教上の流れを同じくするアラウイット 派 Alwaite のつながりに期待してきた。内戦初期にはアサド大統領に平和的な内政移管を促す書簡を送ってもいる。
今年春、パリでのインタビューに、アドニスはこう答えている。
「 何も変わらなかった。それどころか、問題は悪化した。40カ国もの国がISISに2年間も対しながら、なにもできなかったとはどういうことなのか。政治と宗教が切り離されねばなにも変わらないのだ。なにが宗教的で、どれが政治的、文化的、社会的なものであるかを区別しなければ、なにも変わらないし、アラブの没落は悪化するばかりだ。宗教はもはや問題への答えにはなりえない。宗教は問題の原因ではある。それゆえに、両者は区分されねばならない。自由な個人なら誰もが、望むことを信じ、他人はそれを尊重する。しかし、宗教を社会の基盤にすることなどできるのか。否だ。」(NYRB April 16 2016)。
イスラーム教徒でもなければ、その文化についてもわずかな知識しか持たない者にとって、この地の戦争を支配する考え、根底に流れる真理を理解することは到底できない。しかし、日本を含め、西欧の多くの人々にとって、現在の段階では、イスラームはこれまでの先入観や感情で、反応している存在ではないか。新たな時代の文脈でイスラームの存在と意義を世界史の次元に位置づけるという試みは少ない。イスラームの世界が簡単に理解できるような表題を付した書籍がいまや山積しているが、数少ない傑出した思想家や研究者の作品を別にして、その多くは見るからにかなり怪しげな内容だ。アラビア語の習得を含め、イスラーム世界についての講座は大学でも少ない。イスラームは西欧以上に、日本にとっては遠い存在であったがために、研究・教育面でも立ち後れが目立つ。正確な判断ができるのは、おそらく数十年というような長い時間の試練を経てのことだろう。
「内なる戦い」をいかに理解するか
現在起きているシリア内戦の重要な側面のひとつは、アサド政権対反体制派の戦いだけではない。イスラームというひとつの文明の内部での対決という視角もある。近刊のThe Economist 誌は、これを「内なる戦い」The war within と形容した。
“The war within” special report The Arab World, May 14th 2016
たとえば、アサド政権の家系は アラウイット Alawites という九世紀頃の創始で、主としてシリアを本拠地とするシーア派のひとつに含まれるといわれる*。しかし、その歴史を垣間見ただけだが、現在にいたるまでシーア派からは異教徒、異端と見なされ、激しい抗争、迫害が繰り返されてもいる。
*アラウイットは予言者ムハンマドのいとこにあたる Imam Ali bin Talib の教えに従う流れを継承するとされ、スンニ派の権威は受け入れない。政教分離の考えはアラウイットの独自の伝統とされる。九世紀以前はさまざまな名前で呼ばれていたようだが、Bashar al-Asad の父親であるHafez al-Asadが権力を掌握するようになって以来、シリアのアラウイットはこの地域を掌握、彼らに忠誠を誓わせてきた。アラウイットの間でも、多くの反抗者がいて、投獄、弾圧などの対象になってきた。現在のアサド大統領になっても、その姿勢は変わらずに今日の内戦につながってきた。このたびのシリア内戦の過程でもアラウイットは概してBashar al-Asad を支持してきた(Samar Yazbek 2015)。
しかし、イスラームが今や世界の文明の行方を定める重要な決定的勢力となっていることは確かである。それだけに、今後の世界を生きる人々、とりわけ若い世代の人々には、イスラームについての関心と正確な理解の深化を期待したい。
References
‘Never-ending horror’ The Economist June 4th 2016
“Now the Writing Starts”: An Interview with Adonis, Jinathan Guyer, The New York Review of Books, April 2016
Semar Yazbek, The Crossing: My Journey to the Shattered Heart of Syria, London: Rider, 2015
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偶然の一致だが、バーミヤン遺跡の再現についてのレポート『アフガン秘宝半世紀』が放映(2015年6月13日BS1)された。チェコのプラハで開催されているアフガニスタンの遺跡展についても報じられた。アフガニスタンの美術については、本ブログでも何度か記してきた。