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マハン海軍戦略(その3)――マハンが「海上戦略史論」に執筆者になれた理由

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  • 天・地・人

既に述べたように、古来より、事を成すには、「天の時(時代的背景)」、「地の利(立地条件)」、「人の和(人的要素)」という3つの条件が必要だといわれる。前回、前々回とマハンの「海上戦略史論」が世に出た(1890年)頃の「天の時」と「地の利」についてのべた。今回は「人の和(人的要素)」について説明したい。

  • マハンの生まれた時代的背景――白頭鷲の成長に喩えて

海軍の代名詞のようなマハンは、実は1840年にウエストポイント米陸軍士官学校の構内で生まれた。後から述べるが、父のデニス・マハンが同校の教官をしていた。マハンが「海上権力史論」を世に出す時代的背景については前号で述べた。当時の米国を、国鳥の白頭鷲の成長に喩えて言えば、こうだ。欧州の植民地という形で産み落とされた白頭鷲の「卵」は、13州からなる合衆国として1776年に独立した。これすなわち、「雛鳥」の誕生である。「雛鳥」が猛烈な勢いで餌を啄ばむが如く、新生米国は領土を拡張し、大陸横断鉄道などの経済インフラを整備し、大国に発展する素地を確立するに至った。このことを、白頭鷲に喩えれば、「卵から孵化した雛鳥はやがて、親鳥並みの体躯に成長した」といえよう。マハンが、「海上戦略史論」を世に出したのは、親鳥並みの体躯に成長した雛鳥――新興国家の米国――が、間もなく巣立ちの時を迎えた頃だった。白頭鷲の若鳥は、新しい風を捉え、空中に舞い上がり、雄雄しい未来に向かって飛び立つ時を迎えていた。マハンの「海上戦略史論」は米国といういわば巣立ちの時を迎えた新興国家に、「魂」を吹き込む役割を果たした、と私は理解している。

  • マハンに大きな影響を与えた父

マハンに知的な学研肌のDNAをくれたのは、父のデニスだった。また、マハンに研究者としての姿勢と手法を教えたのも父であった。デニスは、陸軍士官学校を卒業後、母校の教授(戦略・戦術・土木工学)となった。デニスは「軍人は、戦史を研究することにより戦争術を学ぶことができる」との信念を持ち主だった。後にマハンは、「父の手法」で、1660年から1783年までの、英国、オランダ、フランス、スペインの間の闘争の歴史を分析し、「制海権を握り、重要な地点を確保した国が歴史をコントロールした」という結論を導き出している。マハンは、2度もマハンの自宅を訪ねて来た秋山真之――日本海海戦の首席参謀で、戦勝の立て役者、稀世の軍略家――にも、戦史研究の重要性を教えた。秋山は、マハンが「『戦略戦術を研究しようと思えば、古今の陸・海上の戦史を研究し、その成功・失敗の原因を究明せよ』と教えた」と述べている。

また、デニスがマハンにジョミニの著書「戦争概論」――マハン誕生の二年前に出版された――を与えたことも注目される。マハンは、ジョミニを研究したものと見え、著書には、その著「戦争概論」の引用が随所に出てくる。マハンの海上戦略思想は、ナポレオンの陸上戦闘史から帰納法的に抽出した「ジョミニの(陸上)戦術理論」を、広大無辺の広がりを持つ海洋上に適用(応用)し「焼き直したもの」ではないか、と筆者は考える。

  • マハンが「海上戦略史論」に執筆者になれた理由

第一の理由は、海軍士官になったからである。マハンは、コロンビア大学に入るが、当時流行った海洋物語を耽読し自宅から見えるハドソン川を行き来する船を眺めているうちに海へのロマンを掻き立てられ、アナポリスの海軍兵学校を志望するようになった。父のデニスは猛烈に反対した。その理由は、息子マハンは軍人向きではなく、牧師や教師などの知的職業がふさわしいと判断したからだ。結局は父が折れ、アナポリスに入学した。

第二の理由は、「ペンの人」だったから。マハンは筆が早く、語彙が豊富で、達意の文章が書け、しかも筆まめだった。生涯に書いた手紙が一万通以上。執筆した単行本は、20冊、論文・記事は137編。また、マハンは、「書くこと」に極めて執着した。そのためには、海上(艦上)勤務を忌避するほどだった。マハンのアナポリス卒業成績は二番であり、本来なら、海上勤務で精励して出世し、将官に栄進するはずだった。もしそうであったなら、米海軍大学校の戦史・戦略教官などに就任することはなかっただろう。マハンは性来「孤高の人」で、多くの兵士を督励・指揮する機会の多い軍人・将校タイプではなかったようで、海上勤務に就きたがらかった。結果として、海軍戦史の研究・執筆に多くの時間を割ける陸上勤務が長かった。マハンは、海軍士官としての収入の他に、執筆による原稿料収入にも大きな魅力を感じていた。執筆は、マハンの名声を高めると共に、割の良い収入の道を開いた。マハンを嫌うグループの海軍士官は、マハンを「ペンとインクの船乗り」とか「戦争に行かず本を書いて金儲けをする海軍士官」と蔑んだ。

第三の理由。マハンが海軍大学の創設(1885年)に伴い、同校創設の中心人物だったルース少将から講師就任の打診を受けたこと。当時マハンは、艦長としてペルーにいたが、これを契機にマハンはドイツ人史家テオドール・モムゼンの一大傑作「ローマの歴史」を読み、シー・パワーや制海権の歴史的な意義についてインスピレーションを得たといわれる。その後マハンは、第二代目海軍代学校長(1886~89年)勤め、この間、講義を行うためにシー・パワーの歴史研究を深め、講義用の草稿を作成した。後にこの草稿をまとめられ、「海上戦略史論」の原稿となった。

第四の理由。それは、売れるかどうかも分からない「海上戦略史論」の草稿をリトル・ブラウン社が引き受けたことだ。筆者も様々な本の原稿を書き、出版社に売り込んだ経験があるが、現下の出版不況にあっては、簡単に引き受けるところは無い。自らの原稿を自らが「営業マン」になって、執念でその意義と「売れ筋」であることをアピールしなければならない。出した本が一定の評価を得、売れることが証明されれば、今度は出版社からの「お願いベース」で引き受けることになる。「海上戦略史論」の原稿もリトル・ブラウン社が拒絶していたら、世界的反響を呼び、米国の国家戦略ともなった、同書は歴史に埋もれてしまったかもしれない。

 

(おやばと掲載記事)

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