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「我が国の歴史を振り返る」(76) 「大東亜戦争」の総括(その4)

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▼はじめに

前回、“軍が独立した政治意識”を持つようになった要因を取り上げましたが、畏れ多いこともあって「軍人勅諭」については触れませんでした。少し補足しておきましょう。

明治15年に賜った「軍人勅諭」を改めて読み返しますと、まず、このような「勅諭」を必要とした明治時代の世情に思いが至ります。「軍人勅諭」は、「『天皇の軍隊』としてのあるべき姿」を強調されていることは間違いなく、その第1項で、(意訳をすれば)「軍人の国に報いる心」を強調した後に、「・・たとえ世論にまどわされる政治であったとしても、ただ本分の忠節を守り・・・」とあります。

明らかに、“政軍分離”です。しかも「政治」よりも、「統帥大権を有しておられる天皇に忠節を誓って国に報いる」ことの方が上位概念にあると考えます。

昭和時代においては、この忠節の精神が「軍人が(政治に関与し)国を背負う」ところまで拡大解釈されたのでした。

山縣有朋は、明治後半、政党政治が軍政に浸透してくることを防止する狙いから「軍部大臣現役武官制」を提唱しました(明治33年)。そして大正初めに一度廃止された本制度は、広田弘毅内閣において、「二・二六事件」の後に“予備役に編入された”「皇道派」の荒木貞夫、柳川平助、小畑敏四郎らが再び軍部大臣に復活することを阻止するという寺内寿一陸相の主張に海軍も広田首相も同意し、復活します。

しかし、その後の歴史は、この復活が思わぬ禍根を残すことになります。陸軍大臣、つまり“軍部が内閣の死命を制する”こととなったのです。事実、これによって、宇垣一成の組閣が阻まれ、米内光政内閣が倒れることになります。

今の自衛官達は、“シビリアンコントロールする”(戦前の言葉で言えば、統帥大権を有している)側にある「政治」について、「政治的活動に関与せず」と宣誓をしますが、「政治」の意味や地位が戦前とは全く違うと考えるべきでしょう。

▼本歴史シリーズ流の総括

本歴史シリーズは、我が国と西欧列国のかかわりを持った16世紀の「大航海時代」から始まりました。以来、約260年にわたった江戸時代の鎖国を経て明治維新の「富国強兵」などの政策、日清・日露戦争、さらに大正時代から激動の昭和に至るまで、「迫りくる西欧(のちに欧米)諸国の脅威に対処するため、先人達がいかにして我が国の独立を保持し続けてきたか」、つまり、我が国の「国防史」を明らかにすることがその大きな目的でした。

我が国は、欧米諸国や周辺国との関わり合いの変遷の中で、国家の存亡を賭けた「戦争」を選択することを余儀なくされ、国を挙げて果敢に戦うも、「敗戦」という結果に至りました。

本文の中で、どのような経緯を経て、かつ、時のリーダー達がどのような思いと覚悟をもって「戦争」という選択肢を選んだかについてはその都度触れてきました。

そして、「ポツダム宣言」や「東京裁判」のように、「一方的に我が国の行為を悪とする」ことは「史実は違う」こと、(百歩譲っても)「侵略したのはアメリカであり、アメリカに日本を裁く資格はない」と主張するヘレン・ミアーズに代表されるような「違った見方がある」ことについて何度も触れてきました。

ここでは、我が国が「敗戦に至った」事実に焦点をあてて、主に政治・軍事戦略上の視点から“歴史シリーズ流”に総括し、そこから未来に繋がる教訓や課題を導きたいと考えております。

さて、いかなる「戦争」も、その原因、経緯、結果については彼我両サイドから分析する必要があることは論を俟ちませんが、本シリーズの特性上、我が国側の「先天的要因」「後天的要因」それに「戦争指導上の要因」に絞り、欧米諸国と比較においてそれらの特性を浮き彫りにしたいと考えています。なお、すでに総括した内容との重複を回避しつつ努めて簡潔に総括したいと思います。

▼先天的要因

まず「先天的要因」ですが、我が国は、本シリーズの第1話で紹介しました特性、つまり「四面環海」「単一・農耕民族」「万世一系」「少ない戦争経験」「Far East」など、地政学や民族性に根ざした独特の特性を保持しています。

これまで何度も紹介しました西鋭夫氏は、「どの国の歴史も、戦争と平和の歴史だ。良し悪しを越えた、生きるための死闘の歴史だ」と語っているように、生存のために何度も何度も戦争を繰り返して欧米諸国や中国と比較して、我が国の特性は、戦争経験が少ないことをはじめ、“他国や他民族との戦争に向かない”ものばかりであることがわかります。

我が国においては、武士の興隆が著しかった鎌倉時代から戦国時代までしか「兵法」も発達せず、その「兵法」も同質の文化や技術を有する敵を相手とする、もっぱら国内戦用だけでした。

そして、「鎖国政策」を採用した江戸時代は、個人の修養として「武士道」が発達しましたが、集団として「戦う知恵を涵養する」必要もありませんでした。

ようやく幕末になって、異国からの国防も叫ばれますが、総じて、我が国は、古典的兵法である「孫子」やクラウゼヴィッツの「戦争論」のような、普遍性のある「兵法」を生み出し、外から備えのために軍備を整える必要性がほとんどないという、幸運な環境に恵まれまま時が過ぎました。

▼後天的要因

「敗戦」に至った「後天的要因」もいくつか挙げられるでしょう。まず第1には、(よく言われる)日清・日露戦争の“おごり”です。

欧米列国の進出に伴い、我が国は、明治維新以降、「富国強兵」をめざし、にわかにプロシアやイギリスに学び、近代的な陸海軍の建設をめざします。

江戸時代に蓄積してきた手工業技術が功を奏し、その上、明治の人達の並々ならぬ努力もあって、西欧諸国から器用に学んで整備した“にわか近代軍”がまさに完成しようとした矢先に、日清・日露戦争に突入、幸運にも両戦争で勝利してしまいます。いわゆる“ビギナーズラック”を体験します。

日露戦争後の連合艦隊解散の辞で、東郷平八郎元帥は、有名な「勝って、兜の緒を締めよ」と訓示しますが、元帥自ら“艦隊派”の総帥に担ぎ出され、時流を見誤り、世界に冠たる“大艦巨砲主義”を目指すことになります。

元帥はまた、「百発百中の砲1門は、百発1中の砲百門にまさる」の発言によって兵士の訓練など無形戦力の重要性を説きます。このこと自体は決して間違っていないのですが、結果として、日本人の手で開発された八木アンテナが活用されなかったなど、先端の科学技術を何としても軍備に導入しようとする戦力戦法の創造や改善が不十分なまま時が過ぎます。

陸軍も第1次世界以降2度の軍縮を敢行し、総戦力量を減らして近代化を目指しますが、「ノモンハン事件」を体験するまでは、“百戦百勝”の支那軍を相手にしていたこともあって、近代化途上のまま、大戦に突入します。

その上、「情報」や「兵站」(後方支援)、何よりも「人命」まで軽視するという、あるべからざる戦法が、(勝利に終わった)日清・日露戦争の経験を顧みることなく、いつの間にか陸軍の伝統のように定着してしまいます。

また、前回取り上げましたような「国家総動員体制」整備も陸軍内の抗争などから十分には進展しないまま大戦に突入していまいます。この点でも、第1次世界大戦に直接参戦した欧米各国と差ができてしまったと考えます。

大正時代から第1次世界大戦以降の軍縮ムードや「世界恐慌」の影響による財政削減などの影響をあって、すべて陸海軍の責任とすることには無理がありますが、こうして昭和天皇のお言葉の「精神に重きを置き過ぎて科学を忘れた」に至ります。

日進月歩する科学技術や世相を反映して戦力戦法を随時見直す必要があるのは、いつの時代も変わらない普遍の原理です。軍縮条約や財政上の制約など様々な障害があったにせよ、平時から軍の近代化を真剣に研究し、実行すべきであったことは悔やんでも悔やみきれないことと考えます。

さて「後天的要因」の第2は、為政者の判断を狂わした「ポピュリズムの台頭」です。戦前のポピュリズムは、日露戦戦争後の「日比谷焼き討ち事件」から始まったといわれますが、大正デモクラシーを経て昭和に至ると、マスコミが煽動するポピュリズムは益々盛んになります。

夏目漱石は明治44年、「現代日本の開花」という講演の中で、「日本の開花は、西洋からの圧力に対応するためにやらざるを得なかったもので外発的で無理を重ねたものだ。軽薄で虚偽で上滑りしたものだった」と語っています。

しかし漱石は、それを否定するのではなく、「涙を呑んで上滑りを滑っていかなければならい」と葛藤の結果として本音を漏らすのですが、すでに桶谷秀昭氏の指摘として取り上げましたように、戦前の国民精神は、軽薄で虚偽で上滑りのそのまま、文明開化から自由主義とデモクラシー、さらにマルクス主義を順次、受け入れることになります。

この国民精神について、数学者の藤原正彦氏は「舶来の教養を葛藤もなく身につけた無邪気な世代は、大正デモクラシーを謳歌し、マルクス主義にかぶれ、軍国主義に流された。戦後は、GHQ史観に流され、左翼思想に流され、今や新自由主義やグローバリズムに流されている」として、「漱石が語った『上滑り』『虚偽』『軽薄』は、大正、昭和、平成、そして今もあてはまる」旨を説いています(『国家と教養』より)。

西鋭夫氏は、現在の「日本人の弱い精神状態」(原文のママ)について「その根源は、心の中に強い信念、信じ切れるモノを持たないからだ」と指摘しますが、これらの国民精神こそが、戦前戦後を問わず、変わらぬ我が国のポピュリズムの源と考えます。

話題を戦前に戻しましょう。『戦前日本のポピュリズム』を上梓された筒井清忠氏は、「日米戦争に日本を進めていったのがポピュリズムなのに、この戦前のポピュリズムの問題がまったくといっていいほど取り扱われていない」と述べているように、「満州事変」以降「日中戦争」を経て「日米戦争」に至るまで、軍人含む為政者の判断を狂わすほど国民世論が絶対的な影響を与えました。

事実、開戦前の昭和16年12月、米英との交渉に弱腰な政府に業を燃やし、首相官邸には「東條内閣は腰抜けだ。日米開戦すべし」という強硬な投書が約3000通も殺到したといわれます。

また、真珠湾攻撃が成功するや、12月8日付の日経新聞には、「熱風の日本史 大戦果、日本中が熱狂」の見出しで「皇居前広場には続々と人が集まり、喜びの声をあげた。東京のビルの屋上からは『屠(ほふ)れ!米英は我らの敵だ』『進め!一億火の玉だ』と垂れ幕が下がった。日本中が『万歳‼』の歓呼が沸き返った」などと海軍の行動を称賛する記事で埋め尽くされました。他紙も同様です。

軍の厳しい検閲があったかも知れないが、このマスコミの熱狂ぶりは今日の判断基準からすれば驚きです。当然ながら、当時の主だった作家や詩人らも異口同音に戦争を称賛する文章を残しています。

歴史を探求すると、随所に「世論の熱狂的な支持」という文字が出てきます。しかし、国民精神の反映を含め、ポピュリズムの実態を解明しようと果敢に取り組んだ研究家は、見つけ得る限り筒井氏一人だけでした。マスコミ各社もなぜか“だんまり”を決め込んでいます。

そればかりか、国益とか大多数の国民の幸福などそっちのけで、今なお国民を煽って自らの主義主張を通そうとするマスコミの多いことに呆れるばかりですが、幸い、最近のネット時代の若者らには通じなくなっている一面もあるようです。

筒井氏は、「現代の“劇場型大衆動員政治”は、我が国は戦前に経験していた」と分析しています。藤原氏の指摘同様、日本人の「上滑り」「虚偽」「軽薄」な精神は、その形を変容しつつ明治以降変わらないまま定着していると言わざるを得ないと考えます。

次回は、「戦争指導上の要因」を総括してみましょう。(以下次号)

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