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「我が国の歴史を振り返る」(32) “歴史的岐路”となった「日英同盟」破棄と「ワシントン会議」

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▼はじめに

 今回の話題は「日英同盟」破棄と「ワシントン会議」ですが、これらがまさにその後の歴史を変えた、つまり“歴史的岐路”となったことを強調して上記のような表題にしてみました。しかし、後々に歴史を振り返ってみて初めて“歴史的岐路”だったことがわかるわけで、破棄を決断した人や会議に参加した全権代表などは、“その後の歴史がどう動くか”について暗中模索の中で難しい判断を強いられたのだと思います。

さて、自衛隊の各指揮官は、任務遂行のための「状況判断」が必要とされ、その判断に基づいて「計画」を策定します。そしてその「計画」に基づき、隷下の部隊に「命令」を発し、各種任務を遂行します。そのため、指揮官は、直面している“あらゆる状況”を的確に分析し、正しい決心(決断)ができる能力を向上するため常に鍛錬します。

幹部自衛官はまた、指揮官を補佐する幕僚(スタッフ)としての補佐要領についても幾度となく教育・訓練を受けます。各指揮官には“個性”がありますので、決心も“個性”に左右される場合がありますが、幕僚は、個性を廃して“(軍事的)合理性を最大限に追求”した結論(判断)を導き、指揮官の決心と相対(あいたい)します。

 政治や外交も正しい決心を導くプロセスは同じと思うのですが、戦前の我が国の政治や外交を振り返る時、このような“手順”をしっかり踏まず、いわゆる“指揮官の個性”が優先されたような結論で対処したような「事象」にしばしば出くわします。

前回の「パリ会議」同様、「ワシントン会議」においても、“経験豊富な欧米列国”との差異なのかも知れませんが、結果としてその“未熟さ”が仇となって、我が国にとっての“歴史的岐路”となってしまったものと考えます。それらを少し詳しく振り返ってみましょう。

▼「日英同盟」の破棄

米国のハーディング大統領は、大統領に就任するや早速、パリ会議で議題にならなかった太平洋・極東問題そして軍縮交渉のための「ワシントン会議」を日・英・仏・伊・中の5か国に呼びかけました。「国際連盟」未加入の米国が、国際社会の“実質的な舵取り”を始めたのでした。

大統領は、中国における日本や欧州列国の既得権を排して「機会均等」を得ようとする思惑から、“軍縮”を求める国際世論の後押しを利用したといわれますが、特に、第1次世界大戦に勝利したとは言え、経済の痛手から窮乏のドン底にあえいでいたイギリスが会議の開催を強く働きかけたようです。

イギリスは、7つの海を支配した海軍の“世界一”の座をアメリカに奪われることを覚悟しつつ、「大規模な軍備を行なうことは、必ずやあらゆる国々を貧困と破局へ導くことになろう」(ロイド・ジョージ首相)と大戦後の平和待望論を利用して軍縮機運を盛り上げたのです。

我が国は立憲政友会の原敬内閣時代であり、海軍念願の「八八艦隊」の建設予算が認められた直後でありましたが、大戦後の不況が我が国も直撃して株や商品の相場が大暴落したこともあって“渡りに船”とばかり会議参加を回答、全権主席の加藤友三郎海軍大臣ほか、駐米大使の幣原喜重郎や貴族院議長の徳川家達らを全権大使として派遣します。

そのイギリスがアメリカを動かした“最後の切札”こそが、間もなく満期を迎える「日英同盟」だったのです。「日英同盟」は、1902(明治35)年に結ばれて以来、日本外交の基軸となり、日露戦争の勝利も第1次世界大戦の連合国側参戦もその恩恵を受けた結果でした。

しかし、実際には、第1次世界大戦時、我が国への参戦要請をめぐって、様々な“あつれき”が生じてしました。

陸軍については、西部戦線が膠着し長期化の様相を見せ始めた頃、連合国側、中でも、一度は参戦地域の限定し、我が国の全面的参戦に反対だったイギリスも再三再四にわたり我が国の参戦要請をします。しかし、山東半島出兵には積極的だった我が国は、「帝国軍隊の唯一の目的は国防なるがゆえに、国防の本質を完備しない目的のために帝国軍隊を遠く外征させることは、その組織の根本主義と相容れない」(加藤高明外相)とすげなく拒否します。

また海軍に対しても、1914年9月の段階から「物資のすべてをイギリスが負担する」との条件で巡洋戦艦部隊の地中海や他の海域に派遣するよう要請がありますが拒否し続けます。

1917年になり、ドイツ海軍の通商破壊が活発になったのに伴い、護衛作戦に参加するよう再三の要請があり、我が国はようやく、対英軍事協力の方針を転換し、英国の依頼を受け入れます。その交換条件は、前回とりあげましたように、戦後の講和会議で日本が提出する予定の「山東半島及び赤道以北のドイツ領南洋諸島の権益を引き継ぐ」との密約を英国と結ぶことでした。

こうして、海軍はインド洋に第1特務艦隊、地中海に第2特務艦隊、オーストラリア近海に第3特務艦隊を派遣します。特に、第2特務艦隊は、連合国軍兵員70万人の輸送やドイツの攻撃を受けた連合国艦船から兵員を救い出すなど西部戦線の劣勢を覆す貢献をしたほか、連合国側の商船787隻、計350回の護衛・救助活動を実施して高い評価を受けました。

日本の特務艦隊は、確かに連合国の勝利に貢献はしましたが、国の存亡を賭けて戦った英国からはほんの御愛想としか受け取られなかったのも事実でした。他方、日本の軍隊は中国へはどんどん侵入していきましたので、英国人の不信感を増大させ、対日感情を悪化させてしまいます。

明治・大正時代の日本外交の基軸だった「日英同盟」の廃止は、英国の衰退と米国の台頭という国際社会の大変革があったとは言え、上記のような日本側の“責任”もあったと考えるべきなのですが、一般的には、破棄の要因は次の4つに集約されます。

第1に、「国際連盟規約」第20条「本規約の条項と両立せざる連盟加盟国相互間の義務や了解が各自国の関する限り総て本条約により廃棄せられるべきもの」とする規約への抵触です。この結果、「日英同盟」は、両国にとって政治問題化していたのでした。

第2に、アメリカ自体が覇権を獲得するため、対日警戒感の延長として、目ざわりだった「日英同盟」の破棄を狙っていたことです。

第3に、(上記のような戦争中の経緯から)イギリス内部の「日英同盟」更新に対する反対論の強まりです。加えて、日本が中国に勢力を伸ばし、日英の利害対立が生じる可能性があったことと、イギリスがアメリカに莫大な借款を負っているなど米英関係の重要性が相対的に増してきたこともありました。

ちなみに大英帝国内でも賛否が分かれます。豪州・ニュージーランドは同盟存続、カナダは同盟継続反対、南アフリカは同盟に寄らないウィルソン主義を主張した中にあって、英国の主要閣僚や陸海軍大臣や参謀総長などまですべて同盟継続派でしたので、日本が「同盟堅持」と言えば、英国は自分から廃棄を言い出せる状況ではなかったのです。

第4に、日本の外交姿勢の変化です。当時の立憲政友会の原敬及び高橋是清内閣は、イギリスの国際的地位の低下に伴い、対英協調よりも“対米協調路線”に傾きつつありました。積極的に「日英同盟」の破棄しようとの意思ではなかったようですが、同盟継続の強い意志を欠いていたのです。

これらの背景にはまた、「日英同盟」締結する直接の原因となったロシア帝国が滅亡して、同盟の存在意義そのものが消滅したこともあります。この時点ではまだ、ロシア帝国に勝る共産主義国家・ソビエトの“強大な脅威”を見抜けなかったのでした。

そして、ワシントン会議の冒頭から、「第1次世界大戦とロシア革命によって、アジア・太平洋地域に変化が生じた」として、大戦の戦勝国である米・英・仏・日によって、各国が持つ太平洋方面の属地や領土権益の相互尊重、それに起因する国際問題の平和的処理の仕方が協議され、1921(大正10)年12月、「4か国条約」として調印され、「日英同盟」は破棄されてしまいます。

同盟破棄は、最終的には原首相の信任の厚かった弊原喜重郎の決断により、英国側の“迷い”を断ち切ったことで実現しました。幣原は、その剛毅不屈な精神をもって、その後の我が国の外交史の中で“協調外交”を貫くことで有名になりますが、旧来の同盟による“勢力均衡”という習慣と決別し、駐米大使の地位にありながら“異質な米国”の本質を見抜けないまま、信念を持って当時の米国の理想主義的な原則に同調したのでした。

まさに幣原の“個性”が優先された結果でしたが、幣原のみに責任を負わせるのは酷とは考えます。当時の新聞なども「4カ国条約」締結を大歓迎したのでした。しかし、その後の歴史をみればこの決心は失敗に終わり、我が国の命運を変えたことは明白です。アメリカもその後、理想主義を捨てて孤立主義に戻り、幣原の理想は裏切られることになります。

▼海軍軍縮―主力艦米国の6割に―

 「ワシントン会議」のもう一つのテーマは、海軍軍縮でした。会議に臨むに際して、海軍は「対米7割」を基本方針としていましたが、全権主席の加藤友三郎は、当初からその必要性に疑問を呈するとともに、「八八艦隊」の整備と維持に膨大な経費を必要とすることから、「対米7割」には柔軟性を保持していたようです。

加藤を信頼して送り出した原敬は、その20日後の11月4日、東京駅で19歳の少年に暗殺されてしまいます。本事件は、現職の首相がテロリストの手にかかって非業の死を遂げるという憲政史上初めての出来事でした。しかし、後継首相の高橋是清が「外交方針は不変」としたため、加藤は、当初の方針どおり対応します。

しかし、実際に「米:英:日が5:5:3」と発表されると、多くの国民の「1等国、5大国の自負心を傷つけられた」とする批判を前にして“腰砕けそうなった”高橋内閣に対して、加藤は職を辞する覚悟で説き伏せ、最終的に、米英:日:仏伊を5:3:1.75、つまり対米英6割に相当する主力艦(戦艦と航空母艦)の保有量31万6千㌧で決着し、1922(大正11)年2月6日、海軍軍縮条約に調印します。

加藤友三郎の主席随員として、のちに“艦隊派”の総帥になる加藤寛治中将も参加しており、加藤友三郎と激しく対立していましたが、この段階では、海軍の統制が取れていたことは付記しておきましょう。

▼「ワシントン体制」の成立・遵守

1922(大正11)年2月6日当日、前記4カ国に加え、オランダ、イタリア、ベルギー、ポルトガルを加えた9カ国により、中国の門戸開放・機会均等・主権尊重の原則を包括した「9カ国条約」も調印され、その結果、“中国大陸における日本の特殊権益を認めた”「石井・ランシング協定」も解消されてしまいます。

我が国は中国と「山東還付条約」も締結し(同年2月4日)、山東省の権益の多くを返還します。これについても、幣原が途中から本件交渉に参加し、条約締結に導いたとして米国や中国から大賛辞が贈られます。

「ワシントン会議」で締結された「4カ国条約」「9カ国条約」そして「ワシントン軍縮条約」を基礎とする体制は、アジア・太平洋地域の国際秩序維持のための「ワシントン体制」と呼称され、1934(昭和9)年ごろまで続きます。

この間の我が国の外交は、上記の弊原喜重郎による「協調外交」を貫きますが、その後の歴史から見ればこれも失敗に終わります。同様に、フランスもまたドイツの報復を恐れて、米国や英国との同盟を希望しますが、英・仏・独・伊による「ロカルノ条約」の締結を余儀なくされます。これも何の役にも立ちませんでした。

アメリカの対日警戒感はこれにとどまらず、やがて「排日移民法」(1924(大正13)年)に繋がっていくばかりか、中国の“国権回復運動”に同情的になっていきます。

このようにして、“アメリカの覇権意識と我が国の大陸政策が真っ向から対立”し始め、「激動の昭和」の“芽”が出始めたのでした。(つづく)

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