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「我が国の歴史を振り返る」(21) 世界を驚かせた「日英同盟」

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▼はじめに

 19世紀の英国首相パーマストンが語った「英国は永遠の友人も持たないないし、永遠の敵も持たない。英国が持つのは永遠の国益である」との有名な言葉があります。当時は、大国間の力の均衡で平和が維持されていましたので、大英帝国がどことも同盟を結ばず、バランサーの役割を果たすのは勢力均衡上、とても重要だったのです。

その大英帝国が「光栄ある孤立」政策を捨て、極東の有色人種の小国・日本と同盟を結び、世界を驚かせます。当然ながら、英国の国益に叶ったことは間違いないとしても、対ロシア政策上、日本の国益にとってもこれ以上ない有益なものでした。

しかし、このパーマストンの言葉が示すように、その後の歴史は、「日本が英国の永遠の友」であり続けることを許しませんでした。

そして、今年の1月31日、英国は欧州連合(EU)を離脱します。今や19世紀のような超大国ではない英国ですが、二転三転しつつ長い葛藤の上に、「永遠の国益」ために大決断をしました。その選択が本当に英国の国益のためになるのかどうか、しばらくの間、英国民のみならず世界中が注目することでしょう。

羨ましいのは、かつての国力はないにしても、「永遠の国益」のために、国民を巻き込んで議論し、決断し、実行する英国の“国家のあり様”です。「それに対して我が国は・・・」と今更ながら言葉に出す元気はありませんが、高額の歳費とやらを頂いて何不自由なく暮らしているように見える先生方に、「国会で少しはまともな議論をしろ!」と内心で不満を持つ国民は多いのではないか、と思ってしまいます。

戦後、「国益」という言葉自体の使用も控えているような雰囲気がありますが、そろそろ「過去の失敗を繰り返さず、『永遠の国益』のために、我が国はどうしたらいいのか」というような大テーマの議論を期待したいものです。まあ無理というものでしょうか・・先を急ぎましょう。

▼清国が“深刻な状態 ”に

前回も触れましたが、我が国が欧州列国と“抜き差しならぬ関係”になるきっかけを作ったのは「日清戦争」でした。それゆえに、後世「日清戦争は外交では失敗した戦争だった」と評する向きもありますが、長い歴史の中での評価は、常に視点によって相反するのも事実であろうと考えます。

「日清戦争」後の清国についてもう少し触れてみましょう。前回、列国による中国分割を「租借」として紹介しましたが、この「租借」とは、英語では「解決」とか「和解」を意味する「Settlement」と訳され、当時は、半永久的な「割譲」と同義語でした。つまり、欧州列国による清国の「割譲」は、アヘン戦争以来の“イギリス一国による清の半植民地化状態が崩壊した”ことを意味していたのです。

まず1896(明治29)年、北からは、ロシアが鉄道の敷設権獲得とともに満州や北中国へ進出し、翌年、南からは、フランスがフランス領ベトナムから北上し、雲南省や四川州など南中国4州へ勢力圏を拡大しました。そのロシアとフランスは、1894年、主にヨーロッパにおける勢力均衡を得る目的で「露仏同盟」を締結していました。

ロシアとフランスが挟撃してくることを恐れたイギリスは、ドイツと連携して両国に先んじて清朝に対日賠償金支払いのための借款を与え、清国内の権益を認めさせました。この結果、ドイツも96年、清に出兵して膠州湾を占領します。当初は、“ドイツがロシア南下の防波堤になる”と歓迎したイギリスでしたが、「山東半島全体を勢力圏」と主張し始めたドイツへの警戒感を強め始めます。

98年、ロシアが旅順・大連を租借した対抗策として山東半島先端の威海衛を租借したイギリスでしたが、今度は、ドイツが露仏と協調して「イギリスの租借反対」と主張するのを回避するため、山東半島を“ドイツの勢力圏”と認めざるを得ませんでした。これは、イギリスにとって最も重要な揚子江流域(清国の3分の2の人口が集中)にドイツが進出することを容認するものであり、大きな“痛手”となりました。

一方、1900(明治33)年、欧州列国に国土の大半を植民地化された清国内で、「キリスト教に代表される西欧文明の広がりこそが庶民の生活を苦しめる災厄の根源だ」として広がった宗教勢力の反乱が発生しました(「義和団の乱」、あるいは「義和団事件」「北清事変」などと呼ばれます)。当初は清朝に対しても強い反発を示した義和団でしたが、やがて「扶清滅洋」をスローガンに掲げて清朝に接近し、清朝内部にも彼らを「匪賊」とみなすより「義賊」とみなす意見が優勢になります。

この結果、義和団を取り締まらない清朝と諸外国の対立が深まり、同年5月末には、イギリス、フランス、アメリカ、イタリア、そして日本が“居留民保護”のため、天津に少数の部隊を派遣しました。日本は、当初は出兵には慎重でしたが、欧州列国を代表する形でイギリスから正式な要請を受けて出兵を承諾したのです。その後、事態はまたたく間に清国全体に広がり、清朝政府が諸外国に対して宣戦布告するとの危機的事態に陥りましたが、列国は連合軍となってこれを鎮圧します。

当時の軍隊は、略奪や強姦が常識となっていたようです(最も悪質だったのがロシア軍でした)が、日本軍のみは規律正しく、略奪行為は一切ありませんでした。これらから、欧州列国、中でもイギリスは、日本の「軍事力」のみならず、「外交力」「国際法の理解」「信義を守る誠実さ」を高く評価したのでした。

▼「日英同盟」の締結

イギリスは、中国内の勢力圏をめぐって欧州列国と熾烈な争いを展開していた同時期の1889年から1902年まで、南アフリカを舞台にして、移住オランダ人を祖先に持つボーア(ブーア)人と間の戦争にも巻き込まれていました(「南アフリカ戦争」、あるいは「ボーア戦争」と呼ばれます)。細部は省略しますが、イギリスの正規軍と志願兵を合わせ44万人の兵力がこの戦争にかかわり、戦死・病死者2万2千人、負傷者約10万人に達したといわれます。

さて、「義和団の乱」に乗じて、ロシアは満州を軍事占領しました。撤兵を約束したものの、撤兵するどころか朝鮮半島にも触手を伸ばすようになったのです。これに対して、イギリスと日本は警戒感を強め、両国の間に「対ロシア」という共通の“靱帯”ができました。

「光栄ある孤立」を誇りに欧州においては他国と同盟を結ばなかった大英帝国が、有色人種の小国・日本と同盟を結び、当時の国際社会を仰天させた「日英同盟」締結にはこのような様々な背景があったのです。つまり、ユーラシア大陸の地政学に加え、清国における列国の競合、大英帝国のパートナーとしての日本の「強さ」プラス「信義」のようなものまで含まれていたのでした。

日本政界には、ロシアとの対立は避けられないと判断し、イギリスとの同盟を推進した山県有朋、桂太郎、西郷柔道らに対して、伊藤博文や井上馨らはロシアとの妥協の道を探っていました。しかし、ロシアとの交渉が失敗したこともあって、1902(明治35)年1月、ロンドンにおいて「日英同盟」(第1次日英同盟)が締結されます。

「日英同盟」は、「他国の侵略的行動に対応して交戦に陥った場合は、同盟国は中立を守ることで他国の参戦を防止し、2国以上と交戦となった場合は、締結国を助けて参戦を義務づける」とした、まさに「軍事同盟」でした。本同盟によって、我が国が大英帝国の“非公式な一員”となったとの見方もありますが、当時の情勢から我が国としても最適な選択であったことは間違いないでしょう。

事実、のちの「日露戦争」の際、イギリスは表面的には中立を保ちつつ、諜報活動やロシア海軍へのサポタージュなどで日本を大いに助け、勝利に貢献することになります。

▼「義和団の乱」にアメリカも派兵

 前回の「義和団の乱」に際して、居留民保護の目的で自国の部隊を派遣した8カ国の1国に、当時は中国に何の“利権”を持っていなかったアメリカも含まれていました。個人的には何とも不思議な印象を持ちましたので、補足しておきましょう。

このアメリカの迅速な対応を可能とした訳は、アメリカは1898年の「米西戦争」に勝利し、フィリピンやグアムを征服しましたが、フィリピン人の反乱に対応するため、大規模な艦船や海兵隊などを配置していたのです。

他方、ボーア戦争鎮圧のイギリス同様、アメリカもフィリピンの反乱鎮圧に忙殺されており、義和団対処は、福島安正少将や柴五郎中佐などのリーダーシップの元、約2万人超える日本軍が連合軍の主力となって大活躍したのでした。

本事件を通じて、アメリカはフィリピンの支配と極東における大規模な軍隊の保持の必要性を考えるようになったともいわれます。欧州列国に比し、アジアには“遅れてきたアメリカ”でしたが、やがて「門戸開放」「機会均等」を叫び、我が国や欧州列国をけん制するようになり、ことさら我が国に警戒心を持つようになります。

日本は、「日清戦争」後、「三国干渉」によって遼東半島から撤兵してからわずか5年、再び清国内に軍を派兵することになりました。欧州列国の要請があったと言え、義和団出兵は、大陸へ軍を派兵する“抵抗感”(敷居)を低下させ、この後の日露戦争、第1次世界大戦、シベリア出兵、そして満州事変や支那事変に続く、大陸を舞台に国の命運をかける争いに発展していくきっかけになったことは否めないと考えます。

やがて北京まで占領した列強は、1901(明治34)年、「北京議定書」を作成、中国は列国に賠償金を払い、北京と天津への外国軍隊の駐留を認めるなど、列国による半植民地化が更に強まり、清朝滅亡へのカウントダウンが始まっていました。

▼「事大主義」の国・朝鮮

「日清戦争」で日本が清に勝利したことにより、朝鮮政府内の親清派は一掃され、日本との関係は好転するかに思われましたが、「三国干渉」によって日本が譲歩した結果、思いがけずも「やはり白人の方が強い」として政府内に親露派が台頭しました。その結果、「事大」の「大」が清からロシアに変わり、独立を助けたはずの日本を侮る空気が生まれたのです(最近の韓国の状況からして、その雰囲気が目に見えるようです。まさに歴史は繰り返されているのです)。

朝鮮から清国を排除出来たと思ったら、その“空席”にロシアがどっかり腰を据えてしまったのです。このような中、1895(明治28)年、親ロシアの傾向を強めた朝鮮王妃・閔妃(みんぴ)の殺害事件が発生します。日本政府は、日朝関係を悪化するだけでなく、日本の信用を失うと判断し、関係者を召喚して逮捕するとともに、善後処置を探るために小村寿太郎や井上馨を派遣します。

こうした機敏な措置のおかげで閔妃事件は重大な国際問題に発展せず、西欧列国もあえて日本を非難しませんでした。閔妃を殺害したのはいかにも乱暴でしたが、すでに紹介しましたように、多くの日本人が惨殺された「壬午政変」や「甲申政変」のように、当時の半島はこのような事態が日常的に発生していたのです。

事実、この後もロシアが朝鮮王を奪ってロシア公使館に移し、独立派や親日派の政治家が惨殺され、日本人が30人以上殺害されるという事件が発生します(この続きは次回、取り上げましょう)。

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