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「我が国の歴史を振り返る」(77) 「大東亜戦争」の総括(その5)

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▼はじめに(コロナ対応の状況判断)

 ここ1年半あまり、コロナ対策をめぐって、世界中どの国においても、それぞれの国の為政者達の判断力や指導力が問われる事態になっています。当然ながら、国の事情によってその対応は異なります。中でも、憲法などで、非常事態における為政者の強制力発揮が認められているか否かでその対応は全く異なることでしょう。

テレビをつければ、コロナ禍のお蔭で今や“番組の顔”になったような医療関係者や(色々な事情があるのでしょうが)出る場所を間違えていると思われるような素人コメンテータなどが政府の対応をなじったり、国民を煽ったり、暴言を吐くような光景にすっかり慣れてしまった国民も多いのではないでしょうか。

マスコミもマスコミです。中には、政府の対応を批判することを優先させるあまり、感染拡大を最大限に防止する観点から医療関係者の立場を報道しながらも、その舌の根がかわかないうちに、どこかの飲食店の苦労や悲鳴を大々的に報道します。

何を言っても、何をやってもやらなくとも、誰からも咎めることなく、逮捕もされません。それが我が国の最大の特色です。よって、いかにも政府の指導力が弱いような印象を持つのはやむを得ないでしょう。一時、「ロックダウン」という言葉がその意味を理解しないまま使われましたが、我が国は、非常時のみならず平時においても強制力を発揮できるような国の真似はできないのです。

一方、これまでの我が国の感染者や死亡者数が列国に比べ桁違いに少ないことは紛れもない事実ですが、最近、それを“さざ波”と発言して物議を醸しだしました。叩く側の狙いは他にあったのかも知れませんが、強制力を発揮できない我が国にあって、今のような感染者や犠牲者数がこの程度で収まっている要因を冷静に分析する必要があるではないでしょうか。

個人的には、その要因は、様々な影響を考え、アクセルとブレーキを巧みに状況判断し、国民に“お願い”を繰り返す政府や自治体の長と、不満や苛立ちを抱えながらも、全般状況を理解し、忍耐強くその指示に従っている(マスコミなどに取り上げられることもない)大多数の国民の自覚ある行動のおかげと考えます。そして、もっとこのことを誇る報道があってしかるべきと思うのです。

さらに、元自衛官として一言いわせていただけば、危機管理の第一人者らしき有識者が、まことしやかに「最悪の危機を想定して・・」との一般論を発言することにも疑問を持ちます。

“最悪”がわかれば今のような苦労は必要ないのです。まさに空前絶後、だれもが何をもって“最悪”と見定めることができないゆえに苦悩していることをなぜ危機管理のプロが理解できないのか・・・そのような発言するプロとそれを取り上げるマスコミも、プロでないことを自ら暴露しているようなものではないでしょうか。

今回、取り上げる「戦争指導」も同じです。「後から振り返る」からこのような分析ができるのであって、天災も戦争のような人災も、その最中にある間は、その顛末を予測するのはなかなか難しいものです。天変地異に対する“人為”のむなしさは言うに及ばないですが、戦争にも相手(敵)があり、その意図、強固な意志・抵抗力などはなかなかわからないものだからです。

「歴史を学ぶ」上で保持すべき必要不可欠の姿勢は、「“それぞれの歴史の当事者には絶対なれない”との自覚」、そして「現代の価値基準で歴史を裁かない」の2点であると私は思います。

読者の皆様にも、そのような前提で本歴史シリーズ(まもなく終わりますが)を連載していることをぜひご理解いただきたいと願っております。前置きが長くなりました。当時の為政者達の苦労に思いを致しながら、分析を進めたいと思います。

▼「戦争指導上」の要因―国家の戦争指導体制

 今回は、大東亜戦争の本歴史シリーズ流の総括・第3弾として「戦争指導上」の要因を取り上げます。

さて、国と国との「戦争」の「勝敗」を分かつ要因に、野球などのスポーツと共通の要素として指導者(指揮官、監督など)の“総合的な力量”があると考えます。つまり、指導者達の戦略眼、先見洞察力、勝つためのしたたかさ、その時々の勝負勘、非情さ、それに加えて、人智を越えた“運”までが勝利の要訣となることでしょう。

それらの力量が育つ要因が、一握りの軍政のリーダー達の天賦の才能や努力のみならず、民族や国家に蓄積された様々な“経験がモノを言う“と考えれば、「大東亜戦争」における我が国の「敗因」についても納得する部分がたくさんあるのです。

日露戦争においては、「日本海海戦」を勝利に導いた秋山真之という天才的な作戦参謀の活躍が脚光をあびました。しかし、「総力戦」となった第1次世界大戦以降、「勝利」の“鍵”は、特定の戦場や戦いで能力を発揮する軍人達の手から離れ、ルーズベルトやチャーチルといった天才的(?)な国のリーダーの手に握られることになりました。

古くローマ時代においては、国家の非常事態に、強大な権限を有する政務官として「独裁官」が任命され、この「独裁官」に戦争指導を託しました。ルーズベルトやチャーチルは、このような歴史を学び、「総力戦」における自らの役割を実践したものと推測します。

「敗戦」を昭和の軍人達だけの責任とするのは“史実”と違うことを何度も指摘しました。確かに軍人達は、国家を背負う覚悟で「国家総力戦」体制を推進しました。それ自体は正しい判断だったと思いますが、我が国の不幸は、「勝利」のために大所高所から決断し、この軍人達を使いこなす天才的(?)な国のリーダーが現れなかったこと、あるいは一元的な国家の戦争指導体制を構築できなかったところにある、とどうしても思ってしまいます。

それにしても、米・英両国と比較して、我が国が「勝利のための指導体制」を構築できなかった要因はどこにあったのか、その基をたどるとどうしても「我が国の統治制度(運営体制)」に行き着きます。「我が国の統治制度」について、繰り返しになりますが、もう少し補足しておきましょう。

すでに紹介しましたように、我が国は、飛鳥時代の7世紀に「律令制度」を導入してから、一部改正はしましたが、明治初期までの約1200年間もの長きにわたり保持し続けました。そして、明治憲法は現憲法に置き換わるまでの57年間一度も改正なし。現憲法も制定以来70年余りの歳月が流れます。

こうしてみますと、一度、国の統治制度を制定すると、“何か”が発生するまでは改正しないのが我が国の“国柄”、あるいは“風土”と呼ぶべきものなのかも知れないと思ってしまいます。

戦前の歴史を振り返りますと、私は、大正時代あるいは昭和初期に、将来を見通して憲法をはじめ国の統治制度を改正すべきだったと考えます(当時は、立憲〇〇のような政党が勢力を持ち、それどころではなかったというのが事実ですが)。

特に、第1次世界大戦後、「ドイツ帝国」「オーストリア・ハンガリー帝国」「ロシア帝国」「オスマン帝国」の5大帝国が滅亡します。

国内的にも、名君の誉れが高かった明治天皇をはじめ元老達が他界したとか、「統帥権」の“ほころび”が顕在化したとか、大正デモクラシーが隆盛したとか、見直しの契機となる“現象”がたくさん生じていました。

ドイツ(プロシア)に倣った我が国が、なぜあの時点で「欧州の帝国滅亡を“他山の石”として、憲法をはじめ国の統治制度を見直おそう」と、当時のリーダーや有識者達のうちだれも声を挙げなかったのか、と何とも不思議な思いにかられ、かつ悔やまれます。

その時点では、まだ「日英同盟」も健在だったことでもあり、英国そして新鋭の米国に学ぶことが可能だったと推測しますが、戦勝国の仲間入りした結果、「一等国」と浮かれてしまい、国家を挙げて彼らと張り合うことに東奔西走してしまいました。

その延長で、東京裁判の「共同謀議」との判決趣旨に被告者達が失笑したように、我が国の統治の実態は、「政軍不一致」「陸海軍対立」と言われたように、「共同謀議」と逆の体制下にあり、首尾一貫して統一した国の舵取りができないまま、戦争を回避できず、かつ敗戦に至ります。

律令制度は、明治維新という革命に似た歴史的大変革によってその役割を終えました。その明治憲法は敗戦によって廃止されました。現憲法は、今や188カ国中14番目に古い憲法となり、「改正なし」という点では“世界最古の憲法”だそうです(憲法学者西修氏)。

現憲法は、護憲学者や一部の政治家などがいくら詭弁を弄しても、「押し付けられた憲法」であることは間違いなく、国家の統治制度の骨幹をなす「憲法」という観点から多くの不備があることは明白と考えます。このまま放置すると、次の“何か”を誘起する要因となる可能性さえあるでしょう。

あまりに有名な「歴史は繰り返す」の格言に従えば、このままでは、現憲法も“何か”が起きてはじめて改定される運命にあります。このまま放置してその“何か”が起きるのを待つのが、今に生きる私達世代の選択として最適な選択なのでしょうか。「歴史が繰り返さない」ように「歴史に学ぶ」必要性を強く感じます。

▼「戦争指導上」の要因―戦略・戦術の不一致

「戦争指導上」の要因の2番目は、「戦略・戦術の不一致」です。本シリーズでは、「満州事変」以降終戦までの各結節で“誰が主導権をもって我が国をリードしてきたか”に主眼におきながら、“史実”の解明に努めました。

クラウゼヴィッツは「戦略の失敗は戦術で補うことはできない」との有名な言葉を残していますが、一般には、“戦略(作戦)と戦術の一致”こそが勝利を得るために必要不可欠の要素です。

我が国は昭和初期の大陸進出以降、一貫した「国家戦略」のようなものがなかったことに加え、「戦術的には大成功だったが、戦略的に大失敗だった」(『歴史の教訓』(兼原信克著)とされる「真珠湾攻撃」により、日米戦争の緒戦において致命的な失敗を犯しました。

ルーズベルトの謀略にみごとにはまったとは言え、今なお一部の日本人から英雄視されている山本五十六連合艦隊司令官の独断をだれも止めることが出来なかったという統治制度の構造的な欠陥が露呈される形となったのです。

瀬島龍三氏は、真珠湾攻撃について「戦争抑止軍備が時に戦争促進軍備になるという軍事力の持つ“慣性”であり、海軍もその轍を踏んだ」と解説したことをすでに紹介しましたが、海軍の航空戦力をもって攻撃を敢行した山本提督は、艦隊派と激しい抗争を経てようやく整備し海軍航空部隊の“生みの親”でもありました。 

瀬島氏指摘の“慣性”が山本提督個人を指しているかどうかは不明ですが、その後も、海軍は、我が国が当初目指していた戦争戦略(いわゆる「腹案」)とは全く別な戦いを繰り広げました。つまり、戦略と戦術の不一致のまま、ついには連合艦隊そのものも滅亡し、国土戦の一歩手前で敗戦となります。

大本営政府連絡会議で決定した戦争戦略をなぜ現場の指揮官が順守できなかったのか、については様々な要因があるのは明白ですが、シリーズ冒頭に触れたような、個人や国家の「経験不足」がその根幹にあって、「旧陸海軍の戦略・戦法、軍備、人材育成などあらゆるものの総和が“欠陥”となって現れた」と指摘されても弁解の余地はないと考えます。

▼軍人達の使命感(覚悟)と「武士道」精神

それでも私は、山本提督らは、戦争終末に至る見通しの甘さを含め、戦略上の失敗(問題点)を知った上であえてこのような奇襲作戦を敢行したのではないか、との疑問が頭から離れません。

山本提督の独断を「海軍の伝統」として承認した、開戦時の軍令部長の永野修身大将は「戦わざるも亡国、戦うも亡国。しかし戦わざるの亡国は精神の亡国である。最後まで戦う精神を見せての亡国なれば、いずれ子々孫々が再起三起するであろう」との言葉を残しています。

東條英機、のちに瀬島氏も「自存自衛の受動戦争であり、米国を敵とした計画戦争ではなかった」と証言していますが、これらの言葉の中に、私は、当時の陸海軍の将校達共通の使命感や覚悟、そして生き様を垣間見る思いがするのです。

しかもそれらは、有名な「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」とか「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」との辞世の句を残して散った吉田松陰が「草莽崛起(そうもうくっき)」(在野の人々よ立ち上がれ!)と唱え、高杉晋作や久坂玄瑞や西郷隆盛らをはじめ、明治維新の実現のために命を捨てた多くの志士達の心を動かしたこととどこか共通していると考えます。

この精神は「不合理を愛する」精神とも解説されていますが、永野大将は、万が一「敗戦」して亡国になったとしても、「戦う精神」を歴史に留めることを重視し、時代を超えて後世に訴えようとしました。

そのような覚悟を持って臨んだ日米戦争ではありましたが、出来得れば、「緒戦で一泡吹かせてどこかで休戦」とだれもが思っていたはずです。たぶん、日清・日露戦争の終末をイメージしていたものと推測します。

しかし、時代は「総力戦」でした。実際に、科学・技術や経済力など国家の総力を活かし、陸にあっては戦車、海にあっては潜水艦、そして航空機のような近代兵器を投入した消耗戦を予想し、あわよくばそれを回避したいという強い思いがあったとしても、大型爆撃機による焼夷弾攻撃、終いには原子爆弾による無辜の民の無差別殺戮まで視野に入れた「総力戦」をイメージしていたとはとても思えないのです。

そう考えると、「真珠湾攻撃」によって、アメリカを“本気モード”にさせてしまったことが戦略的な大失敗だったということに行き着くとしても、その実は、「総力戦」における“戦争終末(つまり、“最悪”の状況)見積り誤り”のこそが最大の過失だったと言えるのではないでしょうか。しかもそれは、当時の軍人達の戦局判断の力量の範囲をはるかに超えたものだったと言わざるを得ないと考えます。

その上で私は、これらの戦局判断のブレーキになった精神こそが「武士道」の精神ではなかったとも考えます。明治以降、「富国強兵」の主役に躍り出た軍人達でしたが、「卑怯にならない」精神ともいうべき「武士道」の精神は保持したままでした。

旧軍は確かに夜襲などをひんぱんに採用して、敵を恐れさせました。しかし、これらはあくまで“戦場の敵の戦力を撃破する”戦法の範囲であり、非戦闘員を攻撃するという「卑怯さ」にはかなりブレーキがかかりました。

重慶爆撃のように、蒋介石に巧みに吸引されるような格好で民間人の住む地域を爆撃した例はありますし、マニラなどの市街地戦争などでは住民を巻き込まざるを得ませんでした。あるいはアジア人に対してはある種の差別意識があったのかも知れません。

しかし、WGIPや東京裁判による一方的な指摘と戦場の実相はかなり違いますし、我が国の軍人達が、米軍による東京大空襲や広島・長崎への原子爆弾投下のような、非戦闘員だけの殺戮を目的にした作戦を断行できたかどうかについてはどうしても疑問が残ります。

今回はこの辺までにしておきましょう(以下、次号)

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