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我が国の歴史を振り返る」(69) 「朝鮮戦争」と我が国への影響

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▼はじめに

 コロナ過ではありますが、私用に追われ、1週間空いてしまいました。今回は「朝鮮戦争」を取り上げます。元自衛官の私は、実はこの戦争については詳しいのですが、あえて戦争の経緯などは概要だけにして、この戦争が我が国に与えた影響を主に取り上げます。

特に、陸上自衛隊の前身である「警察予備隊」も「日米安全保障条約」の原型もこの戦争の「申し子」というべきものでした。前回取り上げましたように、ここに至るまでのマッカーサーの情勢判断や対日政策の考えを知ると、個人的にはとても複雑な思いに駆られます。

▼「朝鮮戦争」前夜

 さて本題です。我が国は、周辺情勢など“どこ吹く風”に、憲法第9条を「お守り」のように握りしめ、「永久平和」の念仏を唱えていた時、突然、「朝鮮戦争」が勃発します。

当時の朝鮮半島の状況、特に、統一を狙った北朝鮮の企てについてはすでに紹介しましたので、勃発前の韓国側の状況を取り上げておきましょう。

南北の統一をめぐって米ソ両軍の撤兵が提案され、一部撤兵が開始されていた1948(昭和23)年頃、韓国軍隊が各地で反乱を起こします。そして反乱に失敗した革命軍は、各地でゲリラ活動を実施します。このゲリラは、49年春には約2万人に増え、韓国の約40%を制するまでになり、「昼は大韓民国、夜は人民共和国」と記されたほどでした。

ゲリラ活動は、韓国軍の討伐によって50年春ごろまではおおむね終息しますが、これに呼応するように、38度線付近で国境紛争が発生し、師団級の交戦にまで発展していきます。

北朝鮮の朝鮮人民軍は、ソ連の支援を得て逐次増強され、開戦時には約13万5千人、戦車150両、砲600門、航空機196機を数え、完全編成の8個師団、未充足の2個師団を基幹に逐次整備が進んでいました。

これに対して、ゲリラや共産分子の粛清、そして国境紛争に対処しながらの増強を余儀なくされた韓国軍は、50年春の時点でようやく9万8千人、装甲車7両、砲89門、航空機32機しかなく、9個あったとされる師団は、編成も装備も訓練もまちまちでした。中でも韓国軍には、北鮮軍にある戦車が装備化されておらず、有効な対戦車手段も保有していませんでした。

補給品もゲリラ討伐や国境紛争のためにほとんど使い尽くしていた上、李承晩大統領の北伐論を心配するあまり、米軍はことさらに補給品の交付を制限していたのでした。

50年5月、北鮮軍が38度線に集中していることを察知した韓国軍は、「侵略の危機が迫っている」と米国軍事顧問団に警告する一方、李大統領は、「北辺に危機が迫っている。これを予防し、韓国の安全を守るためには米国の援助以外に方法はないが、援助量は必要を満たしていない」と重ねて米国の援助を要求します。

国連は、度重なる国境紛争や国境付近の不穏な情勢を監視するために、軍事監視班の設置を決め、勃発2週間前の6月12日、監視班の一部が38度線付近を視察します。その結果、「攻撃を受ける現実的な兆候はない。万一侵略が起こっても、韓国軍はこれを撃退できる」と楽観します。

6月18日、来日のついでに朝鮮半島まで足を伸ばしたダレスも38度線を視察し、「異常を認めず」として、22日、マッカーサーに「楽観している」旨の見解を報告します。

韓国軍は、ついに最後の瞬間まで北鮮軍の能力や攻撃準備の“度”を察知することができなかったのです。のちに、これら情勢判断ミスは、韓国の諜報費が少なかった上、共産圏独特の警察組織と住民組織のため、北朝鮮にスパイを送ることができなかったことが原因だったと分析されています。

余談ですが、数年前、「韓国の高校生の7割以上が『朝鮮戦争は北進だった(南が北に攻めた)』と答える」というニュースを観て、歴史教育の恐ろしさが強く印象に残った記憶があります。また日本においても、最近こそあまり話題になりませんが、宗教のように一途に「北進論」を唱える人達がおりました。

これについては、個人的には“論評に値しない”と考えていますが、圧倒的な軍事力の差異からしても、「北進の可能性は皆無」が“常識”と考えます。

▼「朝鮮戦争」勃発と経緯

 1950(昭和25)年6月25日払暁、猛烈な砲撃が大地を揺るがし、13万人余の北朝鮮軍が一斉に38度線を突破し、宣戦布告なき奇襲攻撃を実施しました。まず「朝鮮戦争」前段の経緯を振り返ってみましょう。

不意を突かれた韓国軍は、38度線を守っていた3万人の第1線をはじめとして随所で敗退、潰走します。翌日、トルーマン大統領は韓国へ武器援助を決心し、日本の駐留米空軍の戦闘機10機を韓国軍に提供するとともに、27日には、「国連安保理が侵略者に戦闘行為を停止し、38度線に撤退するよう命じても、これを無視した」との理由で、海空兵力の出動を命じます。そして、国防省は、マッカーサーが作戦の責任者であることを発表します。

開戦4日目の28日、早くもソウルが陥落します。トルーマンは、陸軍の韓国派遣を発表し、半島の海岸線封鎖も命令します。一方、「爆撃は朝鮮と満州の国境を越えてはならない」と指示します。米国空軍の大型爆撃機20機が首都平壌を猛爆するとともに、イギリス艦隊やニュ―ジーランド軍艦も参戦します。 

北朝鮮の侵略開始から7日後の7月4日、ソ連のグロムイコ外務次官がタス通信で「戦争を始めたのはアメリカだ」と猛反撃に出ます。アメリカも当然、断固反発しますが、このようなやり取りが、のちに「北進論」へ発展する要因となります。私達は、歴史の中で何度も繰り返され、今も繰り返されている共産主義国家の「事実と主張が違う」という“手口”をしっかり学ぶ必要があると考えます。

7月7日、ソ連抜きで開催された国連安保理は、「北朝鮮を侵略者」として認定し、アメリカ軍を主体に国連軍を組織します。トルーマンは、改めてマッカーサーを国連軍司令官に任命し、イギリス、フランス、カナダなど16カ国が国連軍に参加します。

さて、前回触れました我が国の“赤狩り”は、「朝鮮戦争」の進展とほぼ同時並行して行われました。事実、マッカーサーが共産党の「アカハタ」発行停止命令を下したのは、「朝鮮戦争」勃発の翌日の6月26日でした。マッカーサーが、この“2正面作戦”を強いられたのは偶然ではありません。

マッカーサーは、「自衛のための武力も禁止」と憲法に書き込み、「ひ弱な日本をここまで理想の国に創り上げたのは自分の業績だ」と誇っていたものの、国内では共産主義が芽吹き、海の向こうでは、毛沢東が大陸を乗っ取り、満州を征服し、ソ連が東ヨーロッパを共産化し、原爆をも成功させ(1949年9月)、さらには、北朝鮮を武装化して朝鮮半島全体を制圧しようとしているのです。

まさに、“読み”の甘さが暴露されたのですが、マッカーサーは、それをひた隠しにしつつ“強硬路線”に転じます。しかし、それが慎重なトルーマン大統領はじめ米国当局と意見の不一致を生む原因にもなり、やがて命取りになります。

国連軍は、8月には半島南端の釜山付近まで追い詰められますが、マッカーサーはただちに反撃に出ます。9月15日、「天才的」といわれる作戦能力を発揮し、第10軍団を編成して7万人の戦力をソウル近郊の仁川港に上陸させます。本作戦について、国防省は「干満の差が5メートルもある仁川港は上陸不可能」と大反対し、(同じ考えからか)北朝鮮も守備隊を配置していなかったのです。

大きな賭けに勝ったマッカーサーは、北朝鮮軍を背後から攻撃させ、これを撃破、ソウルを奪還します。北朝鮮軍は一転して敗走を重ね、10月半ばには平壌からも撤退します。

米軍を中核とする国連軍と韓国軍は、中朝国境に向けて快進撃を続け、北朝鮮の敗北によって、念願の南北統一が実現するかのように見えた、まさにその時でした。毛沢東は、予てからの金日成との約束どおり、30万人超の人民解放軍を(表向きは「義勇軍」という形で)一挙に投入し、再び国連軍を38度線以南に押し戻します。これまでが「朝鮮戦争」前段の概要です。

▼「朝鮮特需」と「警察予備隊」創設

「朝鮮戦争」は、のちに「北朝鮮の侵略を挑発した一要因に、日本が『単独平和条約』を締結しようとした動きがあった」(アチソンやジョージ・ケナン氏)との分析もあるように、その原因でさえ、我が国の国内状況と密接に関係していました。

そして「朝鮮戦争」そのものが、占領下の我が国に及ぼした影響は計り知れないものがあります。中でも、我が国は、米軍から大量の軍事物資の注文を受けた結果、「朝鮮特需」が発生し、瀕死状態であった我が国の経済に生命を吹き込み、一挙に蘇ります。

その総額は、1950年当時のGDP3兆9470億円の約3分の1に相当する1兆3千億円の巨額に及びました。

マッカーサーはまた、在日米軍を急遽、朝鮮半島に出動させなければならず、その空白を埋めるための処置として、7万5千人の「警察予備隊」の創設と海上保安庁の8千人の増員を指令します。

この指令に基づき、吉田首相は、“国会にかけずに”「ポツダム政令260号」として警察予備隊の創設を強行します。ここでいう「ポツダム政令」とは「GHQによる間接統治の形態として、GHQの要求を日本政府が命令の形にして国民に伝えるもの」を言います。

これがやがて日本の再軍備に繋がることは容易に予期できたはずですが、この時点になっても、吉田は、「これは治安確保のためのもので再軍備とは何の関係もない」と公式に発言し、予備隊の幹部も旧軍人を排して警察出身者で固めます。マッカーサー自体も依然として「日本に必要なのは国内治安能力だけで、再軍備は不必要」と考えており、二人の考えは一致していました。

▼再び、「対日講和」締結の動き

さて、中国共産軍の介入で国連軍が総崩れになり、ソウルの南側で戦線を再編成していた1951年1月、ダレスが再び日本に到着します。ダレスは「朝鮮戦争が起こったからこそ、自由主義陣営のパートナーとして日本との講和を急ぐ必要がある」と主張して、「このような時期、対日講和は後回し」という論を退けます。

ダレスは、“早く独立したい”吉田に対して、「日本は自由世界の強化にいかなる貢献ができるか」と問うと、吉田は「まず独立してからの話で、その質問は尚早である」と答え、マッカーサーも「自由世界が日本に求めるものは軍事力であってはならない。それは実際的でない。日本の持っている軍事生産力や労働力をフルに活用し、自由世界の増強に活用すべき」と吉田の側に立った発言をします。

歴史の「if」として、「マッカーサーがダレス側に立った意見を述べたら、吉田はどのように反応したのだろうか」とつい興味を持ちますが、後に、保守派が吉田を持ち上げて命名した「吉田ドクトリン」(経済に専念し、軍備を最小限にする政策)について、岡崎久彦氏は、「吉田は、ドクトリンなどに最も遠い世俗的人物である。『マッカーサー・ドクトリン』という方がはるかに正しい。吉田がやったことはマッカーサーの思想や表現を忠実に守り、そこから外れないように細心の注意を払っただけである」と指摘しています。これこそが「史実」と考えます。

▼マッカーサー解任

さて「朝鮮戦争」に戻りましょう。司令官として国連軍を指揮し、実際に「朝鮮戦争」を戦ったマッカーサーは、北朝鮮の背後にいるソ連や中国という共産主義国家の脅威を感じます。そして「もし朝鮮半島を失えば、極東での米国の防衛戦は失われ、西海岸まで後退してしまう」と、「朝鮮半島や台湾はアメリカの“防衛ラインの外”である」としたアチソン・ラインとは別の見方をします。

字面だけを見れば、「自衛力のない日本を米国だけでは守れない」として、これまでの考えを180度覆したように見えますが、朝鮮半島を死守しつつ、大陸の中国・ソ連と対峙するという、日清・日露戦争以来の我が国の防衛戦略について、自ら「朝鮮戦争」を戦ってみて、マッカーサーは初めて理解したと解釈すべきでしょう。

マッカーサーは焦燥し、ついに暴走します。“原爆の使用を含む”「中国本土攻撃も辞せず」と公言し、中国を挑発します。

「朝鮮戦争」が膠着する中、第3次世界大戦になることを恐れて和平工作を模索していたトルーマンは、マッカーサーの発言に激怒し、1951(昭和26)年3月24日、日本の占領統治を含むマッカーサーの全軍職を解任します。

一般には、上記のように、「原爆の使用」の発言が解任の理由とされていますが、「原爆の使用」については、1950年11月30日、トルーマン自身が中国に対するおどしのために「必要とあらば中国共産軍に対して原子爆弾を使用することも考えている」と発言しています。

解任の真相は、マッカーサーが「アジアで共産主義の戦いに敗れれば、欧州の崩壊まで避けられない」として「アジアにおいて“第2戦線”を展開するために台湾の蒋介石軍の使用を望んでいたことにある」とする説があることを紹介しておきましょう。

この考えこそが、トルーマンの逆鱗に触れ、アチソン国務長官やマーシャル国防長官(なぜか、またしてもこの二人の名前が出てきます)の進言もあって解任に踏み切ることになります。

この一報を東京のラジオ放送で聞いたマッカーサーは、妻に向かって「どうやらやっと帰国できるよ」と語ったといわれます。(以下次号)

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