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「我が国の歴史を振り返る」(66) 占領政策の変化と「東京裁判」

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▼はじめに

 「新年おめでとうございます」との挨拶がはばかられるように、正月早々益々感染が拡大し、再び「緊急事態宣言」が発令される事態になりましたが、読者の皆様はいかがお過ごしでしょうか。

すでに高齢者であり、なにがしかの持病を持っている私は、緊張感の日々を送っていますが、それでも「中国発のコロナなどに負けない!」と気合を入れつつ、努めて人混みを避け、外出時のマスクはもちろん、毎日1度の検温と数度の手洗いを欠かさず、知人に教えてもらった免疫力を高める食べ物を意識して摂取するなど“万全な対策”に余念がありません。また、抗体検査キッドを取得し、地方に出かける時などは必ず、自ら検査を実施し、「陰性」を確かめております。

国も自治体も日々の数値を追いながら暗中模索の中で政策判断をして対処していますが、それもそのはずです。スペイン風邪が流行してから100年の歳月が流れました。専門家や有識者と言えども、これほどのパンデミックを経験しておりません。遅いの早いの不徹底だのと批判する人達は、それが仕事とはいえ、あまりに第三者的で、軽率で、かつ無責任だと考えます。

これまでの所、我が国の対応は、国家の強制力が法制化されていない中にあって、感染者や死亡者の数値が欧米列国等と比較して極端に少ないことなどから、決して間違っていないと考えます。

歴史を研究した身から、私は「あの頃もこうしてマスコミが大衆を扇動して世論を形成し、為政者の判断を狂わしたのだろう」と、つい戦前の我が国の状況に思いが走ります。

このような時こそ、医療従事者などコロナ対応に命を賭けて奮闘しておられる人達に感謝しつつ、一人でも多くの人達と強い絆を保持し、助け合い、励まし合って生き抜くことが大事と思います。まだ出口は見えないですが、皆様、しばらく間、忍耐力をもって頑張りましょう。

▼占領下日本の“潮”の変わり目

 さて、昨年の最後は、中国共産党政権誕生の“秘話”を取り上げましたが、その影響を含め、再び占領下の国内事情を振り返りましょう。

占領下にあった我が国の終戦翌年(昭和21年)は、実は「まるで共産革命の前夜を思わせるような1年間だった」(岡崎久彦氏)ようです。  

獄中18年の徳田球一や志賀義男が釈放され、中国から野坂参三が帰国し、「赤旗」を再刊した共産党の威勢は、占領軍の庇護下にあったことから天下に憚るものがありませんでした。一般国民は共産党を猜疑の目で見ながらも「抵抗できない」と感じていたのです。

労働組合の発展も目覚ましいものがあり、昭和20年暮れには38万人だった組織労働者が21年暮れには560万人、23年のピーク時には670万人まで膨れ上がりました。その労働組合の3分の2以上を共産党が押さえ、かつ労働争議中の行為は刑法上の責任を問われない状況だったのです。さながら、どこかの国の「愛国無罪」と似たようなものだったと推測します。

戦争が社会の平等化をもたらし、民主化の基盤を広げるのは世界共通の現象ですが、この後の占領軍の急ブレーキがなかったら「日本の左傾化はもっと進んだろう」といわれます。

260万人を擁する政府・国営企業関係の組合は、共闘会議を組織して「昭和22年2月1日を期して、待遇改善を要求する無期限ストに入る」(「二・一スト」)ことを決定します。鉄道も郵便も無期限に泊まるという非常事態です。巷では、人民内閣の閣僚名簿なるものまで流布されたようです。

しかし、共産党の革命機運の昂揚期はこれがピークでした。GHQが介入を決意するのです。GHQは、組合側の要求に対する政府側の妥協案を作らせ公表します。そして、共闘会議議長に対して銃口の下の威嚇と説得をもって「スト中止」を命じ、放送させます。この結果、革命昂揚の波はたちまちにして引いてしまいます。

戦後の多くの日本人の記憶にも残っていないと推測しますが、我が国にも、戦前の反動ともいうべき「革命前夜」と言われるような“一瞬”があったのです。

▼GHQ内の対立とマッカーサー

さて、これまで紹介しましたような国際社会の動き、すなわちチャーチルの「鉄のカーテン」演説や「トルーマン・ドクトリン」の発表、さらには、中国大陸では国共内戦などもあって、GHQも米国本国も異なる意見の対立が益々深まっていきます。

つまり、理想主義的な考えの元に、「過去の日本をすべて悪ととらえ、抜本的な改造を強力に推し進めよう」とした民生局のホイットニー局長やケーディスらに対して、「ソ連をはじめとする共産主義との対決をアメリカの対外政策の主要課題とする」との現実主義的な考えを持つ占領軍情報部(GⅡ)のウイロビー部長や第8軍のマイケルバーガー司令官らが対立し始めます。

その後の歴史を観れば、どちらの判断が正しかったはあまりに明白ですが、この対立は、「二・一スト」以降の約2年間、ケーディスらが敗れて辞職するまで続けられます。

それでは、理想主義者と現実主義者達の間に立っていたマッカーサーの心境はどのようなものだったのでしょうか。当時のマッカーサーは、翌年(1948年)の大統領選挙が頭にあり、“リベラル派からの指示や批判も考え、様々な占領政策の手を打っていた”との事実が残っています。

例えば、「二・一スト」時のGHQの労働担当官をその後に更迭し、本国の労働組合から高い支持を得ている担当官を任命します。再軍備論の論争も大統領選を睨んでいたといわれますが、マッカーサーは、ゼネスト禁止3日後、新憲法下で初の総選挙の実施を吉田首相に示唆します。この結果、昭和22年4月25日、総選挙が行われ、結果は、社会党143、自由党131、民主党124となり、吉田は野に下り、日本の憲政史上唯一の社会党内閣である片山哲内閣が組閣されます。

民生局にとっては待ちに待った政権で、組閣にも口を出したようです。しかし、吉田が予想したように、少数与党内閣はわずか3カ月しか持たず命脈を絶たれます。それでも民生局は、政権を吉田に渡さず、「GHQのご意向」ということで芦田内閣が成立します。その芦田内閣も昭電疑獄事件で倒れます。裏に情報局の工作があったといわれていますが、このようにして、再び、吉田単独少数内閣が誕生します。

この頃、米国の対外政策は、冷戦の激化を反映して急激に変わりつつありました。その推進力となったのは、陸軍省、そして陸海軍を統合して新設された国防総省、さらには国務省の政策企画室などでした。当然ながら、ニューデーラーやリベラル派はこぞって抵抗します。そのような中、実際に米国の対日政策を転換させたのは、元駐日大使のジョセフ・グルーらジャパン・ロビーだったとの分析もあります。

彼らは、「日本の占領政策は、共産主義に対抗する『極東の砦』としての日本の潜在的な能力を損ねてしまった」として「日本の占領は、失敗に次ぐ失敗だった」と断言するのです。

これに対して、大統領選挙を意識した上、人一倍プライドの高いマッカーサーは、「大統領選がらみの政治的陰謀だ」と激しく反発します。しかし、米本土の方針は、この時点で「日本経済の早期復興の促進」に固まりつつあったのです。

しかも、1948(昭和23年)の大統領選挙の共和党候補は、マッカーサーの期待に反して、トマス・E・デューイに決まります。こうして、マッカーサーの政治的野心は絶たれ、リベラルな世論に迎合する必要もなくなります。

「アメリカの大統領選挙の帰趨にGHQの占領政策が振り回されていた」とは、にわかには信じがたいですが、この後の占領政策は、その“行き過ぎの是正”に向かって加速されます。その結果、財閥解体や警察力の地方分権化、公職追放などが見直されることになります。

▼天皇退位論

 周辺情勢などをよそに、この間も「東京裁判」は続けられましたが、その終盤、「天皇の退位論」が浮上し、重大な局面を迎えます。発端は、昭和23年5月、初代最高裁所長官の三淵忠彦が「陛下はなぜに自らを責める詔勅をお出しにならないのか」との発言が海外に誤伝されたのをきっかけに、東京大学南原茂総長が退位を公言するなど、当時の芦田均首相も浮足立ったといわれます。

この頃の天皇は、自らの「不徳」を認識しつつも最後まで国民と苦楽を共にしようと決意されていたといわれますが、その心境は穏やかではなかったことでしょう。

このような中、皇位を守ったのは大多数の国民でした。昭和23年8月の読売新聞の世論調査では「天皇制度があった方がいい」が90.3%、退位問題については「在位された方がいい」が68.5%となり、「皇太子に譲られた方がいい」の18.4%を圧倒的に上回るなど、新聞に出てくる著名人が退位論を振りかざす中、一般国民は全く逆の意見を持っていたのでした。

当惑したのはGHQでしたが、9月、①天皇は依然最大の尊敬を受け、近い将来退位するようなことは考えられない、②天皇退位のうわさは共産党や超国家主義者の宣伝によるものである、③天皇の統治を受けることが日本国民及び連合国の最大の利益になる、と発表し、退位論は沈静化します。

▼「東京裁判」の結果と打ち切り

さて、「東京裁判」は、昭和23年11月、判決が言い渡されます。その結果、A級戦犯28名のうち、7名の絞首刑をはじめ全員(病死、精神障害などを除き)が有罪判決となりますが、判決理由はありませんでした。無罪判決とその理由と証拠を明らかにしたのは、11名の判事中、有名なパール判事ただ一人でした。

ちなみに、B級戦犯は、横浜やマニラなど世界49カ所で軍法法定が開かれ、被告人総数は約5700名、うち死刑984名、無期刑475名、有期刑2944名、無罪1018名の判決が下さました。

また、実際のA級戦犯容疑の逮捕者は、軍の高官のみならず政財界から幅広くリストアップされ、第1次から第4次戦犯指名まで総勢126名(15名の外国人含む、うち5名は逮捕前に自殺)を数えました。しかし、昭和23年12月、ニュージーランドが裁判の打ち切りを主張し、アメリカもそれに同調、極東委員会で承認されたような格好で翌年6月、裁判は打ち切られます。

“冷戦の激化で裁判どころではなかった”というのが真相と考えますが、幸運にも裁判を免れ、無罪放免された戦犯リストには、戦後の政界、財界、マスコミ会などにおいて、“戦犯容疑で逮捕された事実”などなかったかのような大物ぶりを発揮した人達がたくさんおります。

▼「東京裁判」の評価

「裁判打ち切り」という“不公平”からしても、「東京裁判」がいかにひどい裁判だったかは明白ですが、中でも、最大の欠陥は、「平和に対する罪」の訴因第1の文言である「“共同謀議”で数々の不法な戦争を行った」として、「共同謀議者は政府を支配し、その目的を達成するために計画された侵略戦争に向かって、国民の精神と物的資源を準備し、組織を統制した」との判決の要旨です。

このため、「田中上奏文」という“偽書”まで引用しますが、この疑いに対して、どの被告も冷笑し、苦笑し、憫笑(びんしょう)したとされ、被告誰一人として納得したものはおりませんでした。

その光景が目に浮かぶようですが、素人の目からみても、裁く側が被告人から、“あわれみ、さげすまされて笑われる”裁判のどこに正義があるのか、と考えたくなります。

そのはずです。昭和初期以降の日本政府には、一貫した政策やきちんとした計画など全く存在せず、その場その場で「国益に照らして良かれ」と思ったことをどうにか実施してきただけで、言葉を代えれば、“時の政府の最大の怠慢”と言っていい事実と判決要旨は全く相反していたのでした。

GHQの情報部長のウイロビーは「この裁判は史上最悪の偽書である」と語ったとの記録も残っていますが、当時からGHQ内にさえ、この裁判に疑問を持つスタッフがかなり存在していました。

いつの時代も戦争の勝敗は“時の運”が左右し、正義とか不正義とか別次元の問題です。勝利したがゆえに正義というわけではありません。正義を決定付けるのは法であり、国と国の関係では国際法です。「東京裁判」も当初、「国際法にのっとって裁く」と宣伝しましたが、国際法には「戦争そのものを犯罪とする」との規定はどこにもないのです。

人類の歴史上、戦争そのものは国際法の領域外におかれているからです。まして戦争を計画し、準備し、遂行したとの廉(かど)で個人が裁かれるというような規定はどこにも存在しません。

「法律のないところに裁判はなく、法律のないところに刑罰はない」というのが法治社会の初歩的な原則です。“法律なくして人を裁く”のは野蛮時代の私刑(リンチ)と変わらないのです。

唯一、「日本無罪論」を主張した印度のパール判事は、「連合国は、東京裁判によって、日本が侵略戦争を行ったことを歴史にとどめることによって、欧米列国による侵略を正当化し、日本に過去の罪悪の烙印を押すことが目的だった」と欧米列国の植民地支配の“非”を責め立てました。

さらに、「復讐の欲望を満たすために、単に法律の手続きを踏んだに過ぎないというようなやり方は、国際正義の観念とはおよそ縁遠い。このような儀式化された復讐は、瞬時に満足感を得るものだけであって、究極的には後悔をともなうことは必然である」と厳しく批判しました。(以下次号)

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